新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

カタカナ語排斥論者の憂鬱(文字色訂正版)

2016-04-09 10:14:57 | コラム
日本語を破壊しつつあるカタカナ語:

私は1990年辺りからカタカナ語を排斥するようになっていた。その頃は「英語の単語を話の中や文章を書く時に混ぜることで、何か近代的であるとかスマートで洗練されたかのような気分になっている人が多くなってきたのは好ましくない。その程度のスマートさや近代性など不要だ」という程度の穏やかな論調(!)だった。

だが、何度も何度も繰り返して論じてきたように今やそのカタカナ語を分類すれば「言葉の誤用」、「日本語もどきの造語」、「発音の誤りのままの誤用」、「文法無視」、「単数・複数の無視」等々、何処の何方が言うのか知らないが「国際化の時代にあっては、英語力を高めて英語で意思の疎通を図れて自由自在に会話が出来るようになることが必要で、小学校から英語を」などという戯けたことが尊ばれる時代になってしまった。

それだけではない”TOEIC”の如きものが重要視され、それである程度以上の成績を収めないと卒業させないとか、入社させないとか、昇進の基準にするとかを当たり前のように言い出す始末になってきた。その時代になっても、全く元の英語とは関係も関連性もないカタカナ語を無秩序に蔓延らせておくのだから、所管の官庁もだらしがないし、それに唯々諾々と従う企業もまた情けないと新宿の片隅で何時も慨歎している今日この頃だ。

先ほども甚だしく落胆する事件?が昨日当方を三度目で襲ってきたので、寝そべって見ていた(聞いていた)テレビでゲストとやらで登場した某国立大卒の女性がオリンピックの新エンブレム候補四作の中でどれを取るかと司会者に聞かれて「~がシンプルで良いから」と言うのが聞こえ、このような場面で何で「シンプル」と言わねばならないのかと向かっ腹が立った。近頃のテレビに出てくるというかアナウンサーも解説者もゲストも安易に日本語を破壊するのには危機感を覚えている。

例えば「私はAがシンプルコンパクトで好ましいし、これならもうトラブルも起こさないだろうし、全体のイメージをアップし、もうこれ以上人気はダウンしないだろう。私はそのジューシーさとフルーティーな味が良いと思う」と言うような間抜けな話し方が最早普通なのであるが恐ろしいのだ。私はこれでは完全に日本語が破壊されているのみならず、この中に出てくるカタカナ語をそのまま使って英語にした場合、先ず意味をなさないと断定する。

これも繰り返し指摘してきたことで「言葉は耳から入ってくるものが最も影響力が強い」のだから、罪なき子供たちや本当の”English”(英語)を知らない連中はこのような愚にもつかないカタカナ語が日本語だと信じて素直に日常的に使ってしまうことになるのだ。いや、既になりつつある。私はカタカナ語を批判し排斥いてきたが「それをお使いになることを阻止しない、お勝手に。但し、それが本当の英語とは別物だとご承知置き願えればそれで結構」とも言ってきた。

だが、上記の例文のようになってきて言葉の誤用や造語でも文法無視でもなく、日本語の一部になって漢字を使った熟語であるとか、日本語の固有の表現を消し去ってしまっている状態は許しがたいと言いたいとともに、日本語の危機だと思うのだ。この現象は終戦直後に誰だったかが「英語を国語にしよう」と言い出したのとは性質が全く異なる事態だと思うから言うのだ。

序でに指摘しておきたいことがある。それはカタカナ語に取って代わられる前に日本語そのものの表現にも笑っていられない変化が生じている。2006年1月に入院した際に若い看護師さんたちのほぼ全員が私に何か処置をしたい時に「横を向いて下さい」という代わりに「横向いて貰って良いですか」と言うのを聞いて大いに違和感を覚えた。即ち「~して下さい」が彼女らの世代では「~して貰って良いですか」が敬語か丁寧語になっていたのだった。

これはほんの一例だが、その気になって聞いていれば、テレビに登場するタレントという名のAHOどもが皆この言い方をするし、先ず例外なく「ら抜き」言葉マスター(カタカナ語だ!)していると解る。このようにしておかしな日本語が電波を通じて全国に蔓延していくのだ。私は無力でこのおかしな流れを阻止する方法など知らないし、その為のアイデアも浮かんでこないのが情けない。


カタカナ語排斥論者の憂鬱

2016-04-09 10:09:24 | コラム
日本語を破壊しつつあるカタカナ語:

私は1990年辺りからカタカナ語を排斥するようになっていた。その頃は「英語の単語を話の中や文章を書く時に混ぜることで、何か近代的であるとかスマートで洗練されたかのような気分になっている人が多くなってきたのは好ましくない。その程度のスマートさや近代性など不要だ」という程度の穏やかな論調(!)だった。

だが、何度も何度も繰り返して論じてきたように今やそのカタカナ語を分類すれば「言葉の誤用」、「日本語もどきの造語」、「発音の誤りのままの誤用」、「文法無視」、「単数・複数の無視」等々、何処の何方が言うのか知らないが「国際化の時代にあっては、英語力を高めて英語で意思の疎通を図れて自由自在に会話が出来るようになることが必要で、小学校から英語を」などという戯けたことが尊ばれる時代になってしまった。

それだけではない”TOEIC”の如きものが重要視され、それである程度以上の成績を収めないと卒業させないとか、入社させないとか、昇進の基準にするとかを当たり前のように言い出す始末になってきた。その時代になっても、全く元の英語とは関係も関連性もないカタカナ語を無秩序に蔓延らせておくのだから、所管の官庁もだらしがないし、それに唯々諾々と従う企業もまた情けないと新宿の片隅で何時も慨歎している今日この頃だ。

先ほども甚だしく落胆する事件?が昨日当方を三度目で襲ってきたので、寝そべって見ていた(聞いていた)テレビでゲストとやらで登場した某国立大卒の女性がオリンピックの新エンブレム候補四作の中でどれを取るかと司会者に聞かれて「~がシンプルで良いから」と言うのが聞こえ、このような場面で何で「シンプル」と言わねばならないのかと向かっ腹が立った。近頃のテレビに出てくるというかアナウンサーも解説者もゲストも安易に日本語を破壊するのには危機感を覚えている。

例えば「私はAがシンプルコンパクトで好ましいし、これならもうトラブルも起こさないだろうし、全体のイメージをアップし、もうこれ以上人気はダウンしないだろう。私はそのジューシーさとフルーティーな味が良いと思う」と言うような間抜けな話し方が最早普通なのであるが恐ろしいのだ。私はこれでは完全に日本語が破壊されているのみならず、この中に出てくるカタカナ語をそのまま使って英語にした場合、先ず意味をなさないと断定する。

これも繰り返し指摘してきたことで「言葉は耳から入ってくるものが最も影響力が強い」のだから、罪なき子供たちや本当の”English”(英語)を知らない連中はこのような愚にもつかないカタカナ語が日本語だと信じて素直に日常的に使ってしまうことになるのだ。いや、既になりつつある。私はカタカナ語を批判し排斥いてきたが「それをお使いになることを阻止しない、お勝手に。但し、それが本当の英語とは別物だとご承知置き願えればそれで結構」とも言ってきた。

だが、上記の例文のようになってきて言葉の誤用や造語でも文法無視でもなく、日本語の一部になって漢字を使った熟語であるとか、日本語の固有の表現を消し去ってしまっている状態は許しがたいと言いたいとともに、日本語の危機だと思うのだ。この現象は終戦直後に誰だったかが「英語を国語にしよう」と言い出したのとは性質が全く異なる事態だと思うから言うのだ。

序でに指摘しておきたいことがある。それはカタカナ語に取って代わられる前に日本語そのものの表現にも笑っていられない変化が生じている。2006年1月に入院した際に若い看護師さんたちのほぼ全員が私に何か処置をしたい時に「横を向いて下さい」という代わりに「横向いて貰って良いですか」と言うのを聞いて大いに違和感を覚えた。即ち「~して下さい」が彼女らの世代では「~して貰って良いですか」が敬語か丁寧語になっていたのだった。

これはほんの一例だが、その気になって聞いていれば、テレビに登場するタレントという名のAHOどもが皆この言い方をするし、先ず例外なく「ら抜き」言葉マスター(カタカナ語だ!)していると解る。このようにしておかしな日本語が電波を通じて全国に蔓延していくのだ。私は無力でこのおかしな流れを阻止する方法など知らないし、その為のアイデアも浮かんでこないのが情けない。