私はアメリカをこのように見ている:
渡部亮次郎氏のメルマガ「頂門の一針」3462号にt様から私の投稿について下記に引用するコメントがありましたので、その件で一寸長い一言を。
>引用開始
前田 正晶氏の論考より
アメリカという国はこれまでに何度も指摘してきたように、外部からは「(人種を含めて)差別がある国」とする傾向がある。私はその状況を縦と言うよりも横一列に多くの階層が並んでいる国で、その複数の階層を横に貫通する串がない国」と形容してきた。 引用終了
”縦と言うよりも横一列に多くの階層が並んでいる” アメリカの人種社会を表現する、この一言には新鮮な驚きを頂いた。当初は?であったが読み進めていく内に腑に落ちて氷解しました。と共に、「絶妙な表現だ」と感じた次第。
この件は……と形容してきた。と述べられているから、わたくしが過去記事で見落としていたのか?、多分そうなのだろうが始めて見た表現で、何処の何方も、そして、世にいう評論家も述べていないと思う。通常、この話題は、重層的な人種構成…と説明されて終わるのが殆ど。
”極論的に言えば、大統領は云々………彼等を統治せねばならない任務を背負っている」のであると考えている”この段落には納得しました。付け加えれば、自称アメリカ屋である評論家の加瀬氏(主宰者の友人)が、折々の転換点で振り子の様に一極に揺れるアメリカと表現する局面での、”そのような役回りを背負わされている”でしょうか。
>引用終わる
3462号のt様の投稿を興味深く拝読し、そのお言葉に敬意を表します。
私が興味を感じた点は加瀬英明氏を採り上げておられた辺りです。加瀬氏が高名な評論家であるのは疑いもないことでしょう。一方、私は一部には「英語屋」ないしは「アメリカ家」と言う有り難くないようで有り難い札を貼られた経験もあります。
もし加瀬氏との間の違いを挙げよと言われれば「私はアメリカ人の会社で嘗てはトリプルAに格付けされ、Forbesで40位以内に入っていた私がリタイヤーした時点で45,000人の従業員を抱えた大手企業で、アメリカの為にアメリカ人の思想と哲学と論理に従って(抵抗はあったものの)22年余りもアメリカのために働いてきた経験があるということ。こういう経験者、ないしはもっと長い年月アメリカ人の会社で彼等の指揮下で働いてきた方はおられるでしょう。
しかし、アメリカの会社での経験を基にして、彼我の文化と思考体系の違いを論じる機会を与えられ、多くの異なった場で発表の機会を得た人は少ないと思います。もっと簡明直截な表現を使えば「加瀬氏はアメリカ人に雇用された経験をお持ちではなく、その豊富な海外での留学と社会的に地位が高い方々との交流を通じて、そのご経験から論じておられる点が私との違いか」と思うのですが、間違っているでしょうか。
私は再三アフリカ系アメリカ人と膝つき合わせて語る機会などなかったと言ってきました。それは属していた階層が異なっているからと説明できるので、縦にも横にも他の階層とは交流の機会もな買ったのです。また、Forbesで100位以上の会社が本社のこれという部署にアフリカ系以外でも採用する機会は希だと言うことでもあります。私はアメリカ人の社交性の高さと社交辞令を巧みに行使することを何度も指摘してきました。その社交性の巧みさは我が同胞には期待できないし、また容易に真似できないでしょう。
彼等はその社交性の高さと言葉の操り方の巧みさで、階層の違いなどを微塵も意識させず感じさせもない扱いをしてみせるのです。故に、彼等の文化と社会構造を知らないと、簡単に言わば騙されて「自由・平等で差別もない素晴らしい国」という錯覚(幻想)を起こさせられると思っています。
私がこのような我が国との大きく且つ多様な相違点をこれまでにある程度は突っ込んで語ってきましたが、広範囲に纏めた語ったことはないと思います。だが、書き上げたものをお読み願う場合に、我が国の方式で固めたアメリカに対する先入観を捨ててお読み願わない限り、違和感が出てくるのは確実だと思います。それは彼等の中で違いを知らざるを得ない立場にいた者が言うことを、いきなり読まされても当然のことで、疑問符ばかりになってしまうでしょうから。
1990年に本社事業部で志願して語った”The cultural differences existing between Japan and US business society”は90分を超えました。しかし、これだけではとても語り尽くせないと思う違いが歴然として残るのです。W社8代目のCEOのGeorgeの後継の一族ではないCEOは、シアトルの街中で出会った東京事務所の一マネージャーである私を知っていて拾って、社長自らが運転する自分の真っ赤なPorsche(ポルシェ)に乗せて本社まで40分かけて送り、後から後から質問攻めにして私のアメリカと会社と日本市場に対する考えと知識を知ろうとしました。冷や汗の40分でした。アメリカの会社の経営者にはこういう一面があるのです。
我が国の大手企業の社長がこういう振る舞いをするかと思う時に、文化の違いを痛感します。何れが良いか悪いかを論じる気はありません。だが、こういう違いを事細かに語れば一冊の本では収まいきらないかと危惧します。しかし、それとてもアメリカの全人口の5%程度かと言われるアッパーミドル以上の層を語っているに過ぎないのでしょう。私は他の層との接触がありませんので、自分の経験から語る材料の持ち合わせがありません。それでもアメリカ通の如くには振る舞えるビジネスの世界とそこに属するアッパーミドルの人たちに関する知識はあると言えるのでは。
言葉を換えれば、我が国に広まっている「アメリカ」を、私はそれ以外の芸能・音楽・スポーツ・ファッション・Ivy League・政治と外交・今や少数とは言えないMinorityを綜合して言っていると思えるのです。それでは目が不自由な方たちが象の一部を撫でて「これが象だ」というのと同じかと思うのですが。
渡部亮次郎氏のメルマガ「頂門の一針」3462号にt様から私の投稿について下記に引用するコメントがありましたので、その件で一寸長い一言を。
>引用開始
前田 正晶氏の論考より
アメリカという国はこれまでに何度も指摘してきたように、外部からは「(人種を含めて)差別がある国」とする傾向がある。私はその状況を縦と言うよりも横一列に多くの階層が並んでいる国で、その複数の階層を横に貫通する串がない国」と形容してきた。 引用終了
”縦と言うよりも横一列に多くの階層が並んでいる” アメリカの人種社会を表現する、この一言には新鮮な驚きを頂いた。当初は?であったが読み進めていく内に腑に落ちて氷解しました。と共に、「絶妙な表現だ」と感じた次第。
この件は……と形容してきた。と述べられているから、わたくしが過去記事で見落としていたのか?、多分そうなのだろうが始めて見た表現で、何処の何方も、そして、世にいう評論家も述べていないと思う。通常、この話題は、重層的な人種構成…と説明されて終わるのが殆ど。
”極論的に言えば、大統領は云々………彼等を統治せねばならない任務を背負っている」のであると考えている”この段落には納得しました。付け加えれば、自称アメリカ屋である評論家の加瀬氏(主宰者の友人)が、折々の転換点で振り子の様に一極に揺れるアメリカと表現する局面での、”そのような役回りを背負わされている”でしょうか。
>引用終わる
3462号のt様の投稿を興味深く拝読し、そのお言葉に敬意を表します。
私が興味を感じた点は加瀬英明氏を採り上げておられた辺りです。加瀬氏が高名な評論家であるのは疑いもないことでしょう。一方、私は一部には「英語屋」ないしは「アメリカ家」と言う有り難くないようで有り難い札を貼られた経験もあります。
もし加瀬氏との間の違いを挙げよと言われれば「私はアメリカ人の会社で嘗てはトリプルAに格付けされ、Forbesで40位以内に入っていた私がリタイヤーした時点で45,000人の従業員を抱えた大手企業で、アメリカの為にアメリカ人の思想と哲学と論理に従って(抵抗はあったものの)22年余りもアメリカのために働いてきた経験があるということ。こういう経験者、ないしはもっと長い年月アメリカ人の会社で彼等の指揮下で働いてきた方はおられるでしょう。
しかし、アメリカの会社での経験を基にして、彼我の文化と思考体系の違いを論じる機会を与えられ、多くの異なった場で発表の機会を得た人は少ないと思います。もっと簡明直截な表現を使えば「加瀬氏はアメリカ人に雇用された経験をお持ちではなく、その豊富な海外での留学と社会的に地位が高い方々との交流を通じて、そのご経験から論じておられる点が私との違いか」と思うのですが、間違っているでしょうか。
私は再三アフリカ系アメリカ人と膝つき合わせて語る機会などなかったと言ってきました。それは属していた階層が異なっているからと説明できるので、縦にも横にも他の階層とは交流の機会もな買ったのです。また、Forbesで100位以上の会社が本社のこれという部署にアフリカ系以外でも採用する機会は希だと言うことでもあります。私はアメリカ人の社交性の高さと社交辞令を巧みに行使することを何度も指摘してきました。その社交性の巧みさは我が同胞には期待できないし、また容易に真似できないでしょう。
彼等はその社交性の高さと言葉の操り方の巧みさで、階層の違いなどを微塵も意識させず感じさせもない扱いをしてみせるのです。故に、彼等の文化と社会構造を知らないと、簡単に言わば騙されて「自由・平等で差別もない素晴らしい国」という錯覚(幻想)を起こさせられると思っています。
私がこのような我が国との大きく且つ多様な相違点をこれまでにある程度は突っ込んで語ってきましたが、広範囲に纏めた語ったことはないと思います。だが、書き上げたものをお読み願う場合に、我が国の方式で固めたアメリカに対する先入観を捨ててお読み願わない限り、違和感が出てくるのは確実だと思います。それは彼等の中で違いを知らざるを得ない立場にいた者が言うことを、いきなり読まされても当然のことで、疑問符ばかりになってしまうでしょうから。
1990年に本社事業部で志願して語った”The cultural differences existing between Japan and US business society”は90分を超えました。しかし、これだけではとても語り尽くせないと思う違いが歴然として残るのです。W社8代目のCEOのGeorgeの後継の一族ではないCEOは、シアトルの街中で出会った東京事務所の一マネージャーである私を知っていて拾って、社長自らが運転する自分の真っ赤なPorsche(ポルシェ)に乗せて本社まで40分かけて送り、後から後から質問攻めにして私のアメリカと会社と日本市場に対する考えと知識を知ろうとしました。冷や汗の40分でした。アメリカの会社の経営者にはこういう一面があるのです。
我が国の大手企業の社長がこういう振る舞いをするかと思う時に、文化の違いを痛感します。何れが良いか悪いかを論じる気はありません。だが、こういう違いを事細かに語れば一冊の本では収まいきらないかと危惧します。しかし、それとてもアメリカの全人口の5%程度かと言われるアッパーミドル以上の層を語っているに過ぎないのでしょう。私は他の層との接触がありませんので、自分の経験から語る材料の持ち合わせがありません。それでもアメリカ通の如くには振る舞えるビジネスの世界とそこに属するアッパーミドルの人たちに関する知識はあると言えるのでは。
言葉を換えれば、我が国に広まっている「アメリカ」を、私はそれ以外の芸能・音楽・スポーツ・ファッション・Ivy League・政治と外交・今や少数とは言えないMinorityを綜合して言っていると思えるのです。それでは目が不自由な方たちが象の一部を撫でて「これが象だ」というのと同じかと思うのですが。