新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

2月9日 その2 内側から見たアメリカ

2021-02-09 14:23:00 | コラム
アメリカ見聞録:

ある機会から、昨日以来昭和20年即ち1945年から、あらゆる形で接触してきたアメリカを振り返ってみたので、今回は1972年8月に生まれて初めて上陸したアメリカ本土とその文化、即ち「言語・風俗・習慣・思考体系」を語って見ようと思うに至った。語り方は色々とあるかと思うが「アメリカ人とは国際人であるのか」という点から入って行こうと思う。

いきなり結論を言ってしまうと、俗に言われている「アメリカ人とは偉大な田舎者である」という視点から見れば「アメリカ人は国際人に非ず」と言って誤りではないと思う。では、彼らは「何人であるか」と問われれば「州際人である」と答える。英語で表記すれば、ごく普通に言われている“inter-state”が当て嵌まると思うのだ。即ち、アメリカ中を移動すれば解ることで、至る所に“inter-state freeway”という高速道路網が張り巡らされている。州から州へ車で移動する為の道路である。

我がワシントン州には北はカナダの国境からメキシコまで行っていると聞く“inter-state 5”というフリーウエイがある。これはオレゴン州を通り抜けてカリフォルニア州まで南下できる州際道路なのである。ご存じのように、アメリカは合衆国であり各州毎に政府があり州法で支配されている。特にカリフォルニア州のように広大であると、生涯に一度も州外に出たことがないという人など幾らでもいる。現に、私を嘗てカリフォルニア州の東にある工場からLAXの空港まで送ってくれた秘書さんは「州外に出たことがない」と、日本に帰る私を羨ましがったのだった。

特に、これまでに何度も述べてきたことだが、アメリカの経済圏は西海岸よりにあるロッキー山脈が東西を隔てており、ロッキーよりも東側が大きな経済圏を為している。その中の州ごとに貿易ではなかった、州の境を超えた取引や製品の移動が行われていて、東側の製造業はその圏内(州の内外)の需要だけを相手にしていれば十分に事業敏江成立するのである。従って、海外との取引などは考える必要はないのである。一方の西側はその反対で、需要はアメリカ全体の30%程度の規模であり、その程度を相手にしていたのでは大規模な製造業は成り立たないのである。

我がWeyerhaeuser社は森林を求めてワシントン州とオレゴン州にやって来たので、その社有林から伐採する丸太、製材品、合板、紙パルプ製品等々の販売先としての西海岸では不十分なので、歴史的にも太平洋沿岸の諸国向けの輸出に集中せざるを得なかったのだ。しかも、西海岸には地政学に見てもこれという大型の製造業には不向きで、自然にアジアからの非耐久消費財の輸入に依存するようになって行ったのだった。そうなってしまった最大の理由の一つにロッキー山脈の存在がある。即ち、その山を超して輸送するのはコストがかかりすぎて、採算が採れないのだった。

ここまでを要約すれば「アメリカの大手製造業界はアメリカ全土の70%の需要があるロッキー山脈の東側の経済圏に集中しており、太平洋沿岸への輸出には関心もなかったし、地理的にも輸送費が割高になるのでさして関心がなかったのである。彼らの輸出相手国は自然にヨーロッパになっていったのだった。例えば、自動車産業を見ても、その本拠地は五大湖の下になるミシガン州のデトロイトではないか。あの立地から日本向けに輸出すれば「輸送費倒れ」になってしまうのだ。それでも「買わない日本が悪い」と言う人もいるが、デトロイトは「不利である」と承知していた。

ここまででお解り願えると思うが、アメリカの産業人と言うべきかビジネスマンとするか知らないが、彼らは「国際市場」なるものに大いなる関心を持つ必要がなかったのだ。即ち、輸出先を求めて世界中を飛び回る必要などはない産業構造だったのである。考えてもご覧あれ、世界最大の経済大国の70%の需要を追いかけているだけで、各業種の世界最大規模の企業が幾らでも存在していたのだった。西海岸の我が社でも、アメリカの紙パルプ・林産物業界で売上高で第2位であり、世界でも上位10社から外れたことがなかった。

私はウエアーハウザー勤務の約19年間に、イリノイ州のシカゴで開催される“Food & Dairy Expo”という全世界を相手にする展示会に出展者として参加するので、5回ほど1週間滞在したことがあった。面白いことにあれほどに洗練された大都会であるシカゴという街は、意外なほど外国人慣れしていなかった。換言すれば「摺れていない、市民は垢抜けしていない」のだった。「何故でしょうか」とシカゴにある有名な私立のノースウエスタン大学のMBAである上司に尋ねた。答えは「東西両海岸から遠いので、案外に観光客が入って来ないから」だった。アメリカは広いのだった。

そのような歴史的な背景がある国に「国際化」だの「グローバル化」などの波が押し寄せて、世界各国から人・物・金が入ってくるようになり、下請けだと思っていた中国を筆頭にアジアの諸国からの廉価で質の良い製品が入ってくる時代となって、様相が一変してしまったのだった。そして、現在に至ったのだ。2012年にLAの巨大問屋街の「ファッション・デイストリクト」でアメリカ人の店主が叫んでいた「この店の棚の端から端まで中国製以外の何があるか」と。良質のコットンのTシャツは4枚で10ドルだった。トランプ前大統領はその辺りを嫌われたようだった。

これから先に、バイデン大統領はアメリカをどのように変えて行かれるのだろうか。あのYM氏が好んで買っていた4枚10ドルのTシャツの輸入は続くのだろうか。アメリカは本当の意味の「国際人」を養成していけるのだろうか。実は、1990年代の初頭にアメリカの会社別の対日輸出でボーイング社に次いで第2位だったウエアーハウザーは、5年ほど前に完全に紙パルプ産業界から撤退して、1900年の創業時の材木会社に戻ってしまって最早輸出会社ではないのだ。アメリカはここから先にどのように変化するのだろうか。


続・カタカナ語を斬る

2021-02-09 08:20:09 | コラム
しつこいと言われても何でも続ける:

キャプテンシー:

週刊誌だったかに文藝春秋社の「ナンバー」誌のラグビーの名キャプテンの特集の広告が載っていた。それを見て「何だ、文藝春秋社の知性というか、英語の力はこの程度か」と嘆き、且つ嘲笑いたくなった。それは「主将としての統率力と指導力」を平然として「キャプテンシー」としていたことだった。「英和でも英々辞書でも見てから記事にしろよ」なのだ。キャプテンシーを英語で綴れば“captaincy”であって「主将としての地位」の意味である。この言葉の誤用も何処かの解説者が最初に使ったものが、何時の間にか一般的になってしまったのだ。

正しくは“captainship”だと思っている。だが、不思議なことにOxfordには載っていないが、ジーニアス英和には採用されている。これでは説明不十分だと思うので、他の例を挙げれば“leadership”があるし、チャンとOxfordにも載っている。だが、“leadercy”なんていう言葉はないと言えばご理解願えるか。要するに「勝手に言葉を作ってカタカナ語にするな」ということだ。後難を恐れずに言えば、テレビ局が解説者に使いたがる昔の名選手たちは「我が国の好い加減な英語教育の犠牲者であり、知らぬ間に恥をかいている」のである。

この手の奇妙な造語は数知れないほどあるが、幾つか例を挙げておくと「リピーター」(repeaterとでも綴るのか)がある。「同じ店を繰り返して訪れる」という意味で使われているので困るが、英語では「連発式拳銃」という意味がOxfordには載っている。「アホか」と言うしかない造語であり、遍く使われている。これを正しい英語にしようと思えばclauseにするしかない。「頻繁にその店を訪れる定期的なお客様」を英語で言って見よということだ。簡単に言えば、“a regular customer”辺りに落ち着くかと思う。

「プライベート・ブランド」も如何にも英語っぽいが造語だ。しかもPB等という略語まで作られている始末だ。英語では“private label”である。「フライイング」というのがある。これはトラック種目や水泳で合図の前に走り出すとか飛び込むことを指しているが、英語では“false start”である。これは難しい言葉が出てくるので、製造業者が使用者の英語力を考慮して勝手なカタカナ語を作ってのだと曲解することにした。因みに「フォールス・スタート」はフットボールの用語でもあり、攻撃側が先に動いてしまう反則を指している。

“in”と“out”、”up“と”down“の誤用:
カタカナ語ではこれらの単語を恰も動詞のように使っている。本当の英語では絶対と言って良いほど「このように使うことはない」のである。直ぐに思いついた例に「12球団が一斉にキャンプイン」というのがある。思うに「キャンプ地に入った」と言いたいので、inを恰も動詞のように使ったのだろう。おかしな事だが、これを英語でどうのように表現するかを考えたことがない。

「ゴールイン」も矢張りinが動詞のように使われている。マラソンやスキーの距離の種目のゴールラインには“FINISH”と出ているし、完走者には“finisher”という単語がOxfordにも載っている。他にも自動車の競技で「ピットイン」というのがあるが、アメリカで教えられた表現は“pit stop”だった。当たり前のことで、inは動詞ではないのだから。

一方、アップとダウンでは「イメージアップとダウン」の両方がある。「レベルアップ」は多くの運動選手たちが当たり前のように使っている。即ち、upもdownも動詞のように平然として使われてしまっている。困ったことだ。プログレッシブ和英には「レベルアップ」だったかが“to improve the level”のようにupをimproveに置き換えてあった。尤もだと思う。製造業者は我が国の英語教育ではimprove等は難しくて使い切れないと配慮したのだろう。もしもそうだったら余計なお世話だ。

私は日本の会社勤務の頃には労働組合とは縁がなかったので「ベア」と何のことか全く解らなかった。それが「ベースアップ」と解説されて、一層理解できなくなった。何度か聞き直してアップがどうやら英語で言う“raise”のことらしいと見当が付いた。英語では昇給することを屡々この単語で表すのだ。即ち、“pay raise”のように。言いたいことを言って置けば「矢張り単語重視のような教え方をするから、このような出鱈目なカタカナ語の濫用になる」のである。「英語教師よ、反省せよ」で終わる。