新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

「また社会常識が欠如した者がか?」と一瞬思ってしまった

2016-04-08 07:45:15 | コラム
バドミントンの有力選手が闇カジノに:

この田兒と桃田の両名が都内の闇カジノに出入りして大金を賭けていたとの報道を聞いた時には「また社会常識が欠如した、スポーツに世界だけしか知らぬBAKAが・・・」かと思ってしまった。だが、彼らが「大金」を賭けていたと聞いて何か腑に落ちないものを感じていた。マスコミ論調は「だからオリンピック出場は・・・」となっていったのも「何故直ぐそこに結びつくのかな。オリンピックというものは道徳の場なのか」などと思ってしまった。責められるべき点はその「非常識さ」だろうに。国ぐるみでドーピングをやらせた選手を堂々と送り込んでいる国さえあるのに。

ところが、昨7日夜のBSフジのPrime Newsには石原慎太郎氏以下堺屋太一氏に渡部昇一氏が出ると知っていたので大いなる興味と関心を持って見てみると、最初に玉木正之氏が出てきて、延々とこのバドミントンの二人の件が討論された。そこで玉木発言に基づいて反町が持ち出した資料にはバドミントンの国際的大会ではかなりな額の賞金が出ていて、桃田は既に2,000万円近い賞金を取っていたと初めて知った次第だった。「なるほど、そういうことだったのか」である。

この件の討論中に私が興味を持ったのが堺屋発言の「今や世界でアマチュアとプロの選手を峻別しているのは我が国くらいのもので、アマチュアを聖域の如くにしている。(私も承知しているが、嘗ては職業野球選手を卑しき職業に従事することの如くに扱った時代があった)そのような区別を止めて全員をスポーツ選手という括りの中に収めるべきだ」というのがあった。尤もだと思った。その背景にあるのは、大きな大会では賞金が出るのは当たり前での時代であるという条件がある。

今回のオリンピックには出せないとの論調には「オリンピックは聖人君子の集まりで、そこに闇カジノに出入りしていたような不行跡の者を派遣するのは良くない」というアマチュアとオリンピックを聖域化している我が国とそのマスコミの論調があるように思えてならない。私はこの両名が我が国の仕分けではアマチュアなのかプロ登録なのかは知らないが、何年かであれほど稼いでいれば最早アマチュアの範疇を超えているのではとすら感じた昨夜の解説だった。

昨夜堺屋氏は「オリンピックはサマランチが商業化しアマチュアのみという垣根を取っ払ったし、1984年のロスアンジェルス大会では(ピーター・ユベロス)が完全に商業化したので、最早アマチュアの聖域ではないのだから、あらゆる分野のスポーツ選手が参加する催しにした方が」と指摘した。私は我が国は未だに「アマチュアの祭典」だった時代を引きずっているので、英語では”Olympic Flame”に過ぎないものを「聖火」と訳したままにしている辺りが面白いと思っている。「選手村」だって”Olympic Village”だ。

あの両名をオリンピックには出さないことになるだろうが、各競技の団体をその世界しか知らない連中で固めるのはもう好い加減に止めたらどうだろう。また専務理事だったかが感情を抑えきれずに落涙していたのは気の毒だったとは思う。だが、20歳を超えた社会常識が備わっているべき年齢の者たちを指導し切れていなかった点を詫びていたが、高野連ではあるまいにスポーツの世界には「教育の一環として選手たちを指導する義務でもあるのか」と伺いたい。

なお、あの両名が違法カジノではなく、ラスベガスやマカオで大金を賭けていた場合には処罰の対象とするのだろうか。彼らにその辺りの区別が出来ていなかったとすれば、そこまでも協会の幹部の責任なのか、私には解らない。最後に英語の講釈だが、”casino”は通常「カスイーノウ」のように発音されるのだが、カタカナ語は何となくイタリア語風に「カジノ」としたが、これでも「カジーノ」だったのではないのかな。