隈研吾さんはお解りじゃない様で:
先日、森喜朗委員長がオリンピックの準備が小池都知事の為に1年遅れていると言っていた。彼ならば言っても許されるのだと思った。その頃に、新国立競技場の工事の進捗状況の絵がテレビで流された。「あーあ、矢張りか」と思わずにはいられなかった。また、同じような時に、何処かの局で、陸上競技のトラックも併設された競技場でサッカーの試合を見た方が「遙か彼方でやっていたサッカーでは楽しめなかった」との率直な感想を漏らしていた。
そこで、隈研吾である。国立競技場の外観のCGだけしか見せて貰えていなかったので、観客席の勾配がどのようになっているかは解らなかった。だが、その絵で見れば、良くあることで1階席が極めたなだらかな勾配になっていたのだった。これが「あーあ」なのだ。
何度も指摘して事で、陸上競技のトラックを付けるのはあの競技場の性格からして仕方がない。だが、それに加えて1階席の勾配をあそこまで緩やかにしては、旧国立競技場と同様に「遙か彼方の球技」を見せられる結果になるのだ。私はシアトルのワシントン大学にあるフットボール専用のハスキースタジアムの急勾配の観客席や、他のアメリカの競技場の例も挙げて、設計者は事前に見学しておくべきだと論じた。
そうでもしない限り、普段熱心にフットボール系の球技を見ていないと、なだらかな勾配が如何に宜しくないかを知り得ないのだ。具体的にいえば、知らない方々ほど、前の方のフィールドに近い席に座りたがるのだが、それでは競技全体の流れを俯瞰的に見ることは出来ないとは知らないのだ。全体の動きが見えないと興味半減よりも悪いのだ。だから、「遙か彼方でやっていた」という苦情が出るのだ。
森喜朗委員長以下なのか誰か知らないが、あのデザインをそういう観客の観点で審査したのかと問いかけたい思いだ。今となっては手の施しようもないだろうが、はるばる外国から来る方もおられるだろうから、不親切だし、ある意味では恥さらしだとすら思う。捨て台詞を言えば「どうせ、私はそこまで生きていても、テレビ観戦だから関係ないや」なのだ。
先日、森喜朗委員長がオリンピックの準備が小池都知事の為に1年遅れていると言っていた。彼ならば言っても許されるのだと思った。その頃に、新国立競技場の工事の進捗状況の絵がテレビで流された。「あーあ、矢張りか」と思わずにはいられなかった。また、同じような時に、何処かの局で、陸上競技のトラックも併設された競技場でサッカーの試合を見た方が「遙か彼方でやっていたサッカーでは楽しめなかった」との率直な感想を漏らしていた。
そこで、隈研吾である。国立競技場の外観のCGだけしか見せて貰えていなかったので、観客席の勾配がどのようになっているかは解らなかった。だが、その絵で見れば、良くあることで1階席が極めたなだらかな勾配になっていたのだった。これが「あーあ」なのだ。
何度も指摘して事で、陸上競技のトラックを付けるのはあの競技場の性格からして仕方がない。だが、それに加えて1階席の勾配をあそこまで緩やかにしては、旧国立競技場と同様に「遙か彼方の球技」を見せられる結果になるのだ。私はシアトルのワシントン大学にあるフットボール専用のハスキースタジアムの急勾配の観客席や、他のアメリカの競技場の例も挙げて、設計者は事前に見学しておくべきだと論じた。
そうでもしない限り、普段熱心にフットボール系の球技を見ていないと、なだらかな勾配が如何に宜しくないかを知り得ないのだ。具体的にいえば、知らない方々ほど、前の方のフィールドに近い席に座りたがるのだが、それでは競技全体の流れを俯瞰的に見ることは出来ないとは知らないのだ。全体の動きが見えないと興味半減よりも悪いのだ。だから、「遙か彼方でやっていた」という苦情が出るのだ。
森喜朗委員長以下なのか誰か知らないが、あのデザインをそういう観客の観点で審査したのかと問いかけたい思いだ。今となっては手の施しようもないだろうが、はるばる外国から来る方もおられるだろうから、不親切だし、ある意味では恥さらしだとすら思う。捨て台詞を言えば「どうせ、私はそこまで生きていても、テレビ観戦だから関係ないや」なのだ。