新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

2月18日 その2 小学校3年から英語教育だそうで

2017-02-18 15:08:48 | コラム
また役に立たないことを言い出した役所が:

先日、私のブログの読者でもある同じジムの会員がストレッチをやっている私の所に来て「小学校3年から英語教育をなどと言い始めたが如何か」と水を向けてこられた。彼は私のブログの読者である以上、私の年来の主張を承知の上で言っておられたのだ。「お解りでしょうから訊かないで下さい」と答えたが、この文科省だったかの方針は一見(一聴)すると如何にも結構なことのようだが、現在の「科学としての英語」を教えている形を改めずに、それを小学校低学年から押しつけても何の改善にも強化にもならないのは明らかではないか。

私は我が国の外国語教育の至らなさを繰り返して採り上げてきた。そして「英語教育が読解力と要らざる単語の知識だけを高めることを目的としていれば、現在までのところである程度以上目的を達成していただろう」とは言って来た。だが、「我が国のように一般的な勉強(学問)の水準が高く、あらゆる分野に渡って国語で学ぶことが出来る態勢が整っている国で、万人の英語力を高める必要があるのか」とも主張してきた。

更に、英語を高い水準までものにする必要がある者たちが、それを本気で追求していけば良いのである。そういう人たちはとは海外に出ても自らの目指すところを追い求めようとする研究者や学者の方や、海外で仕事をしようと志す若者や、私(たち)のようにアメリカ乃至は外国の会社で彼らの一員として懸命に働こうとする者たちが十分に意思の疎通を図れる段階を目指すか、“native speaker”並な所を目標として学べば良いことで、現在の我が国で高い英語力を身につけても、それを何処で活かそうにもそういう場は何処にでもここにでも転がってはいないのだ。

私は何度か述べてきたが、1945年4月に旧制中学の1年生になるまでは、敵性語の英語などは見たことも聞いたこともなかった。そこから(13歳から)出発して十分に間に合った。上智大学で同級の惜しくも20歳代で亡くなった横須賀出身のK君の素晴らしい英語だけではない学力には圧倒されたが、彼のその時点で既に“native speaker”だった英語力も、中学入学後から学び始めたものだったと聞いて安心もしたし、打ちのめされた気分にもさせられた。

中学の頃に病を得て卒業できずに専検(現在の大学受験資格試験)で入ってきて自信たっぷりだったF君も「自信を失った」と嘆いたほどK君の優れた英語力だった。私の強調したい点は勉強法さえ適切であれば、13歳というか中学入学の年齢から始めて十分に間に合うという点だ。また、私は大学1~2年の時に偶然のご縁で中学1年の男児を英語だけとの条件で所謂家庭教師を務めたが、その子は高校を卒業するまで英語だけは「オール5」を取っていた。また某商社では2年目の若手の個人指導を依頼され2年足らずでその課で一番の英語の使い手になってくれた。

では、彼らに何をどのように教えたかと言えば、上記のK君も同じだった中学1年程度の教科書の繰り返しての音読、それも暗記できるまでの音読、次いでは意味が分かるようになるまでの音読、そして暗唱の繰り返しだった。単語帳などは一切作らず、意味が分からない言葉に出会えばその都度辞書を見て覚え、絶対に書き込みはしない、英文和訳はせずに英語のままで意味を覚え、商社の若手には「こういう場合はこう言えば良いのかと記憶するように」と「自分が言いたいことを日本語で思い浮かべてそれを訳すような真似をすることなく、覚えているこれはと思う表現でしゃべって見よ」だった。

何だ、それだけでは成功例が少ないではないかと言う反論の如きものには何度か出会った。こちらから言ったことは「それでは我が国の学校教育の英語での成功例はどのくらいあったのですか」だった。また、「私が唱える英語の勉強法で教えられる教師などいない。偏った理想論では」とも批判されたが、それも育て損なった方々のご意見として承っておくことにした。

また、我が国の英語教育で気になることがある。それは無闇矢鱈に“native speaker”を有り難がることだ。私の英語をフランス文学のTK博士がいみじくも「支配階層の英語」と喝破されたが、普通に我が国で暮らしていれば仮令アメリカ人でもそういう階層の人たちの言葉に直に接する機会はそう滅多にない。即ち、余程気を付けていないと「何処の馬の骨かも解らない英語圏の国の者を、それが下層の出身であっても、有り難く押し戴くような結果になりはしないか」ということ。そういう聞き分けが出来る人がどれほどいるのかという問題である。

私はトランプ大統領が選挙キャンペーン中に“I’m gonna ~.”であるとか、“I wanna ~.”のような表現を濫用されることを非難した「上品ではない」と。それが彼の支持層である所謂プーアホワイト以下を狙っての表現だったのならば仕方がないので、我々日本人が初歩の段階で真似て良い言葉遣いではない。だが、そうと知って「控えなさい」と教えられる人がどれほどいるのだろうか。尤も、トランプ大統領が最近正式な場で使われた表現では、かかる下層階級向けの言葉遣いは影を潜めていた。「流石は富豪で、Wharton Schoolの出身者だ」と認識出来た。

私は誰も彼もが支配階層の英語を目指して学ぶこともないだろうし、そういう教え方をするべきか否かの議論は一先ず措くが、TOEICだの何のと試験と資格ばかりにとらわれた教え方を考え直して、実際に役に立つような英語を教えられるような人材を野に求める必要もあるのではないかと思っている。私は実際に現場でかなり優れた英語力の持ち主に何人も出会っていた。だが、現行法では彼らには大学以外にで教壇に立つ資格がないとも聞いた。それでも小学校3年からを強行するのかと思うと、一寸気懸かりなのだ。

私のEnglishの表現集ではアクセスが減っていく状態にあるので、この英語教育論がどうなっていくのか大いに関心がある。解って頂けると良いと願っている。


何処に行っても外国人

2017-02-18 08:03:14 | コラム
観光客ばかりなのだろうか:

今週は私的に多忙な事情はあったが、JR山手線を含めて電車を利用して外出することが多かった。ここ百人町・大久保界隈は言うに及ばす、どの電車に乗っても何処に行っても、必ずと言って良いほど外国人の集団に出会うのだ。13日には大崎のニューオータニで待ち合わせをしたが、あの狭いロビーの一角を占領していたのは明らかにパック旅行ではない韓国人の一家で、少女(と言っても、我が国では未だ成人と見なされていない年齢だと推定した)はJR等の鉄道の路線図を一所懸命に検討していた。それにはチャンとハングルで駅名が表示されていた。我が国の観光客誘致の懸命な姿勢が窺われた。

その大崎からの異動の山手線の車内にいた珍しい白人男性ばかりの6~7人のグループは、かなり小声で話し合っていたのも滅多にない現象だった。その中で座っていた者と偶々目が合うと「座りたいか」と目で問いかけた来たので、頷いて席を譲って貰った。そこで彼ら同士の会話が聞こえたが、スペイン語のようだった。彼らの服装と手に荷物を持っていないところを見て、山手線を馴れた様子で原宿で降りた様子からして、旅行者とは見えなかった。

兎に角、何処に行っても外国人が著しく増えたのは、安倍内閣には結構なことかも知れないとは思う。その外国人を直感と印象だけで分析すれば、中国人は政府発表の統計が示すように圧倒的に多く、確かに二番手である韓国人旅行者を我が街を離れると見かけるのも面白い現象だと思う。バングラデシュ、パキスタン、ネパール等々の人々は顔付きや聞こえてくる言葉では判断できないが、確かに増えてきた。私はイスラム教徒は何故あの様に何時でも暗い顔をしているのかと奇異に感じている。

統計上も少ないと解っているが、英語を話している白人、特にアメリカ人に出会うことは極めて希だ。彼らは今更東京に来ても、ニューヨークやシカゴやサンフランシスコと何処が違うかとでも思って避けて、京都その他の古き良き日本を観光して回っているのかと勝手に考えている。それは、未だに200年一寸の歴史しかない国の者からすれば、京都や奈良には圧倒されるというか憧憬の念があるのだ。彼らは素朴に何百年前とか千年を超えたという建造物を見て感心するものなのだ。

私は観光客で賑わうことは結構だとは思うが、正直なところ「何処の馬の骨かと思わせられるような外国人が沢山来ることが、我が国にとって本当に良いことか歓迎すべきことかは未だに疑問なのである。アメリカでは良くある例の観光ヴィザで入国してそのまま帰国せずに良からぬ仲間に入る者が今後とも出て来るのではと疑っているし、少ないとは言え外国人による犯罪だって起きている。

彼らは一度我が国に入れば「これほど安全で良い国はない」と認めるだろうし、自国よりも何らかの機会に恵まれるだろうと思い込むのだろうと思う。2,400万人の中にどれほど不埒な者がいるかは知らないが、犯罪者が出て来る危険度は上がるのではないかと、何時も不安に感じている。17日の夕方の何処かの局のニュースに中国人観光客を食い物にする不良ガイドの件が採り上げられていた。その道具に使われているのが新宿にある免税店だとあったが、「あー、あれのことかな?」と思わせてくれた。このような例も既に出ているのだ。

ところで、話は変わるが、山手線の車内放送を聞いて「アレッ」と思った。勿論日本語のそれではなく、長年貶し続けているクリステル・チアリの英語版だ。気が付けば、何時の間にか駅名の前に各駅に付けられている番号、例えば「JY17」のようなものが追加されていたのだった。それはそれで良いのだが、折角追加の番号を入れたのだから、アナウンスの英語が少しは改善されたかと思えば、相変わらず“Please change trains for 何とかかんとか線”のところで、“for”を声高らかに「フォーワ」と言っているのだ。あれは精々「フォ」か「フ」とするのが正調。

JRは何度言って上げれば解るのだろうかと情けなく思った。頂門の一針にも外国に居住される方が一時帰国された際に、このチアリさんの奇妙な発音というか強調すべきではない言葉を強調する下品な英語を批判する投稿をされていた。私は国辱的だとまでは言わないが、まともな英語を知っている人にやらせるべきだと敢えてまた言いたい。外国からのお客様が増えてきた時代に、我が国の英語の水準を嗤われるような事態は回避すべきではないか。何処となく、これが言いたかったようなものになってしまったか。