新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

9月3日 その2 宮川沙江さん問題

2018-09-03 16:52:14 | コラム
問題が発生したのは速見コーチの抹消からではなかったか:

私が塚原夫妻を「老人気ない」と扱きおろした成果か、あの夫妻は何を思ったのか18歳の少女に直接会って謝罪したいと言い出した。宮川さんが夫妻のその態度の豹変を怖がって対応の仕方が解らないと尻込みするのも無理がないような気がする。

だが、私はそんなことよりも塚原夫妻を非難するようなことを言っている協会の幹部が「速見コーチの暴力の場面を見た者は証言せよ」と言って証言を募っていたとも報じられている辺りに疑問を感じる。私にはそこには協会か塚原夫妻の意図が見えていると思う。塚原夫妻の権力を笠に着た不当な圧力をかけたことがここまで明らかになったのであれば、速見コーチ自身が認めて訴訟まで取り下げ、宮川さんが孤独にされた状態を改善する為には彼に対する行き過ぎた処分を何とかすべきではないのかと思う。

私に理解できないのは、テレビに登場する反塚原派乃至は協会非難派がコーチに対する(無関係な私が見ても随分苛酷だなと思える)処分に何の言及がないのも面白い現象だなとしか見えない点だ。しかも、テレビ局もそこに登場する連中は、どちらかと言えば判官贔屓的な論調で宮川沙江さんを「可哀想だ」としているように聞こえるのも興味あることだ。何方かこの間の真の事情をお解りの方は「何故速見コーチへの処分が問題にならないのか」をお教え下さい。宜しくお願いします。


我が国の学校教育の英語も問題点を考える

2018-09-03 13:59:34 | コラム
佳子様の英語のスピーチを聞いて思ったこと:

私が畏れ多くも感じたことは「一つ一つの単語を明瞭に発音され、誰にも聞き取りやすい話し方をされたのは良かった」という点だった。皇太子殿下の英語での話の為さり方に似た点があったかなと思って聞いていた。それはそれで良かったのだが正直に後難を恐れずに言えば、飽くまでも一般論としてだが「我が国の学校教育における英語で私が常日頃から問題だと指摘してきた点が全て出ていたのでは」と思わずにはいられなかったのだった。

それらは先ず“「アクセントがない」、「intonation(=声の抑揚)がない」、「sentence stress(=強調したい点を強く言う)がない」、「pause(=切るべきところで切る)ができていない」、「liaison(=連結音)とr-linking(前の単語の終わりが r だった時に、次の単語の出だした母音だった時に r と繫げて発音する)」が出来ていない”という辺りになるだろう。

但し、Queen’s English では北アメリカの英語のようなリズム感がないと言うか抑揚がないので、平板な流れに聞こえると思っているのだ。実際に佳子様の英語は先頃UKに短期留学してこられたことでもあり、イギリス風の流れになっていたと言えるかも知れないのだ。そのアメリカの英語のリズム感だが、私が1972年からアメリカ人の中に入って仕事をするようになった初期には、何となく体でリズムを取りながら話そうとしていたのだった。この辺りにアメリカとUKの英語の違いの一つがあると思っている。

ここで後難を本気で恐れて言えば、東京基督教大学では佳子様の英語の発音や話し方をお直ししようとはしなかったのかという疑問に行き着いたのだった。私は明瞭に話されていたのは良いことだとは申し上げたが、未だ未だ改善の余地が残されているのではないのかと感じていたのだった。私がこれまでに皇族方の英語を聞いた限りでは皇后様のQueen’s Englishの発音の正確さとウットリとなるほどの美しさには心からなる敬意を表していた。

その皇后様はご自身のお孫さんの英語教育にまでは介入されていなかったのかと思ってしまった。雅子皇太子妃殿下はハーバードやオックスフォードで学ばれたとは伺っているが、未だ嘗て英語で語られた音声がテレビで流されたことがなかったので、残念ながらアメリカかUKか何れのアクセントでお話しになるのかは知らない。

私がここで改めて強調しておきたいことは、アメリカかUKかの何れの英語になろうと、我が国の学校教育では上記の「アクセントがない」以下の各項目をチャンと教えておくべきだという点だ。特にアメリカと限定しても良いだろうが、所謂支配階層の英語では上記の各項目は厳密に守られた英語になっているのであり、そうでないと後難を恐れずに言えば「トランプ大統領の支持層の者どもの英語に成り下がってしまう」のである。

だが、我が国でアメリカでもUKでも本当の意味のごく一握りの支配階層と丁々発止と正確無比で品位のある英語でやり合う機会に出会うだろう人がどれほどいるのかと言いたい人もおられるだろう。それはそうだろうとは思うが、だからと言って最初から低きと安きについてしまえば、車夫馬丁の英語を覚えてどうなるのかとは言えると思う。換言すれば「理想は高く持て」ということだが、もっと卑近な例を挙げれば「トランプ大統領の真似は為さらない方が・・・」となると敢えて言っておこう。

上記を総括すれば「チャンとした何処に出しても(出ても)恥ずかしくない英語(発音を始めとして上記の項目全て)を、中学1年(小学校3年?)から教えておくこと」となるのだが、我が国にそういう英語を教えられる先生方がどれほどおられるかという問題もあるが、私は迂闊に何処の馬の骨かも解らないような native speaker に頼ってしまうことの方が問題が大きいと思っている。

私の長年の持論は「native speaker の方々は英語に関する限り、余程良く日本の外国語教育の実態を承知していれば別だが、我々日本人が如何なることで悩んでいるかは容易には解らないのだ。故に、長年支配階層の外国人の中で仕事をしてこられ、彼らと深く付き合ってきた練達熟練の日本人に教えられるのが良いだろう」なのだが、ここでの問題点は、「ほとんどのそういう経験者の方々は教員免許など取得されていないし教えた経験もなく、恐らくほとんどが定年かリタイヤーするまではビジネスの世界から抜ける訳にはいかない立場にあるということ」ではないだろうか。