国語は既に破壊が始まっている:
無駄な抵抗を続けたくなった。その動機は今朝ほど何処の局だったか、14歳の女子中学生がフィギュアスケートで素晴らしい技を見せた件を採り上げインタビュー(カタカナ語なのでジーニアス英和を見ると「取材訪問、聞き込みの他に何とインタビューするとも出ていた)したところ「もっとレベルアップしなければ」と語ったと報じたことにあった。カタカナ語の害毒は最早ここまで回っていたのだと慨歎した。
そこで、念のためというか何気なくプログレッシブ和英で「レベルアップ」をひくと、例文に“raise the level of a soccer team”や“We must increase our physical strength.”が挙げられていて、ご丁寧に「レベルダウン」の例文には“Quality seems to have generally deteriorated (grown worse).”や“There has been a general decline in students’ academic ability.”も出ていた。即ち、この辞書は「レベルダウン」も「アップ」も日本語として公認していると解釈した。ここまでで、レベルアップもダウンも立派な日本語で英語では別の言葉を使うのだとお解り願えたと思う。
私はこれまでに何度も国会議員は言うに及ばずテレビに登場する有識者や専門家の方々が平気で「フリップ」と言ったり、安全保障を「セキュリティ」と言うのを嘲笑い且つ嘆いてきた。何処がおかしいか誤りかを今更ここに採り上げる気力も勇気もない。あの様なカタカナ語が罷り通るのを文科省の官僚や英語の教師の方々が何とも思っていない感覚が素晴らしいと言うべきか、恥知らずと指摘すべきか悩んでしまうのだ。
ここに、敢えてこれまでに採り上げてきた国語破壊の例を採り上げて、皆様のご参考に供したい。16年12月23日には
<ではどのような例が私の気に障っているかを、思いつくままに採り上げてみよう。「トラブル」の濫用はそれこそ日進月歩ではなかった日々濫用である。「揉め事」、「事故」、「故障」、「何らかの製品の品質問題」、「諍い」等々はすべてそれぞれ別個の内容であると思うが、すべてを簡単に「何かトラブルを抱えていませんでしたか」などと表現している。また「スタッフ」も完全に戸籍を得た日本語として定着した。私はファミリーレストランから居酒屋のような場所で(テレビでしか見聞したことがないが)「ホール・スタッフ」という役目を人がいると聞こえたときに"whole staff"とは何のことかと一瞬判断に迷った。ここでは「職員、部員、局員、社員、従業員」という意味でアメリカでは「参謀」をあらわす単語がカタカナ語されてあれほど普及したのには驚く以外なかった。中には「チーフ」などとの役職もあるが"the chief of staff”とは「参謀長」を意味するのだ。
すでに何度も採り上げてきたが、これらの他にも「シンプル」、「コンパクト」、「カジュアル」、「コラボ」、「何とかアップまたはダウン」、「アップ(ダウン)する」等々は完全にマスコミ、特にテレビに出てくるタレントとやら言われているアホどものみなら普通(マスコミ用語では一般人)の人までが真似させられているのは、私は漢字文化の破壊の第一歩、いや二乃至はそれ以上に進んでいるかと憂いている次第だ。
試しに、ここに挙げたカタカナ語を漢字化してみれば「シンプル」は”解りやすい、簡単な、単純な、易しい”等が当たるだろうか。「ノミネート」は言うまでもなく”推薦”だが「~賞にノミネート」という表現は厳密に英文法で言えば体をなしていないのだ。「コラボ」というのは私を驚かせてくれたカタカナ語だった。"collaborate"か"collaboration"という「(文芸・科学の分野で協力(共同する)、合作する、共同で研究する」とジーニアス英和にある言葉を知らなかったわけではないが、日常でも社内の報告書にでも使った経験もなければ使われていた例をほとんど知らなかったからだ。それが「コラボ」などと省略した形で芸人の行為の表現に当たり前のように使われている豊富な単語の知識に驚いたという皮肉である。>
15年6月15日には
<最後に「ノミネート」も切り捨てておく。ピースという漫才なのかお笑いコンビなのか知らないが、その片割れの又吉というのが小説本を出して大当たりしたのは結構だと思う。しかし、三島賞は外れたが芥川賞の候補作に上がったそうだ。それは候補に推薦されたのであって「ノミネート」という必要はないと思う。私は何故に「候補に推薦された」という我が国の言葉を棄てて、ジーニアスには先ず「動詞」として出てくる”nominate”をカタカナ語にして使うのかと問いたい。
難しいことを言えば”nominate”には「推薦する」か「指名する」の意味はあるが、又吉の場合は推薦されたのであるから”He was nominated for 芥川賞.”と受け身であるべきなのだ。それを弁えずしていきなり「ノミネート」では無茶苦茶ではないか。しかも過去形であるべき。ここにも我が国の学校教育の英語の成果が垣間見えるではないか。これでは国語での表現力が低下する一方ではないか。
この他にも、これを使うことをおかしいとは思わないのかという珍妙なカタカナ語は幾らでもある。確か松坂大輔が言い出したと思う「リヴェンジ」も立派な誤用でありながらドンドン広まっている。”revenge”は基本的には他動詞であり、目的語(復讐する相手等)を必要とするが、単なる「仕返し」か「前回グラウンドに忘れ物をしたので取り返しに行く」という意味のことを言いたくて使われている。>
と述べていた。
私は間もなく漢字を排除してカタカナ語だけの日本語の時代が来るだろうと本気で心配している。同様に英語でも活字体だけしか通用しない時が来るのかも知れない。先日も大学で言語学を教えている先生に念のため確認してみたが、現在の中学や高校の英語教育では筆記体を教えられていないというか教えない場合があるのだそうだ。そう言えば、私が自慢の達筆で黒板に書いた英文を見た大学生たちがキョトンとしていた訳が解った。
無駄な抵抗を続けたくなった。その動機は今朝ほど何処の局だったか、14歳の女子中学生がフィギュアスケートで素晴らしい技を見せた件を採り上げインタビュー(カタカナ語なのでジーニアス英和を見ると「取材訪問、聞き込みの他に何とインタビューするとも出ていた)したところ「もっとレベルアップしなければ」と語ったと報じたことにあった。カタカナ語の害毒は最早ここまで回っていたのだと慨歎した。
そこで、念のためというか何気なくプログレッシブ和英で「レベルアップ」をひくと、例文に“raise the level of a soccer team”や“We must increase our physical strength.”が挙げられていて、ご丁寧に「レベルダウン」の例文には“Quality seems to have generally deteriorated (grown worse).”や“There has been a general decline in students’ academic ability.”も出ていた。即ち、この辞書は「レベルダウン」も「アップ」も日本語として公認していると解釈した。ここまでで、レベルアップもダウンも立派な日本語で英語では別の言葉を使うのだとお解り願えたと思う。
私はこれまでに何度も国会議員は言うに及ばずテレビに登場する有識者や専門家の方々が平気で「フリップ」と言ったり、安全保障を「セキュリティ」と言うのを嘲笑い且つ嘆いてきた。何処がおかしいか誤りかを今更ここに採り上げる気力も勇気もない。あの様なカタカナ語が罷り通るのを文科省の官僚や英語の教師の方々が何とも思っていない感覚が素晴らしいと言うべきか、恥知らずと指摘すべきか悩んでしまうのだ。
ここに、敢えてこれまでに採り上げてきた国語破壊の例を採り上げて、皆様のご参考に供したい。16年12月23日には
<ではどのような例が私の気に障っているかを、思いつくままに採り上げてみよう。「トラブル」の濫用はそれこそ日進月歩ではなかった日々濫用である。「揉め事」、「事故」、「故障」、「何らかの製品の品質問題」、「諍い」等々はすべてそれぞれ別個の内容であると思うが、すべてを簡単に「何かトラブルを抱えていませんでしたか」などと表現している。また「スタッフ」も完全に戸籍を得た日本語として定着した。私はファミリーレストランから居酒屋のような場所で(テレビでしか見聞したことがないが)「ホール・スタッフ」という役目を人がいると聞こえたときに"whole staff"とは何のことかと一瞬判断に迷った。ここでは「職員、部員、局員、社員、従業員」という意味でアメリカでは「参謀」をあらわす単語がカタカナ語されてあれほど普及したのには驚く以外なかった。中には「チーフ」などとの役職もあるが"the chief of staff”とは「参謀長」を意味するのだ。
すでに何度も採り上げてきたが、これらの他にも「シンプル」、「コンパクト」、「カジュアル」、「コラボ」、「何とかアップまたはダウン」、「アップ(ダウン)する」等々は完全にマスコミ、特にテレビに出てくるタレントとやら言われているアホどものみなら普通(マスコミ用語では一般人)の人までが真似させられているのは、私は漢字文化の破壊の第一歩、いや二乃至はそれ以上に進んでいるかと憂いている次第だ。
試しに、ここに挙げたカタカナ語を漢字化してみれば「シンプル」は”解りやすい、簡単な、単純な、易しい”等が当たるだろうか。「ノミネート」は言うまでもなく”推薦”だが「~賞にノミネート」という表現は厳密に英文法で言えば体をなしていないのだ。「コラボ」というのは私を驚かせてくれたカタカナ語だった。"collaborate"か"collaboration"という「(文芸・科学の分野で協力(共同する)、合作する、共同で研究する」とジーニアス英和にある言葉を知らなかったわけではないが、日常でも社内の報告書にでも使った経験もなければ使われていた例をほとんど知らなかったからだ。それが「コラボ」などと省略した形で芸人の行為の表現に当たり前のように使われている豊富な単語の知識に驚いたという皮肉である。>
15年6月15日には
<最後に「ノミネート」も切り捨てておく。ピースという漫才なのかお笑いコンビなのか知らないが、その片割れの又吉というのが小説本を出して大当たりしたのは結構だと思う。しかし、三島賞は外れたが芥川賞の候補作に上がったそうだ。それは候補に推薦されたのであって「ノミネート」という必要はないと思う。私は何故に「候補に推薦された」という我が国の言葉を棄てて、ジーニアスには先ず「動詞」として出てくる”nominate”をカタカナ語にして使うのかと問いたい。
難しいことを言えば”nominate”には「推薦する」か「指名する」の意味はあるが、又吉の場合は推薦されたのであるから”He was nominated for 芥川賞.”と受け身であるべきなのだ。それを弁えずしていきなり「ノミネート」では無茶苦茶ではないか。しかも過去形であるべき。ここにも我が国の学校教育の英語の成果が垣間見えるではないか。これでは国語での表現力が低下する一方ではないか。
この他にも、これを使うことをおかしいとは思わないのかという珍妙なカタカナ語は幾らでもある。確か松坂大輔が言い出したと思う「リヴェンジ」も立派な誤用でありながらドンドン広まっている。”revenge”は基本的には他動詞であり、目的語(復讐する相手等)を必要とするが、単なる「仕返し」か「前回グラウンドに忘れ物をしたので取り返しに行く」という意味のことを言いたくて使われている。>
と述べていた。
私は間もなく漢字を排除してカタカナ語だけの日本語の時代が来るだろうと本気で心配している。同様に英語でも活字体だけしか通用しない時が来るのかも知れない。先日も大学で言語学を教えている先生に念のため確認してみたが、現在の中学や高校の英語教育では筆記体を教えられていないというか教えない場合があるのだそうだ。そう言えば、私が自慢の達筆で黒板に書いた英文を見た大学生たちがキョトンとしていた訳が解った。