「縮み志向の日本人」を想起させられた:
また懲りずにカタカナ語排斥論である。何時かは解って頂けるだろうと密かに期待して続けていく所存だ。今回は初めてカタカナ語を「我が国独特の文化である」という視点で考えていこうと思っている。掲題には1980年代初期だったかに李御寧(イオリョン)氏が表した「縮み志向の日本人」を借用したが、我が国には確かに何でも短縮しようという傾向があり、カタカナ語はその典型的な例であると思う。また、カタカナ語には日本語には折角漢字の熟語という文化があって「広範囲にわたる意味を僅か2文字に凝縮して表してしまう」機能があるのだが、カタカナ語はその美点を軽視しているのだと言いたい。
ところが、カタカナ語を創造し、且つ濫用する者たちは何を勘違いしたのか「漢字の熟語で説明すべき事柄を、それに関連する言葉である英語の単語を当てて、今となっては難しくで使い切れない(?)存在となってしまった漢字の熟語に替えて使用する」という悪習慣を生まれさせたのだった。中には正確に英語が持つ意味を利用している例もあるが、多くは言葉の誤用であるか、あるいは意味不明な形であっても、聞いた方が勝手に解釈して通じてしまっている困った例もある。以下に具体的な例を挙げてみよう。
昨日も採り上げた「ペットロス」などは典型的な「二つの単語を組み合わせてWeblioにあったような文章にしなければならない事を表現する」という無謀な試みをして、尚且つ理解されてしまっているのである。繰り返しておけば、本来は「永年飼い慣らしていた愛玩動物の死を悼んで嘆き悲しんで虚脱感に苛まれる」という事だと察しているが、“pet”と“loss”を組み合わせて表現してしまった。念の為に再録すれば“emotional effect on pet owners from loving their pet”だった。これだけの長文を2文字で表すとは「縮み」でなくて何だろう。
最近になって気が付いた事に「新型コロナウイルスの関連」ではカタカナ語が多いという現象だ。私が最初の批判したのが尾身茂専門家会長(当時)の「オーバーシュート」だった。これなどは言葉の誤用の範疇に入れて良い言葉だった。尾身氏は「大量の感染者の発生」との意味で使われたのだったが、この単語は本来は「ある一定の基準値を競ってしてあった場合に、その数値を超えてしまう事」を意味していたが、尾身氏は明らかに誤用した上に短縮して使ったのだ。ところが「オーバーシュート」は独り歩きして、小池都知事も真似をして使ってしまった。
「クラスター」も全く異なる意味で使われ、尚且つ「クラスター」と言えば「集団感染」の意味になってしまった。この場合は想像すれば「漢字四文字の熟語では固すぎるので、誰にも解りやすくて格好が良いカタカナ語で行こう」とでも考えたのだろう。“cluster”はジーニアス英和に最初に出ているのは「花・果実の房、かたまり、群」で二番目に「同種の動物・人・物などの群」がある。
だが、どう調べてみても「集団感染」を意味する英語の熟語は見つからなかった。Weblioや英辞郎に出てくるのは“mass infection”か“group infection”辺りしかなかった。尤も、“disease cluster”というのもあったが、これは「集団感染者」という意味で「集団感染」よりも一文字多いので、意味が違うと解釈した。
ここまででCOVID-19を離れて、短縮形であって言葉の誤用の典型的な例を幾つか挙げてみよう。私は「コンプレックス」というのは凄いと思っている。これに相当する英語は“inferiority complex”である。“complex”は名詞形では「複合体、合成物、感情複合体、固定観念、強迫観念」といったような意味があるとジーニアス英和にはある。だが、「劣等感」に関連するような言葉ではないのだ。これは我が国独得の方式で、発音がややこしいinferiorityを飛ばしてcomplexだけを採ったものだろう。恐らく「優越感」が“superiority complex”であるとは知らなかったのだろう。
「インフル」も困ったものだと思っている。元はと言えば“influenza”で、嘗ては「流行性感冒」略して「流感」だった。それが、時移り人変わって「インフルエンザ」では長いし、流行性感冒では解らない者がいるだろうと配慮して「インフル」に縮めたと見ている。ところが、隣にいる“influence”即ち「影響」が「俺をどうしてくれるのか」と嘆いているのを知らなかったらしい。「フリー」もおかしいと思う。これで“freelance”即ち「自由契約」乃至は「自由契約で働く人々」までを表してしまった。「フリーダイヤル」なんて言うももあるが、英語は”toll free dial“なのだ。
結び:
矢張りこれだけは言っておかねばならないのだが「英語という言語の世界では、ペットロスに見られたように言葉の数を節約した表現は通用しないのだ」という重要な点だ。日本語の世界で育っていた我々には「有無相通じる」とか「腹芸または腹を読む」とか「行間を読む」とか「紙の裏まで読む」というように表現される、独得の文化乃至は思考体系がある。だが、英語の民族たちにはかかる文化も考え方もないのである。
故に、日本語の場合のように書いても話していても「ここまで細かい事を言わずとも解ってくれるだろう」と勝手に考えて省略してしまったら、絶対と言って良いほど言いたかった事が通じないのだ。即ち、手間暇を惜しんでは「コミュニケーションは取れない」のであると心して置くべきなのだ。この点にも、私がカナカナ語を排斥し、我が国の至らざる英語教育を批判する根拠があるのだ。
また懲りずにカタカナ語排斥論である。何時かは解って頂けるだろうと密かに期待して続けていく所存だ。今回は初めてカタカナ語を「我が国独特の文化である」という視点で考えていこうと思っている。掲題には1980年代初期だったかに李御寧(イオリョン)氏が表した「縮み志向の日本人」を借用したが、我が国には確かに何でも短縮しようという傾向があり、カタカナ語はその典型的な例であると思う。また、カタカナ語には日本語には折角漢字の熟語という文化があって「広範囲にわたる意味を僅か2文字に凝縮して表してしまう」機能があるのだが、カタカナ語はその美点を軽視しているのだと言いたい。
ところが、カタカナ語を創造し、且つ濫用する者たちは何を勘違いしたのか「漢字の熟語で説明すべき事柄を、それに関連する言葉である英語の単語を当てて、今となっては難しくで使い切れない(?)存在となってしまった漢字の熟語に替えて使用する」という悪習慣を生まれさせたのだった。中には正確に英語が持つ意味を利用している例もあるが、多くは言葉の誤用であるか、あるいは意味不明な形であっても、聞いた方が勝手に解釈して通じてしまっている困った例もある。以下に具体的な例を挙げてみよう。
昨日も採り上げた「ペットロス」などは典型的な「二つの単語を組み合わせてWeblioにあったような文章にしなければならない事を表現する」という無謀な試みをして、尚且つ理解されてしまっているのである。繰り返しておけば、本来は「永年飼い慣らしていた愛玩動物の死を悼んで嘆き悲しんで虚脱感に苛まれる」という事だと察しているが、“pet”と“loss”を組み合わせて表現してしまった。念の為に再録すれば“emotional effect on pet owners from loving their pet”だった。これだけの長文を2文字で表すとは「縮み」でなくて何だろう。
最近になって気が付いた事に「新型コロナウイルスの関連」ではカタカナ語が多いという現象だ。私が最初の批判したのが尾身茂専門家会長(当時)の「オーバーシュート」だった。これなどは言葉の誤用の範疇に入れて良い言葉だった。尾身氏は「大量の感染者の発生」との意味で使われたのだったが、この単語は本来は「ある一定の基準値を競ってしてあった場合に、その数値を超えてしまう事」を意味していたが、尾身氏は明らかに誤用した上に短縮して使ったのだ。ところが「オーバーシュート」は独り歩きして、小池都知事も真似をして使ってしまった。
「クラスター」も全く異なる意味で使われ、尚且つ「クラスター」と言えば「集団感染」の意味になってしまった。この場合は想像すれば「漢字四文字の熟語では固すぎるので、誰にも解りやすくて格好が良いカタカナ語で行こう」とでも考えたのだろう。“cluster”はジーニアス英和に最初に出ているのは「花・果実の房、かたまり、群」で二番目に「同種の動物・人・物などの群」がある。
だが、どう調べてみても「集団感染」を意味する英語の熟語は見つからなかった。Weblioや英辞郎に出てくるのは“mass infection”か“group infection”辺りしかなかった。尤も、“disease cluster”というのもあったが、これは「集団感染者」という意味で「集団感染」よりも一文字多いので、意味が違うと解釈した。
ここまででCOVID-19を離れて、短縮形であって言葉の誤用の典型的な例を幾つか挙げてみよう。私は「コンプレックス」というのは凄いと思っている。これに相当する英語は“inferiority complex”である。“complex”は名詞形では「複合体、合成物、感情複合体、固定観念、強迫観念」といったような意味があるとジーニアス英和にはある。だが、「劣等感」に関連するような言葉ではないのだ。これは我が国独得の方式で、発音がややこしいinferiorityを飛ばしてcomplexだけを採ったものだろう。恐らく「優越感」が“superiority complex”であるとは知らなかったのだろう。
「インフル」も困ったものだと思っている。元はと言えば“influenza”で、嘗ては「流行性感冒」略して「流感」だった。それが、時移り人変わって「インフルエンザ」では長いし、流行性感冒では解らない者がいるだろうと配慮して「インフル」に縮めたと見ている。ところが、隣にいる“influence”即ち「影響」が「俺をどうしてくれるのか」と嘆いているのを知らなかったらしい。「フリー」もおかしいと思う。これで“freelance”即ち「自由契約」乃至は「自由契約で働く人々」までを表してしまった。「フリーダイヤル」なんて言うももあるが、英語は”toll free dial“なのだ。
結び:
矢張りこれだけは言っておかねばならないのだが「英語という言語の世界では、ペットロスに見られたように言葉の数を節約した表現は通用しないのだ」という重要な点だ。日本語の世界で育っていた我々には「有無相通じる」とか「腹芸または腹を読む」とか「行間を読む」とか「紙の裏まで読む」というように表現される、独得の文化乃至は思考体系がある。だが、英語の民族たちにはかかる文化も考え方もないのである。
故に、日本語の場合のように書いても話していても「ここまで細かい事を言わずとも解ってくれるだろう」と勝手に考えて省略してしまったら、絶対と言って良いほど言いたかった事が通じないのだ。即ち、手間暇を惜しんでは「コミュニケーションは取れない」のであると心して置くべきなのだ。この点にも、私がカナカナ語を排斥し、我が国の至らざる英語教育を批判する根拠があるのだ。