国語を教えることが先決だろう:
この点はこれまでに何度言ってきたか記憶にないほど強調してきた。自分の国の言葉が十分に身についていない時期に、子供にとって面白いかどうかも分からないような外国語を教えて、何の役に立つかという極めて簡単なことだ。教えたがる方は「子供の頭は柔軟だから複数の言語でも覚えられる」などと解ったような理屈を言っておられるようだが、本当にそうであるかどうは誠に疑問だと思っているし、現実的ではあるまい。
私がこれまでに繰り返して採り上げてきた、外国語を学ぶ時の名言というか至言というか基本的な心得がある。その一つは、我が日本の会社時代の実質的に2期上だった国立H大学出身の秀才が喝破された「日本語が怪しいような奴が幾ら英語を勉強しても、自在に操れるようになる訳がない」である。「小学校3年からではダメだ」と同じことを言っておられるのだ。
次は私を採用して下さった会社の親会社に同期入社された東京大学出身のH氏が課長当時に、海外出張を前にして言われた「英語で意思疎通が図れるか否かは、これ即ち英語を基本的に理解しているか否かの問題であり、ペラペラであるかないかではない」のも、流石だと感じ入った。当にその通りで、基本が解っていなければ、自分の意志を思うように表現できる訳がないのだ。問題は「基本をチャンと教えられ、キチンと覚えているかいないか」なのである。言わないでも良いことを言えば「TOEICで何点取れたか」ということではない。
これだけの原理・原則がありながら、何処かに英語と自らの英語力に劣等感をお持ちか、自信を持てない方々が、次世代に同じ悩みを持たせないようにと、早いうちから勉強を開始すれば上達するとでも思い込んでおられるのだろう。何度でも言うが、私の周囲には中学入学の時点というか13歳辺りから学び始めて十分に間に合うどころか、アメリカ人もビックリという達人が何人もいた。小学校から等という必要はない。
再び結論をいえば「子供の頃には先ず自国語をチャンと固めて、日本語での思考回路が整った後から、思考体系が異なる外国語を教えるべきである」なのだ。私はアメリカで見事な英語を話していた学齢前の子供たちに何度も出会っていた。その子たちが帰国して成人してから出会って「君にはその昔アメリカで“こういう時にはそう言えば良いのか”と教えて貰ったことがあったよ」と言って驚かせたことがあった。彼は帰国して暫くは英語を覚えていたが、今では何にも覚えていないと嘆いたのだ。こういう例が幾らでもあるのだ。
矢張り国語の教育を充実させよう。元USTR代表だったカーラ・ヒルズ大使は「アメリカの労働者には初等教育の充実と識字率の向上が必要だ」と指摘されたのではなかったか。それと私の主張と似ていないか。「基礎なくして(国語が身についていなくて)何の外国教育か」である。
この点はこれまでに何度言ってきたか記憶にないほど強調してきた。自分の国の言葉が十分に身についていない時期に、子供にとって面白いかどうかも分からないような外国語を教えて、何の役に立つかという極めて簡単なことだ。教えたがる方は「子供の頭は柔軟だから複数の言語でも覚えられる」などと解ったような理屈を言っておられるようだが、本当にそうであるかどうは誠に疑問だと思っているし、現実的ではあるまい。
私がこれまでに繰り返して採り上げてきた、外国語を学ぶ時の名言というか至言というか基本的な心得がある。その一つは、我が日本の会社時代の実質的に2期上だった国立H大学出身の秀才が喝破された「日本語が怪しいような奴が幾ら英語を勉強しても、自在に操れるようになる訳がない」である。「小学校3年からではダメだ」と同じことを言っておられるのだ。
次は私を採用して下さった会社の親会社に同期入社された東京大学出身のH氏が課長当時に、海外出張を前にして言われた「英語で意思疎通が図れるか否かは、これ即ち英語を基本的に理解しているか否かの問題であり、ペラペラであるかないかではない」のも、流石だと感じ入った。当にその通りで、基本が解っていなければ、自分の意志を思うように表現できる訳がないのだ。問題は「基本をチャンと教えられ、キチンと覚えているかいないか」なのである。言わないでも良いことを言えば「TOEICで何点取れたか」ということではない。
これだけの原理・原則がありながら、何処かに英語と自らの英語力に劣等感をお持ちか、自信を持てない方々が、次世代に同じ悩みを持たせないようにと、早いうちから勉強を開始すれば上達するとでも思い込んでおられるのだろう。何度でも言うが、私の周囲には中学入学の時点というか13歳辺りから学び始めて十分に間に合うどころか、アメリカ人もビックリという達人が何人もいた。小学校から等という必要はない。
再び結論をいえば「子供の頃には先ず自国語をチャンと固めて、日本語での思考回路が整った後から、思考体系が異なる外国語を教えるべきである」なのだ。私はアメリカで見事な英語を話していた学齢前の子供たちに何度も出会っていた。その子たちが帰国して成人してから出会って「君にはその昔アメリカで“こういう時にはそう言えば良いのか”と教えて貰ったことがあったよ」と言って驚かせたことがあった。彼は帰国して暫くは英語を覚えていたが、今では何にも覚えていないと嘆いたのだ。こういう例が幾らでもあるのだ。
矢張り国語の教育を充実させよう。元USTR代表だったカーラ・ヒルズ大使は「アメリカの労働者には初等教育の充実と識字率の向上が必要だ」と指摘されたのではなかったか。それと私の主張と似ていないか。「基礎なくして(国語が身についていなくて)何の外国教育か」である。