新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

ワールドシリーズと日本シリーズとの違い

2014-10-26 17:20:02 | コラム
悲壮感漂う日本シリーズ:

昨25日は午前中にアメリカはMLBのローヤルズ対ジャイアンツのワールドシリーズ(Wシリーズ)の第4戦目を途中まで見てから、別途に論じた第995回武藤記念講座参加のため外出し、帰宅後の18時からは日本シリーズ(Nシリーズ)の第1戦を最後まで観戦した。

Wシリーズの方は第3戦目までを少しは見てあったし、過去のシリーズの試合を見た経験からも言えることで、言うなれば「力と力の壮烈なぶつかり合いで、目に物見せてくれるぞ」という悲壮感などは希薄であり、それなりの緊張感を見せるものの勝つためには力の限りを尽くすというゲームの展開である。時には選手たちが感情も露わに衝突もするが、感情論には先ず流れていかない。

一方の我が国の野球は何処まで行っても甲子園野球の延長線上にあり、と言えば野球関係者から白状が来るのはほぼ間違いないと思っている。その意味は甲子園の野球は地方予選を勝ち抜いてきたとは言え、言うなれば”sudden death”のトーナメント方式なので、一試合ごとに負ける訳にはいかないと慎重に事を運んで、少しの機会でも逃さないように犠牲を払うバントで走者を得点圏内に送っていこうとする作戦を指すのである。細かく丁寧な試合運びだ。

そこに漂う非常に緊張した悲壮感まで漂う感覚はアメリカではあり得ないことで、言うなれば玉砕戦法式に「次なる作戦はなく、鍛え抜いた練習の成果を期待しており、失敗な許されない」という感覚の厳しい試合なのだ。一方のアメリカ式では力と力の勝負であり、最初のプランが失敗した場合に備えて第二の作戦が用意されている世界だ。この辺りが私が常に指摘する”contingency plan”があるゲーム運びである。

アメリカ式を極論的に言えば、何処まで行ってもビジネスであり、大雑把であるとも形容したいほど個人の技量に賭けており、各人もまた「やってやろうじゃないか。見ていろよ」という感覚で試合をしている。我が国のような「ティームの為に、苦労してきた皆のために」であり、言うなれば我が身を犠牲にすることを厭わない美しい精神を持って戦っているのだ。アメリカ人はこういう個人の世界を「個人のcredit」等と言っている。我が国ではかかる個人のためという精神ではスポーツをしていないと思う、特に事全国大会やNシリーズともなれば。

話しが長くなった。そういう精神とよって来たるところが違うシリーズでありながら、昨夜はTBSで北野武が「メッセンジャーとスタンリッジ(本当はスタンドリッジだろうが)が投げ合い、ゴメスとマートンが打って、呉が試合を締めたと言うが、外国人ばっかりで日本シリーズか」と皮肉っていたのがとても印象的だった。

「格差とは」の加筆訂正版

2014-10-26 14:48:54 | コラム
今朝ほどエントリしたものを加筆訂正して掲載します。

私は昨25日に全く思いもかけなかったご縁で、この由緒正しき講座を拝聴する機会を得た。講座の演題は「為政者はかくあるべき-理想の国家像の実現を目指して」であって、パネラーは自民党の船田元代議士と民主党の長妻昭代議士だった。約2時間半の討論の内容はそれなりのもので無難な線であったが、告白すれば私は現職代議士が語るのを直接生で聞いたのは初めてだった。

質疑応答に移ってから「話題に上っていた格差とは何か。その定義は一般論としても不明確だ」という質問が出た。討議された話題の中には「格差が広まりつつあるのは良いことではない。だが、共産主義国ではない以上悪平等もあってはならない」があったので、かかる疑問が呈されたのには興味深いと思って聞いていた。両代議士の答えには目新しいものはなかったと記憶する。「格差が生じるのは仕方がない面があるが、その拡大はあってはならない」辺りだったか。

私は格差社会の最先端を行っているかと思うアメリカの、それも(20世紀末までは)アメリカどころか世界最大級の紙パルプ・林産物産業の会社に勤務していたので、言うなればその格差の頂点かそれに近い位置にいた人たち(私は全米の5%としたが)の中で働いていたと思っている。だが、私は偶々そういう会社に転身しただけであって、他の階層の実態など知り得るはずもなく、また格差国の中にいたという意識すらなかった。

ではあっても、それなりに自分が属していた会社以外の層に属する人々にも触れるか機会もあったし、社内で出世の軌道(speed track等と言うが)とは全く縁のない諦観の世界に入ってしまった人たちとも語り合うこともあった。彼等は「差を付けられているのは当たり前で、speed trackに乗っているか昇進してしまった連中は、望んでそこに行ったのである。自分はそれを望んでいなかったのだから差が付くのは当然。現在の身分と収入で十分」等と言うのだった。

このようなことを言う人は我が国の企業世界には滅多にいないと思うし、それのみならず未だアメリカ式の”speed track”は存在していないのではと思うのだ。我が国では有名大学など出なくとも入社後の努力が報いられて役員にもまたそれ以上の地位に昇れる機会は十分に温存されていると思う。ここに言うspeed trackとは有名私立大学のMBAやPh.D.を持って入社してくる幹部候補生が乗っていく軌道を指している。

上記のぼやきは「格差を付けてみせつけられる」層と言うか、そういう世界に入っても圏外にいる人が言うことで、彼等がいる世界以外の層との格差などを考えて言っている訳ではないだろう。繰り返して指摘してきたことだ、アメリカという国では横並び一列と形容した複数の層の間の移動は希であり、各人が生まれながらに属してしまった層と、他の層との違いや収入面の開きを容易に埋めて行けない世界だなと割り切って眺めてきた。

そういう国である以上、我が国に広まりつつある格差を論じる際の基準にはならない国だと思っている。我が国はアメリカとは比較にならない自由であり平等が保証されており、勉学等に真剣に励めば政治・経済・学問等の分野で身分の垂直上昇は言うに及ばず、それぞれの場で世界的権威になれる機会が与えられているではないか。この状態を称して民主的かあるいは悪平等だ等と言う意見すらある。

私はアメリカには「雇用機会均等」の法律(Equal employment opportunity)があって平等(特に男女間の)を保証していることの裏面には「そうではなかった」と問われず語り?をしていることに他ならないと思っている。申し上げたかったことは「我が国における格差の広がりなどはアメリカと比較すれば未だ未だ小さいのではないか」なのである。

「格差拡大論」からは少し外れたかも知れないが、昨日「格差とは」との質問が出たのを聞きながら以上のように考えていたのだった。私は我が国における格差はアメリカとは異なって各層が縦型に並んでいて、才能と努力次第では学歴も関係なく身分も地位も垂直上昇の機会が残されている極めて公平な世界があるのだと信じている。

以下が加筆部分:

ここまでをさらに補足して言えば「アメリカでは最初から社会の構造に格差が組み込まれている」と思っている。即ち、我が国のようにアメリカ式の貧富や身分や人種の差別がない国で格差が生じ始めたのとは、根本的に違いがあるのだ。いえ、大違いだろう。少なくとも、私が勤務した2社での経験から層としか認識できなかった。

私は「アメリカとはその低収入の層から脱するためには音楽、芸術、プロスポーツ等の世界に出ていくのか極めて有効な手段である国だ」と見ている。私は「我が国は努力次第で身分の垂直上昇もあれば収入の大幅な増加も獲得出来る(可能になる)、平等がある程度以上保証されている世界がある」と認識している。そもそも日米間では「格差」の質が異なるのだ。

何時だった見る機会があった、サンフランシスコのハイヤットリージェンシーの裏の広場で帽子を置いて投げ銭に期待してブレークダンスをやって見せていた白人とアフリカ系の人たちが、何時の日にかあの町の”Financial district”(金融証券街)に20数万円のスーツを着て高級なブリーフケースを持って闊歩することなどあり得ない世界だ。一方の我が国では「絶対にあり得ない」と断定できないのではないか。その違いだろうと思う。

私が見た限りのアメリカでは大手企業の世界には入れても、そこで天文学的な収入を得ることが出来るspeed trackに乗れる者の数は最初から限定されているだろう。しかも「そういう連中は別だという認識がある」と感じた。

私は「我が国における格差拡大」の主たる要因には、後難を怖れて言えば「経営者の劣化に起因する意気地のない経営」を挙げたいのだ。実は、以前にそれと同じようなことだと思って「団塊の世代のせいだ」と言ったことがあった。その反響は非難囂々どころか大ブーイングだった。私はかえって「この反響があったこと言うことは、彼等には自覚症状があるのでは」と思い込んだのだった。実はここまで書きながら既に後難を怖れている。

格差とは何か

2014-10-26 08:14:02 | コラム
第995回 武藤記念講座で:

私は昨25日に全く思いもかけなかったご縁で、この由緒正しき講座を拝聴する機会を得た。講座の演題は「為政者はかくあるべき-理想の国家像の実現を目指して」であって、パネラーは自民党の船田元代議士と民主党の長妻昭代議士だった。約2時間半の討論の内容はそれなりのものであったが、告白すれば私は現職代議士が語るのを直接生で聞いたのは初めてだった。

質疑応答に移ってから「話題に上っていた格差とは何か。その定義は一般論としても不明確だ」という質問が出た。討議された話題の中には「格差が広まりつつあるのは良いことではない。だが、共産主義国ではない以上悪平等もあってはならない」があったので、かかる疑問が呈されたと思って聞いていた。両代議士の答えには目新しいものはなかったと記憶する。「格差が生じるのは仕方がない面があるが、その拡大はあってはならない」辺りだったか。

私は格差社会の最先端を行っているかと思うアメリカ、それも(20世紀末までは)アメリカは言うに及ばず紙パルプ・林産物産業界では世界最大級の会社に勤務していたので、言うなればその格差の頂点かそれに近い位置にいた人たち(私は全米の5%としたが)の中で働いていたと思っている。だが、私は偶々そういう会社に転身しただけであって、格差国の中にいたという類いの意識は皆無だった。

ではあっても、それなりに自分が属していた会社以外の人々にも触れるか機会もあったし、社内でも出世の軌道(speed track等と言うが)とは全く縁のない諦観の世界に入ってしまった人たちとも語り合うこともあった。彼等は「差を付けられているのは当たり前で、speed trackに乗っているか昇進してしまった連中はそこに行来たくて行ったのであるが、自分はそれを望んでいなかったのだから差が付くのは当然。現在の身分と収入で十分」等と言うのだった。我が国の企業世界には未だアメリカ式の”speed track”は存在していないのではと思うのだ。

これは「格差を付けてみせられる」層と言うか、そういう世界にいながら取り残された人が言うことで、それ以外の層との間の開きなどを考えて言っている訳ではないだろう。繰り返して指摘してきたことだ、アメリカという国では横並び一列と形容した複数の層の間の移動は希であり、各人が生まれながらに属してしまった層と、他の層との違いや収入面の開きを容易に埋めて行けない世界だなと割り切って眺めてきた。

そういう国である以上、我が国に広まりつつある格差を論じる際の基準にはならない国だと思っている。我が国はアメリカとは比較にならない自由であり平等が保証されており、勉学等に真剣に励めば政治・経済・学問等の分野で身分の垂直上昇は言うに及ばず、それぞれの場で世界的権威になれる機会が与えられているではないか。この状態を称して民主的かあるいは悪平等だ等と言う意見すらある。

私はアメリカには「雇用機会均等」の法律(Equal employment opportunity)があって平等(特に男女間の)を保証していることの裏面には「そうではなかった」と問われず語り?をしていることに他ならないと思っている。申し上げたかったことは「我が国における格差の広がりなどはアメリカと比較すれば未だ未だ小さいのではないか」なのである。

「格差拡大論」からは少し外れたかも知れないが、昨日「格差とは」との質問が出たのを聞きながら以上のように考えていたのだった。