旧盆の大移動に思う:
第一部:
自慢でも嘆きでもないことで、私は東京市小石川区駕籠町で生まれ、現在は新宿区に住んでいるために帰りたい故郷がないのである。言い方を換えれば、旧盆だろうと正月だろうと何だろうと行くところがないのである。尤も、日本の会社で働かされて頂いていた時の大阪支店勤務をしていた時期には、家族とともに年末に東京ならぬ疎開からそのまま住み着いた藤沢に帰る事業があったが。
その際でも大阪から東京に帰る者の数がその反対の方たちよりも圧倒的に少ないとは申せ、、出来たばかりの新幹線の切符を確保して兵庫県から新大阪駅まで行くのはかなり疲れさせられる作業だった。1960年代では経費もかなりの負担だった。それに懲りてかも知れないが、その後には如何なる時期でも民族の一斉大移動の時期に何処かに出ていくことをしないようになった。
第二部;
アメリカの会社に変わってからは、一度だけ止むを得ぬ事情があって8月の旧盆に帰国の時期に食い込むアメリカ出張をしたことがあった。8月のワシントン州シアトル付近は冷房を付けていない車が沢山あることが示すように、誠に涼しく湿度も低く快適だった。但し、8時を過ぎても日が暮れないのには馴れておらず、やや混乱させられた。何れにせよ、このまま日本に帰りたくないと思わせてくれたのは間違いなかった。
成田に帰ってきて驚いた。当時はトローリーケース(キャリーバッグかキャリーケースは造語である、念のため)が導入されていない時期だったので、カート(手押し車?)が必要だったのだが、その列に並ばせられたのが延々と1時間。入管と税関を終わって出てきたらさらに2時間近くが過ぎていた。そこから先は当時住んでいた藤沢まで帰ろうにもバスも、成田エックスプレスも京成スカイライナーも2時間以上待ちだった。
当時はバスで横浜のYCAT経由で帰っていたが、そのバスも2時間待ちで、結果的には最も待ち時間が短かった東京か新宿駅だったかまで行くバスに乗って、また乗り換えてJRで藤沢まで行った。余談だが、藤沢からまた小田急乗り換えが待っているのだ。成田から先で自宅までに費やした時間でアメリカまでの片道に相当した。もう8月は懲り懲りだと思った。
こういう経験があったので、旧盆だろうと何だろうと、出ていかないようになってしまったのだ。我が国の文化では「皆一斉に」というか「皆でやろう」ないしは「全員一致で取り組もう」となっているので、それに従うべきだろうが、それが先頃の旧盆での高速道路渋滞の報道となって現れている。
一方、何事でも個人が単位であり、その主体性というか趣味趣向次第とでも言えるかと思うように、アメリカでは休暇を取るのは各人の勝手であり、一斉にということはない。しかも一旦休暇に入れば1週間どころか何週間でも帰ってこないのは当たり前だ。我が国の一部にはこれを羨むというか、如何にもアメリカが先進的であるかのように言う向きがある。
これは大いなる誤解であり、文化の違いを弁えていない見方だ。簡単に言えば「全てが個人単位」である以上、自分の仕事を放棄して自分の楽しみのために家族を伴って休暇を取っている間は、誰もその人の仕事を代行してくれないのが当たり前なのだ。放置されているのだ。「秘書がいるのでは」などと考えるのも誤りで、秘書はボスの仕事を代行するだけの給与を取っていないし、そうするとは規定されていないのだ。
故に、休暇明けで復帰した時に整理されずに残っていた仕事を片付けるのは大変なことだ。考えずとも解ることだが、復帰した以上残務整理以外の日常の業務は待ってくれないのだ。それが如何に大変かは経験してみなければわかり得ないこと。ここまでで、アメリカの休暇制度が決して羨ましいものではないとお解り願えれば、ここまで述べてきた目的が達成できたことになる。「お前はどうしていたのか」は何れ語るようにする。
第一部:
自慢でも嘆きでもないことで、私は東京市小石川区駕籠町で生まれ、現在は新宿区に住んでいるために帰りたい故郷がないのである。言い方を換えれば、旧盆だろうと正月だろうと何だろうと行くところがないのである。尤も、日本の会社で働かされて頂いていた時の大阪支店勤務をしていた時期には、家族とともに年末に東京ならぬ疎開からそのまま住み着いた藤沢に帰る事業があったが。
その際でも大阪から東京に帰る者の数がその反対の方たちよりも圧倒的に少ないとは申せ、、出来たばかりの新幹線の切符を確保して兵庫県から新大阪駅まで行くのはかなり疲れさせられる作業だった。1960年代では経費もかなりの負担だった。それに懲りてかも知れないが、その後には如何なる時期でも民族の一斉大移動の時期に何処かに出ていくことをしないようになった。
第二部;
アメリカの会社に変わってからは、一度だけ止むを得ぬ事情があって8月の旧盆に帰国の時期に食い込むアメリカ出張をしたことがあった。8月のワシントン州シアトル付近は冷房を付けていない車が沢山あることが示すように、誠に涼しく湿度も低く快適だった。但し、8時を過ぎても日が暮れないのには馴れておらず、やや混乱させられた。何れにせよ、このまま日本に帰りたくないと思わせてくれたのは間違いなかった。
成田に帰ってきて驚いた。当時はトローリーケース(キャリーバッグかキャリーケースは造語である、念のため)が導入されていない時期だったので、カート(手押し車?)が必要だったのだが、その列に並ばせられたのが延々と1時間。入管と税関を終わって出てきたらさらに2時間近くが過ぎていた。そこから先は当時住んでいた藤沢まで帰ろうにもバスも、成田エックスプレスも京成スカイライナーも2時間以上待ちだった。
当時はバスで横浜のYCAT経由で帰っていたが、そのバスも2時間待ちで、結果的には最も待ち時間が短かった東京か新宿駅だったかまで行くバスに乗って、また乗り換えてJRで藤沢まで行った。余談だが、藤沢からまた小田急乗り換えが待っているのだ。成田から先で自宅までに費やした時間でアメリカまでの片道に相当した。もう8月は懲り懲りだと思った。
こういう経験があったので、旧盆だろうと何だろうと、出ていかないようになってしまったのだ。我が国の文化では「皆一斉に」というか「皆でやろう」ないしは「全員一致で取り組もう」となっているので、それに従うべきだろうが、それが先頃の旧盆での高速道路渋滞の報道となって現れている。
一方、何事でも個人が単位であり、その主体性というか趣味趣向次第とでも言えるかと思うように、アメリカでは休暇を取るのは各人の勝手であり、一斉にということはない。しかも一旦休暇に入れば1週間どころか何週間でも帰ってこないのは当たり前だ。我が国の一部にはこれを羨むというか、如何にもアメリカが先進的であるかのように言う向きがある。
これは大いなる誤解であり、文化の違いを弁えていない見方だ。簡単に言えば「全てが個人単位」である以上、自分の仕事を放棄して自分の楽しみのために家族を伴って休暇を取っている間は、誰もその人の仕事を代行してくれないのが当たり前なのだ。放置されているのだ。「秘書がいるのでは」などと考えるのも誤りで、秘書はボスの仕事を代行するだけの給与を取っていないし、そうするとは規定されていないのだ。
故に、休暇明けで復帰した時に整理されずに残っていた仕事を片付けるのは大変なことだ。考えずとも解ることだが、復帰した以上残務整理以外の日常の業務は待ってくれないのだ。それが如何に大変かは経験してみなければわかり得ないこと。ここまでで、アメリカの休暇制度が決して羨ましいものではないとお解り願えれば、ここまで述べてきた目的が達成できたことになる。「お前はどうしていたのか」は何れ語るようにする。