新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

2月19日 その2 森喜朗氏の後継者が橋本聖子さんに決定

2021-02-19 13:51:05 | コラム
東京オリンピックパラリンピック組織委員会の新会長が決定した:

この際、私としての偽らざる感想を述べていこうと思う。予めお断りしておくが「否定論」ではない。飽くまでも感想である。

何も期待しない:
何故こういうことを言うのかと言えば「前任者とは余りにも異なる生い立ちの新会長に過大なる期待を抱いてしまえば、もしも何か上手く行かなかった時の失望感が必要以上に大きくなる危険性が高い」のである。そこで、何かを希望的観測で期待するよりも「何も期待せず」というのか「組織委員会なる存在が何を仕上げていくのかを良く把握できていない以上、期待しようがない」のが、正直なところなのである。私はそもそもオリンピックが7月に延期されていても、無事に開催できるのかと本気で疑っていると言うか、開催されている絵が「閃いてきていない」状態にあるのだ。

私には元はと言えばスピードスケートと自転車の選手だった選手の方が、7回もオリンピックに出ておられた事と5,000人という大きな組織の上に立って国家的な行事を推進する指導能力が同じ次元にあるとは思えない。ズバリと言えば「個人種目の優れた選手としての能力と、大組織を管理し運営して行く能力が同じ次元にあるのだろうか」という率直な考え方である。それをオリンピアンだったとかアスリートだったからと混同して良いのかなという、単純な疑問である。要するに「橋本聖子さんに管理職と指揮官としての能力に期待するのは、現時点では時期尚早では」という意味。

女性を評価すれば:
今回は橋本聖子さんを会長に選んだ為に、オリンピックパラリンピック担当大臣が丸川珠代議員になり、主催都市の知事がかの演技派の小池百合子さんとなって、見事な女性が中心に立ってオリンピックパラリンピックの開催を牽引していく態勢が整った。菅首相が望まれた「女性を」が実現したのだった。私は素直に言って「女性の能力の見せ場であり、男女同一かそれ以上の能力を世界にも見せつける場面が出来た」と見ている。その意味では「期待したい」のである。成功させて欲しいのである。

私はこれまでに何度も「アメリカにおける女性の地位と実力」を経験から語って来た。ここにあらためて詳細を述べるのは避けるが、間違いない事として言うのは「(男性とても同じだが)女性には組織と人の上に立って指導し、指揮し、統率し、管理していく仕事に向いている型と、補助役として(ぼんくらな)男性のボスの至らなさを見抜いて、その欠点か補って、2人で一体となって実績を挙げられるように仕向けていく秘書型に大別できると思っている。別な言い方をすれば「財布を握って家計を賄っていく主婦型の能力が男性にあるのか」とでもなるだろうか。

上に立つ者(男性でも女性でも)が配下にある女性の適性を素早く間違いなく見抜いて、どの型の仕事に就けるかを決められないと、お互いに不幸な結果を招いてしまうのである。一例を挙げておこう。我が事業部のカストマーサービスという受注・生産・出荷・輸送・在庫管理等の重要な業務を担当していた女性は、当初は4大新卒の派遣社員で副社長秘書として入ってきた。ところが1年も経たないうちに「自分は秘書には不向きだ」と自発的に言い出して、カストマーサービス担当の女性と仕事を交換して、2人とも目覚ましく成長したのだった。

この点では、素質を見抜いて交換を許した副社長も慧眼だったという事になる。この教訓は上司が部下の素質を見抜く事も肝腎だが、各自が「自分が如何なる仕事に向いているかなどを勝手に決めて良いのか」という事でもあるのだ。どの仕事がその人に適しているかなどは、やらせてみなければ解らないのだ。だが、非常に難しい点は「その部員に不向きかとも見える仕事でも、現実にやらせてみれば、期待以上にこなしてしまう事だって間々ある事」なのだ。私が言いたい事は「菅首相の選択が正解であって欲しい」という点なのだ。結果は後6ヶ月で出るだろう。

別な視点に行こう。女性の方が男どもよりも勤勉でありよく勉強する優秀な人が多いという例を挙げてみよう。かの青山学院大学では女子学生が難関の入試を突破して全体の60%に達しているそうだ。また、我が母校の上智大学では文学部英文学科では、入試の成績だけで入学させると、全部が女子になってしまうのだと聞いた記憶がある。真面目に勤勉に勉強する女子学生の方が優秀なのだと証明されていると聞いた。

何だ、個人競技種目の元選手ばかりだ:
率直に言えば、団体競技出身の私には余り素直に納得できない人員構成だった。と言うのは、組織委員会の理事の方々の経歴と後任会長選考委員会の方々の偏りである。後者では荒木田さんだけがヴァレーボールの元選手だった。理事の方々には、確かオリンピックで3位入賞以上の実績があったサッカー、野球、男子ヴァレーボールの元選手は不在で、水泳、陸上、スピードスケート等々の個人種目の人ばかり。我々団体競技では、我が国では殊更に「チームワーク」が強調されているが、正直なところ、個人種目の方はどうなっているのかなと、考え込まされた。

不肖私も大学の頃には関東大学リーグ4部(当時の組織だが)の超弱小テイームのキャプテンを命じられて、試合の際に11人集まらない事すらあるテイームを纏めて引っ張っていくのに苦心したものだった。そんな経験でも、会社組織の一員となってからは物の考え方が解っていたので、少しは参考になった。橋本さんはスピードスケートにしても自転車にしても団体競技ではなかった。その経験と協会の役員とは違うのだろうし、国会議員だって団体種目ではないように思える。「アスリートだ」と持ち上げるのには疑問を感じている。「だから川淵さんは」などとは言っていないよ。

私はこれまでに繰り返して「マスコミが囃し立てすぎると碌な結果が出てこない」と、彼らの付和雷同的な報道振りを批判し来た。それが、今回の「オリンピック出場7回の名選手でアスリートのご出身」と太鼓を叩きまくっている。一つも組織の長としての問題点があるかも知れないとは指摘せず、選手団長として高橋大輔にキスを強要したと、週刊文春の記事の引用だけだ。私は彼らのこの程度の低さの方が、大きな問題だと思って心配している。


カタカナ語の濫用と多用に呆れている

2021-02-19 12:12:42 | コラム
カタカナ語排斥論者は圧倒されている:

この度の森喜朗前会長の舌禍事件から橋本聖子大臣の新会長就任受託に至るまでの間に、関連があった政治家、評論家、マスメディアがカタカナ語の乱発で攻め立てて来られたのには、カタカナ語排斥論者の私は圧倒されて、ただ呆然としているだけだ。曰く「ジェンダー」、「ミッション」、「コンセプト」、「レジェンド」、「レガシィ」、「アスリート」、「アスリート・ファースト」、「オリンピアン」、「ガバナンス」、「スピーディー」、「スムース」、「プロセス」等々だ。まだあったかも知れないが、とても追い切れていない。

酷い日本語の破壊行為だなと嘆く前に「何故、彼らはこれほどまでに漢字の熟語を使うのを避けるのだろうか」とボンヤリと考えながら見ていた。オリンピック関連だからカタカナ語で行こうというのなら、余りにも浅はかな考え方ではないか。思い切り皮肉を言えば「彼らはもしかしたら、これらのカタカナ語に相当する漢字の熟語を知らないのではないのか」とすら考えている。

当方がカタカナ語排斥を唱え始めたのは何と1990年の春頃からである。初心に返ってその頃に何と言って批判したかを思い出してみよう。それは「(社内で)管理職ともなると話の中に英単語を交ぜて語りたがる傾向がある。それは『どうだ、俺は英語を良く知っているぞ』という所を誇示したい為に使う人と、『如何にも自分がスマートで教養があって洗練されているか』を衒っているのか、あるいは『近代的で格好が良いのだ』を見せつけたいだけだろう。その手の人物は寧ろ軽佻浮薄なのである。英語擬きを会話や文章の中に差し挟むのを避けるべきだ」という辺りだった。

この30年前の頃と較べれば、カタカナ語と英語擬き、英語風の造語、インチキのカタカナ語が使われる頻度は、比較にも何もならないほど高くなっている。では、それだけ我が同胞の英語力が「レベルアップ」していたかといえば、残念ながら決してそんな事にはなっていない。カタカナ語を多用する人たちはそれが英語本来の意味からはかけ離れている事すら認識できていないし、英語の発音とは全く異なる珍妙な、寧ろ害毒を流しそうな表記になっている例が多い。今朝も産経新聞はシレッとして「パーテーション」という馬鹿げた表記をしていた。笑う訳にも行かない間抜け振りだ。

矢張り、我が国の単語重視の教育も揶揄しておかないと、片手落ちになるだろう。兎に角、この私が「善くぞそんな単語を掘り出してきたものだ」と感心してしまうほど、日常会話や社内の報告書等でも滅多にお目にかからないような、言わば文語的(書き言葉)な単語を使っている傾向には、排斥論者は圧倒されてしまう。最近しきりにテレビCMを打っているアプリケーションなのだろうが“backlog”というのがある。これには、正直に言って恐れ入っている。アメリカ人たちが「やり残しの仕事」の意味で使う言葉だ。応用編で“order backlog”とすれば「受注残」の意味になる。

私は1975年にW社に転身後に初めてbacklogが「注文残」として使われていると知った程度の使用頻度の単語である。それをアプリとやらの名称に使ってしまう辺りの単語の知識はお世辞抜きで凄いと思う。邪推すれば、“b”で始まる単語だから、単語帳の最初の方にあり「これだ」とでも思って採り上げたのだろう。同じように名称に使われている単語に“indeed”がある。これなどを日常会話ではかなりな英語の使い手にならないと易々と使え使えない言葉だ。これも矢張り“a”からはそう遠くない“i”で始まっているから、採用されたと疑っている。

最後に菅首相が重要政策として使われた「カーボンニュートラル」を。正直に言って「何のこと?」となってしまった。そこで検索してみた。訳語は二つあった「炭素中立」と「気象中立」で「大気中に排出される二酸化炭素と吸収される分とが相殺しあってゼロになる」という意味だと知り得た。それだったら、首相は最初からそう日本語で言って頂ければ簡単に理解できたのにと、些か恥じ入っていた。私は「カーボンニュートラル」と聞いて多くの方が「それで行きましょう」と受け入れて、菅首相支持になられたのだったら凄いなと、少しだけ僻んでいる今日この頃だ。