アメリカの階層を考察すれば:
以下に述べていくことは22年以上も彼等の中で、彼等の思想・信条・哲学・論理・倫理・仕来り等々の異文化に従って働いてきた経験から学習ないしは習得した知識と判断に基づいているものであって、我が国で一般的に広まっている「アメリカとは」という定義と異なっている場合が多いと、予めお断りしておきたい。
*アメリカの政治・経済・外交・軍事・教育・医療・法曹界等を動かしているのは:
私はアメリカの人口の精々5%を占めるに過ぎないと見なしているアッパーミドル以上の層だと見ている。この層の特徴として見えるのが所謂良家や名門の一族と家庭であり、それぞれの一家には代々Ivy Leagueとそれと同等の私立大学の4年制大学は言うに及ばす、ビジネススクールや法科大学院出身のMBAやPh.D.が圧倒的に多い。彼等にはそういう大学での年間の今や5万ドル(約500万円)学費を当たり前のように軽々と負担する資力があることは繰り返し指摘してきた。
さらに極論的に表現すれば、こういう家庭の出身者でなければ、私は「上記のような分野で主導的且つ指導的な立場を占めることは極めて難しいのがアメリカであること」も、これまでに指摘してきた。しかも、自由で平等で誰にも均等に機会が与えられているかの如くに喧伝されているアメリカでは、この(白人というかWASPでも良いか)層に、他の層から横滑りするとか上昇してくることもまた極めて希なのであると言いたい。
*他の層の果たす役割は:
上記の全アメリカに君臨するかの如くに見える層とは重複することは先ずあり得ないと言って誤りではない。各層が担当する分野は言うなれば独立するものであって、例えば一般的な事務員(clerkと言って良いだろう)、労働組合員、レストランのシェフ、ウエイターとウエイトレス等に別けて考えてみても良いと思う。これらの分野がその家系で必ずしも代々引き継がれている訳ではあるまいが、こういう仕事に従事してきた者たちが上記の層に入っていく例は少ないと見ている。
換言すれば、既に述べてきたように各層間を移動する例は極めて少ないと言うことだ。私が見てきた限りでもその例は少なかった。しかも上述のように支配する者たちは有名私立大学の出身者にほぼ限定されるのであり、(アメリカでは私立大学よりも格が下と見られている)州立大学に入学すれば、その時点で自分の将来が限定されたというに近い一種の諦観のようなものを抱く者すらいるのだ。
その例として挙げておきたい者がいた。彼は私と懇談して述懐したのだが「自分は高校までは勉学に励まなかったので州立のオレゴン大学(University of Oregon)にしか入れなかったので、その時点で自分の将来が限定されたと知って愕然とした。そこで日本語を操れるようになれば、自分の親が担当するような対日貿易を大きな柱とする一流企業に受け入れられるチャンスがあると考えて、2年間日本語を学んで明治大学の政経学部に留学している」だったのだ。
彼等はこういう考え方をするのである。彼の家庭は日本留学を可能にする大企業の管理職だったのも幸いした。余談だが、2年間学んだだけの日本語が明治大学での講義に問題なく付いていけたと聞かされて、私は我が国の英語教育との差を見せつけられて落胆させられたのだった。
*我が国におけるアメリカの概念:
私はこれまでに述べてきたこと及び長年語ってきた「アメリカという国」は、我が国に広まってるアメリカとは多くの点で異なっていると思う。これは、これまでの経験からも言えることで、私の説を聞かれた方々が怪訝な顔をされるのにはもう馴れているし、驚かない。しかし、そのような既成概念と違うとからと言って、私の説を真っ向から否定しては頂きたくはないのだ。この世には色々な説も意見もあるのだから。
何故そう言うのかを解説すれば、私は今日まで述べてきたアメリカのビジネス社会の実態を事前に知らずして、アメリカの紙パルプ・林産物業界の大手の会社に転身し、そこの中核をなす上述のような家庭の出身者でMBAやPh.D.が支配し指導する会社の実態しか知り得なかっただけだ。そこには、ここまで述べてきたような他の層からの流入者は極めて希であり、彼等の実態は伝聞でしか語れないだけなのだ。
即ち、私が語る「アメリカという国」は、その5%が支配する会社でと言うかそのような場でしか経験出来なかった実態を語っているので、そうではない視点でアメリカを語ってこられた方々の説とは異なっているのは当然であると思っている。故に、読者諸賢におかれましては「こういう視点に立ったアメリカ論もあったか」というような大らかな視点からお読み頂ければ有り難いのであり、それでこそ私がここまで縷々述べてきた意義もあろうかと考えている次第だ。
*結び:
ここから先はさらに具体的に「日米企業社会における文化と思考体系の相違点」や私の好む「ビジネスマンの服装学」に入っていきたいのだが、この分野を事細かに記述したものは2003年以前のワープロ時代の作品であり、今更私の技術でPCに移すのは不可能であるし、それを如何にして再現するかに深く悩んでいる次第だ。打ち直す場合には一体どれほどの時間と労力を要するかを考えると気が重いのだ。だが、そうとばかり言っていられないので方法を模索中だ。
以下に述べていくことは22年以上も彼等の中で、彼等の思想・信条・哲学・論理・倫理・仕来り等々の異文化に従って働いてきた経験から学習ないしは習得した知識と判断に基づいているものであって、我が国で一般的に広まっている「アメリカとは」という定義と異なっている場合が多いと、予めお断りしておきたい。
*アメリカの政治・経済・外交・軍事・教育・医療・法曹界等を動かしているのは:
私はアメリカの人口の精々5%を占めるに過ぎないと見なしているアッパーミドル以上の層だと見ている。この層の特徴として見えるのが所謂良家や名門の一族と家庭であり、それぞれの一家には代々Ivy Leagueとそれと同等の私立大学の4年制大学は言うに及ばす、ビジネススクールや法科大学院出身のMBAやPh.D.が圧倒的に多い。彼等にはそういう大学での年間の今や5万ドル(約500万円)学費を当たり前のように軽々と負担する資力があることは繰り返し指摘してきた。
さらに極論的に表現すれば、こういう家庭の出身者でなければ、私は「上記のような分野で主導的且つ指導的な立場を占めることは極めて難しいのがアメリカであること」も、これまでに指摘してきた。しかも、自由で平等で誰にも均等に機会が与えられているかの如くに喧伝されているアメリカでは、この(白人というかWASPでも良いか)層に、他の層から横滑りするとか上昇してくることもまた極めて希なのであると言いたい。
*他の層の果たす役割は:
上記の全アメリカに君臨するかの如くに見える層とは重複することは先ずあり得ないと言って誤りではない。各層が担当する分野は言うなれば独立するものであって、例えば一般的な事務員(clerkと言って良いだろう)、労働組合員、レストランのシェフ、ウエイターとウエイトレス等に別けて考えてみても良いと思う。これらの分野がその家系で必ずしも代々引き継がれている訳ではあるまいが、こういう仕事に従事してきた者たちが上記の層に入っていく例は少ないと見ている。
換言すれば、既に述べてきたように各層間を移動する例は極めて少ないと言うことだ。私が見てきた限りでもその例は少なかった。しかも上述のように支配する者たちは有名私立大学の出身者にほぼ限定されるのであり、(アメリカでは私立大学よりも格が下と見られている)州立大学に入学すれば、その時点で自分の将来が限定されたというに近い一種の諦観のようなものを抱く者すらいるのだ。
その例として挙げておきたい者がいた。彼は私と懇談して述懐したのだが「自分は高校までは勉学に励まなかったので州立のオレゴン大学(University of Oregon)にしか入れなかったので、その時点で自分の将来が限定されたと知って愕然とした。そこで日本語を操れるようになれば、自分の親が担当するような対日貿易を大きな柱とする一流企業に受け入れられるチャンスがあると考えて、2年間日本語を学んで明治大学の政経学部に留学している」だったのだ。
彼等はこういう考え方をするのである。彼の家庭は日本留学を可能にする大企業の管理職だったのも幸いした。余談だが、2年間学んだだけの日本語が明治大学での講義に問題なく付いていけたと聞かされて、私は我が国の英語教育との差を見せつけられて落胆させられたのだった。
*我が国におけるアメリカの概念:
私はこれまでに述べてきたこと及び長年語ってきた「アメリカという国」は、我が国に広まってるアメリカとは多くの点で異なっていると思う。これは、これまでの経験からも言えることで、私の説を聞かれた方々が怪訝な顔をされるのにはもう馴れているし、驚かない。しかし、そのような既成概念と違うとからと言って、私の説を真っ向から否定しては頂きたくはないのだ。この世には色々な説も意見もあるのだから。
何故そう言うのかを解説すれば、私は今日まで述べてきたアメリカのビジネス社会の実態を事前に知らずして、アメリカの紙パルプ・林産物業界の大手の会社に転身し、そこの中核をなす上述のような家庭の出身者でMBAやPh.D.が支配し指導する会社の実態しか知り得なかっただけだ。そこには、ここまで述べてきたような他の層からの流入者は極めて希であり、彼等の実態は伝聞でしか語れないだけなのだ。
即ち、私が語る「アメリカという国」は、その5%が支配する会社でと言うかそのような場でしか経験出来なかった実態を語っているので、そうではない視点でアメリカを語ってこられた方々の説とは異なっているのは当然であると思っている。故に、読者諸賢におかれましては「こういう視点に立ったアメリカ論もあったか」というような大らかな視点からお読み頂ければ有り難いのであり、それでこそ私がここまで縷々述べてきた意義もあろうかと考えている次第だ。
*結び:
ここから先はさらに具体的に「日米企業社会における文化と思考体系の相違点」や私の好む「ビジネスマンの服装学」に入っていきたいのだが、この分野を事細かに記述したものは2003年以前のワープロ時代の作品であり、今更私の技術でPCに移すのは不可能であるし、それを如何にして再現するかに深く悩んでいる次第だ。打ち直す場合には一体どれほどの時間と労力を要するかを考えると気が重いのだ。だが、そうとばかり言っていられないので方法を模索中だ。