新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月16日 その2 大量に送られてくる迷惑メールについて

2020-07-16 15:00:46 | コラム
私は決して拱手傍観していた訳ではない:

私は2003年の初夏の頃だったか、突然発生した先方様の止むを得ぬ事情で、週刊誌用の余り得手としていない英文和訳の仕事を引き受けたその日に、永年愛用してきたワープロの寿命が尽きてしまったのだった。そこで急遽長い間拒んできたPCを導入するようになり、買った当日から訳も解らずに使い始めた。何と齢70歳だった。使い始めて何とか文明の利器に馴れてから、嬉々としてアメリカの元上司、同僚、友人、知人と交信するようになり旧交を温めることが出来た。勿論、メールアドレスがアメリカの何処かの悪者に盗まれて悪用されるなんて、夢想だにしていなかった。

すると、間もなく私のOCNのメールアドレスが盗まれたようで、迷惑メールに使われるようになったようだった。そんな事が起きるとは知らないから、元の上司宛のメールが着信拒否されるようになってしまった。そこで愚息を含めてPCに詳しい方々に教えを乞うと、私のOCNのメールアドレスが盗まれて悪用されていたので、着信拒否するサーバーがあると学習した。そこで、OCNに苦情を言って、何とか改善させた。その際に薦められて「迷惑メールブロッキングサービス」を契約した次第。と言うのも、私宛に私のメールアドレスで迷惑メールが来るようにまでなっていたのだった。

その間にも畏友佐藤隆一氏にも色々と指導と援助して貰って来たし、設定等々の細かいことは全て愚息任せであり、自慢じゃないが私のPCのリテラシーなどは皆無と言っても良いと思う。今回の大量の迷惑メールが送りつけられるようになるまでは、この手のメールは精々1~2週間に数本あるかないかだった。6月以降はそれだけに異常事態だと見ている。佐藤氏から機械で送られているので対抗しようがないと、早い時点で教えられていたし、愚息も「メールアドレスの変更の方法もあるが、その場合の事後処理も大変だから、何れ終わると思って耐えているしかないだろう」と言っていた。

現在、その大量の迷惑メールをどのように処理しているかを再度詳しく言えば、毎日OCNから「ブロックした迷惑メール」が一本のメールに一表となって送られて来るので、それを開いて検討して、1~2本の正常なメールを受信トレイに移す作業をすれば終わりだ。残りは一本の一表となっている迷惑メールの通知のメールを一括で削除して終わり。私にはこの機械で送られてくる大量のメールの対抗手段が「ブロッキングサービス」以外の手法があるとは思えないのだが、何方か他の対処法をご存じだろうか。当然、機会があればもう一度OCNに相談してみようと思ってはいるが。



新型コロナウイルス制圧対策

2020-07-16 09:32:02 | コラム
閣僚も都知事も「自分でやってやる」くらいの気迫を見せて欲しい:

新型コロナウイルスの感染が再び広範囲で増加する傾向が出てきた。非常に好ましくない傾向であり、専門家というかお医者様によっても見解が分かれているが、第二波の襲来とでも言いたいほどだ。私などには現状(近頃はチャンとした学識経験者でも「今の現状」などと言われるのは誠に嘆かわしい)の分析など出来ないが、緊急事態解除と小池都知事の何とアラート解除等の負の効果が明らかに出てきている他に、西村康稔大臣の失言である「気の緩み」が作用している気がしてならない。それらが複合して、馬鹿者たちが夜の街に態々感染しに繰り出す状態を招いたのではないか

私は何も橋下徹氏の真似をする訳ではないが、小池都知事でさえ「特措法の改正」を上申しているのだから、政府と国会議員たちは何とか方法を講じて国会を開いてでも、この実効性に乏しい法律を改正すべきだと思っている。言うまでもない事で緊急事態にありながら「要請」しか出来ないような法律の下では、休業させるべき業種を放置するしか出来ない事態は、正常ではないと思う。休業を命じれば補償が問題になるという説があるが、この際思い切ってマスコミの感情論は忘れて感染源となる業種と業界を止めるくらいの割り切りがあって良いのではとすら、私は考えている。

ここで敢えて「私は小池都知事嫌いである」と立場を明らかにして言うが、小池都知事は言葉を弄ばれることに長けておられ、今回も色々尤もらしい標語やご意見を記されたカードを掲げて見せておられた。先頃は何の事か分からないという人も出た「ロードマップ」だの「東京アラート」だの「ステップ何とか」を打ち出してウイルス対策を公表された。だが、現実論として「如何なる具体策を以て新型コロナウイルスを制圧するか」についての細かい説明などなかった。そういう英語擬きを掲げられたところまでで「我が事成れり」と満足されたのだと疑っている。

これは何も小池都知事に限った現象ではなく、内閣でも国会でも何か目標というか「このような事柄を目的としてこういう手法で達成しよう」と言い出したところで、関連するもの全員が何故か既に事が達成したような気持ちになるらしくて、誰も具体的な実行段階に向かって邁進せずに終わってしまった例が多いと思う。その案件は大向こう受けして素晴らしいのだが、実行する手法までには至らないのだ。偶々思い浮かんだのが小池都知事の選挙公約だった「七つのゼロ」だ。これは大変結構だったか、どれか一つでも実行されただろうか。

小池都知事の場合は意図的なのか、そこまで考えていないのか知らないが、都民が耳を欹てるような「それは素晴らしい」という類いの標語なり目標を打ち出されるのだ。私にはそれらは単なる「スタンドプレー」(これはカタカナ語で、本当は“grandstanding”などとなるようだが)が非常にお上手なのだ。しかも、そこには英語擬きが入るので、知らない人には深い教養と高い知性の持ち主に見えるのではないか。だが、遺憾ながらほとんど具体的な実行を伴っていないのが問題だと思う。現在の200人前後の感染者の急増に対しては、実態のないスタンドプレーでは対処できない事態だ。

私は現時点は小池都知事が西村康稔大臣に「Go to キャンペーン」がどうのと再考を促して済むような事態ではないと思って見ている。今度こそ、本気になって立ち上がって歌舞伎町にでも出て行かれて、騒ぎ回っている若者に訓示をしてでも自粛させるべき時だと思っている。何か格好が良いことを言い出して「後は下の者たちがやるから」と大所高所から眺めている済むことではないのだ。

その点は西村康稔大臣も加藤勝信厚労相だって同じだ。自分で現実のグラウンドに降りたって「競技に参加」して、現場を監督するくらいの気構えがないと収まらない事態だ。そこで感染したら「名誉の負傷だ」と言って見せるくらいの気迫を見せて欲しい。今や「緊急事態」を通り越して「非常事態」に近くなりそうなのではないのか。言いたくはないけど、アメリかでは偉い人ほど自分で現場に出ていくよ。


7月15日 その2 何故英語を使いたがるのだろう

2020-07-15 13:07:19 | コラム
カタカナ語排斥論者はリアルに嘆く:

先ず「文科省とこの世の英語教師たちは何をしているのか」と問いかけて、自分で答えてしまえば「彼等は何も英語教育に役に立つことはやっていないのだ」となった。この点は後でまた触れようと思う。

近頃はドンドン新手のカタカナ語(と私は言うが、使っておられるご当人は習い覚えた英単語の知識を駆使しているつもりだろう)が増えてくるのには、本当に辟易させられている。何度でも言うが「そこに英語擬きを使って表現する必要もなければ、必然性もない」のである。私は「単語」、「単語」と言って騒ぐ我が国の英語教育を散々批判してきた。今回も同じ事を言うだけ。

その単語集の最初に出てくるのが、“abandon”だったと思う。私の長い間の英語の世界での暮らしの中で、アメリカでTIMEだったかに“abandonment”という単語が使われているのを発見したときには「やったー」と叫んだほどだった。我が生涯最高の上司である副社長が屡々使っていた“Are you ready for this?”を活かせば「昭和20年(1945年)4月から英語を学び始めて、1994年1月末でリタイアする間の49年間にたった一度出会った“abandon”だった。如何に単語を覚えることが無駄かと言いたいのだ。折角努力して多くの単語を覚えたのだから、使いたくもなるだろう。

近頃目立つ(耳立つと言う方が正確か?)のが「ピンポイント」だ。何かにつけて出てくるのだ。思うに「正確にその細かい点をついて行く、乃至は狙っていく」と言いたくて使われているようだ。何処の何方が使い始めたのか知らないが、私は浅学非才にして“pinpoint”という言葉を使えたことがなかったし、アメリカ人から言われたこともなかった。そこで、慌ててOxfordに訊いてみた。それは何と動詞で、“to find and show the exact position of ~ or the exact time that ~ happened”というのが出てきた。

名詞としては“a very small area of ~ especially light”となっていた。形容詞ならば“if ~ is done with pinpoint accuracy, it is done exactly and in exactly the right position”だった。お陰様で私にはこう言う元の英語の意味の何処を採って使っているのかは、かえって解らなくなった。ジーニアス英和には「本質、原因などを正確に指摘(記述)する、正確に把握する」という動詞の意味が最初に出てくる。次に「正確な位置を示す」が出てくる。余計に解らなくなってしまった。恐らく2番目の応用編で「正確に指し示す」と言いたいのだろうと思いたいが如何か。

次が「リアル」(real)なのだが、これも既に何度も採り上げた「トラブル」(trouble)と同様で、あれほど乱用というか多用されては「さて、realの本来の意味は何だったか」と悩んでしまうのだ。出川哲朗等が愛用するのを聞いていると「本気で」とか「実に本当に」と言いたいときに使っているのだ。勿論、他の芸人も同様だ。そこで、先ずジーニアス英和を引いてみれば、先ず出てきたのが「実在の、創造ではなく現実の」が出てきた。「なるほど、そうだった」と思った。次は「人工ではない、正真正銘の、本物の」とある。

では、頼りにしているOxfordには何と出ているのか。“actually existing or happening and not imagined or pretended”となっていた。ジーニアス英和に最初に出てきたのと同じだと思う。それがどうして「本当だ」という意味で使われてしまうようになったのだろう。私は矢張り「単語」をバラバラに覚えさせて、流れの中でその遣い方を教えていない為に、マスコミの常套手段のように「都合の良いところだけを切り取って使ってしまうのだ」と見ている。こんなカタカナ語は一刻も早く止めることだ。

参考にはならないと思うが、アメリカ人が使う“real”の例を一つだけ挙げておこう。想像もつかない使われ方だと思う。“How are you doing, today?”に答えて“Real good. Thanks.”のようになってしまうのだ。この“real”の意味は何でしょうか。文法的におかしいとは思いませんか。これが俗に言う「生きた英語」なのだ。だから言うのだ。「無闇に単語を日常会話の中に遣いなさんな」と。

今日までに繰り返して非難してきたことで、「テレビ局は妙なカタカナ語を乱用するし、そこに登場される学識経験者であると思われる専門家が平気で『フリップ』などという誤ったカタカナ語を使われるのは信じ難いのだ。私は専門家の方々は「出して貰えた事を多として本当はせめて『フリップチャート』であるものを妥協して「フリップ」と言い、恥ずかしくもなく『セキュリティ』などという誤った発音のカタカナ語を使うのだ」と邪推している。まさか専門家が本当に英語をご存じないとは思えないのだ。

私が見る限りでは新聞の投書欄などにはカタカナ語の乱用を嘆く比較的高齢の方のご意見を見るときがあるし、小池都知事の知ったかぶりとしか言いようながないカタカナ語を嫌悪する投書もある。だが、遺憾ながら当方も含めて少数派の意見に過ぎない。私はこの世の英語教師たちには「おかしなカタカナ語が乱れ飛んでいることが自分たちが碌な英語を教えていないことの好ましからぬ成果だと思うことがないのか。『トラブル』が英語の世界では「揉め事」として使われないと承知していないのか。一度で良いからOxfordを引いてみろ」と言ってやりたい。


安倍内閣の新型コロナウイルス対策に疑問を感じる

2020-07-15 08:49:04 | コラム
私には一貫性が見えない安倍内閣の姿勢:

橋下徹氏はテレビに登場する度に、と言うよりも今や一大花形コメンテーターにのし上がった感が濃厚だが、「政府の対策の不備を声高に批判し、特措法の速やかなる改正を」と主張し続けている。更に「この緊急事態下に国会を閉じてしまったとは」と手厳しく論じている。この方の特徴は、如何に悪口雑言であって朗らかに言うので、所謂専門家やジャーナリストのような暗さと深刻さがない点だろうと思って聞いている。その独得の橋本節には「なるほど、そうだな。政府は手緩いな」と感じさせる巧みさがある。

今回は私でさえ数多くあると思っている政府の新型コロナウイルス制圧対策の不備の中で、久しぶりに加藤勝信厚労相の批判を採り上げてみようと思う。その前に「これでもか」というほど言って置きたい事がある。それは、主にテレビ局の事で如何に私が繰り返して批判しても、彼等は一向に「外食業者と外飲み業種が苦境に立って廃業の危機にさらされている事が、何事にも代え難いほど気の毒で再度休業を要請するなら手厚い保護と補償を」と叫ぶ事を止めない点だ。小池都知事などは、常にこの感情論に乗ってお金を出して人気取りをする始末だ。「おかしな事だ」と言っておく。

ところが、その言わば「お涙頂戴劇」を演出するテレビ局は最近は多くのお医者様にご登場願って、大小を問わない病院、医院、クリニックの深刻な等という状況を通り越した「経営の危機」を採り上げて「大変だ、大変だ。医療崩壊を招きかねない」と騒いで見せている。この報道は尤も至極である。私も何度か採り上げたが、実際に大病院に毎月のように診て頂きに行っているが、患者の激減は目に見えている。解りやすい例では、会計係に会計票を提示すると直ちに「もう自動支払機で準備が出来ております」と告げられて、嘗てのような20~30分の待ち時間などない始末だ。

大きな病院がどれだけ大変な状況にあるかを、テレビに出てこられるお医者様の説明では「病院では新型コロナウイルスの患者を受け入れる為には、4人部屋を1人用に設備を切り替えるのだが、事はそれだけに終わらず、その病棟用には通常の何倍かの看護師さんを充てねばならない。そうする事によって一般病棟が手薄になるし、患者さんの受け入れも減らさざるを得ず、必要な手術をも先延ばしにする事態も生じる」のだそうである。病院にそれだけの収入減と経費(コスト)上昇が発生するのは、これまでに何度も入院を繰り返してきた私には、痛いほど理解できる。

しかも、報道によれば多くの病院では夏の賞与を大幅に減額し、更には支給を停止したところさえあるという。その為かあらぬか、東京女子医大病院のように看護師さん400名が退職の意思を組合に示したという例さえ出てきた。私はこれも由々しき事態であると思う。看護師さんたちに同情して言えば「彼等は賞与を支給されなくなるような過失を犯した訳ではないのだから、この処置は不当である」となると思う。何処かで誰かが病院経営の危機を何とかして救済すべき事態だ。

そこに、加藤勝信厚労相が言われたのは「医療従事者には20万円を特別給付する。その他には無利子無担保の資金貸し付けとうの援助をするので、対策は講じている」と曰われたのだった。誠に以て見当違いな言い草ではないか。外食業者や外飲み業種やホストクラブやキャバクラにはPCR検査をしてやるは休業補償までするというのに、彼等よりも比較にならないほど重要なウイルスから我々を守って下さる病院・医院・クリニックには「20万円上げるし、無利子無担保の貸し付けをするから我慢せよ」とほざいたのだった。

私ならば「二次(だったか?)補正予算で10兆円の予備費を取ってあるから、可及的速やかにその中から皆様の赤字を補填させて頂きますので、看護師さんたちは賞与が出せるようになるまで暫時お待ちを」と言うだろうと思う。私は加藤勝信厚労相は西村康稔大臣と同等にその責任回避振りと、職責が何たる者かを心得ていない駄目大臣だと低評価してきたが、この度の発言でそれを裏書きした。無利子無担保の融資と言えば聞こえは良いが、何れは返済せねばならない借金のだ。救いにはならない。この言い方は「37.5度は誤解だ」と人を見下す事を言ったのと同じ暴言だと断じる。

安倍総理、もう好い加減に彼等二人を懲らしめないといけませんよ。新型コロナウイルス制圧対策がここに来て土齟齬を来し始めそうなのは、全て貴方の責任になりますよ。それとも、こういう病院に対する血が通っていない冷酷な政策が、貴方様の本心でしょうか。まさか、加藤勝信厚労相に任せて、病院をこの時期に壊滅させて良いとお考えではないでしょうね。

7月14日 その2 英語の品格の考察:

2020-07-14 13:36:16 | コラム
英語の品格とは何かを考えよう:

当たり前のことだが、何も英語だけに限ったことではなく、日本語でも品格も品位も求められている。それはそれとして「英語における言葉の品格」とは如何なる事を指しているにかを考えて見ようと思う次第。

私は我が国における英語の在り方には問題点が多々あると見ている。その中でも最も困ったことだと思う点は「学校教育では実用性に乏しい教え方をしている為に、多くの方が通じたか通じなかったかを非常に重要視している事」なのである。そこには英語力が示す教養であるとか、品格や品位などに気を配っている余裕などは全く感じられないのだ。

使ってはならない言葉や表現などは全く教えられていなかったので、屡々聞かれる「兎に角知っているだけの単語を並べたら云々」という、何と言って評して良いか解らない事態になってしまうのだ。ズバリと言ってしまえば「科学としての英語を数学のように教えて、児童・生徒・学生に優劣の差を付けようという何とも救いようがない教え方の問題」なのである。このように論じてくると学校教育の批判になってしまうが、今回はそういう大それた意図はない。

品格とは:
1996年だったか、香港に市場調査を兼ねて遊びに行った帰りの機内で、隣に座ったアメリカの大手包装材料メーカーの若き香港支店長(スタンフォード大学のMBAだと名乗った)と語り合ったのだった。その際に特に深い慮りもなく「クリントン大統領の南部訛りには品格に乏しく好感を持てない」と言ってしまった。

するとどうだろう。その若き支店長は「外国人の貴方がよくぞ言ってくれた。我々は決してあのような訛りのある言葉を使う大統領を決して快くは思ってはいない」と言って握手を求めてきたのだった。アメリカ人ではない私にも理解できる反応だが、「そこまで言うか」とアメリカのエリートたちが求める品格と格式の厳格さを改めて知る思いだった。

同じ民主党のオバマ大統領の言葉遣いにも決して支配階層の品格はなかったと思う。と言うよりも、良家のご出身ではないと察しがつく程度の品位だった。そこで、一例を挙げて置けば、例えば
 I think that we will be willing to take the risk.
のように話す時に、彼は that で一旦 pauseを置くのである。これは品格に欠ける語り方と決めつけざるを得ないのだ。即ち、we will be以下は thatで始まるclauseであるのだから、先ずI think で一旦切って、言うなれば一呼吸置くべきなのだ。これだけでも、厳しく言えば「格調が低い」と批判されるのである。我が国の学校教育ではまずこのthatの前で一旦pauseを置くことが教えられていないようだ。

ところで、トランプ大統領である。彼は自分の支持層であるプーアホワイト以下と労働者階級等々を相手に語る時は、恐らく意識的なのだろうが、かなり品格を疑うような表現を使われるし、とてもアメリカ合衆国の大統領とは思えない swearwordの類いの言葉を敢えて選んでおられるようなのだ。永年アメリカの支配階層にある会社の中で、アッパーミドルの人たちと過ごしてきた経験から言えば、あり得ない品格に欠如なのである。

しかし、トランプ大統領は公式の席などではアメリカ大統領に相応しい言葉使いで語っておられることが多いので、精一杯善意で解釈すれば、言葉遣いを使い分けておられるのだろう。更に、お得意のTwitterでは、とても大統領とは思えない言葉を平気で使っておられるのも気になる。率直に言えば、品格には気を遣っておられないようだということ。

言葉の品格
私は品格とは「常識的に見て(swearwordのような)汚い言葉を使った表現や、文法的に誤りがある表現を使った文章を書くか、または話す事がない事。更に言えば、話す時に英語独特の連結発音(=liaison)が出来ていなければならない事」を言うのだと信じている。即ち、ご当人が世界的な英語の音声学の権威だと言われた上智大学の千葉勉教授が繰り返して指摘された「Englishを良く勉強して文法を間違えることがなく、下品な表現や言葉とはどのようなものかを弁えて絶対に使ってはならない。さもないと無教養だと看做される」という意味でもある。中でも注意すべきは「汚い言葉」と訳されている“swearword”を「格好がよい」等と誤認識して覚え込み、他人様の前で使ってしまうことである。この類いの言葉は学校教育では教えていないようなので、良く注意して絶対に避けねばならない性質だと知っておくべきなのだ。

連結音:
矢張り、この例も挙げておこう。学校教育では先ず教えられていないようだ。即座に思いついた例が、ラグビーやフットボール(アメリカには「アメリカンフットボール」という競技はない、念の為)で相手側にボール奪われることを“turnover”と言うが、“turn over”とすることもあるので、中継放送などではほとんどの解説者もアナウンサーも「ターン・オーバー」と言っている。これは「連結音」を教えられていなかった為に起きた問題である。ここでは「ターンノーバー」に近くして、turnの最後のnとoverのoを連結しなければならないのだ。

他にもturnを使った例を挙げておくと、Helenと一緒にいたときに「あっちを向いて」という意味で“Turn around the other way.”と言われたのだが、「ターナラウンド」と一瞬聞こえて意味が取れなかった。同様に「こっちを向いて」は“turn around this way”となる。

使ってはならない汚い言葉:
かく申す私も、1972年8月までは、swearword使うことがどれほど良くない事であり、且つ自分から下層階級に属していると告白するのと同じである」とは明確に承知していなかった。別な視点から論じれば、一定以上の階層では、swearwordを使うことは当たり前のことなので、そういう連中と付き合うと、ついつい知らぬ間に覚えてしまうようだ。

心すべき事はswearwordは我が国では屡々“slang”と混同されているが、全く別な範疇にある言葉であり、苟も一流会社に所属している者が使ってはならないのだ」という点だ。その例を少しだけ挙げておけば、“hell”であるとか”God damn it.”や“Shit.”といった単語とphraseである。そういう種類の表現を使っただけでも「社会の下層に属する者」と蔑まれる言葉であることが、我が国の教育では生徒にも学生にも一般人にも知らされていないのである。なお、”slang”は「隠語」や「符丁」の類いを指し、swearwordとは明らかに別物であることは、これまでに何度も指摘してきた。

文法無視は無教養の現れ:
swearword以外の品格に欠けた言葉遣いの例も挙げておこう。それは、我が国ではかなり広く知れ渡っている「私も」という意味で気軽に使われている“Me, too.”である。これの何処がおかしいのかと言えば、“me”は目的格であるから主語に使うのは不適切であり、正しくは“I”であるべきだという文法上の誤りだ。だが、この形でかなり広まってしまったし #me too などというのも最近は別な意味で知れ渡っている。私が嘗て「Me too.は駄目だ」と否定したところ、文科省OBの方が「ライシャワー大使も使っておられたから問題ない」と猛烈に反論されて困ったことがあった。私的な場では大使といえども使われることはあると思うのだ。

では、“Me, too.”の代わりに何と言えば良いかだが、“I think so, too.”でも通じるだろうし、“The same here.“でも良いだろう。我が事業部にいたニュージーランド人でOxfordのMBAの人物は独特の表現で“The same applies.”と言っていた。覚えて置いて貰いたいことは「こう言えば良い」という決まりなどないのだから、自分で考えて表現することが肝腎なのだ。

そこで、「長年親しくしているニューヨーク州出身で夫婦ともMBAである典型的なアッパーミドルの極めて厳格な家庭である嘗ての私の上司だって夫妻の例を挙げてみよう。なお、お二方ともMBAであり、長男はハーバードのMBAであり、長女はUCバークレーで修士号をとった大学教授である。

その夫妻と私と3人で夕食会をしていたときに、奥方が「今日参加した会合で友人の誰それさんが“Me, too.”と言われたのには驚いた」と言われた。それを聞いた上司は「そうか、彼はそういう表現を使ったのか。見損なったな」と嘆いて見せたのだった。彼は会社を引退後にはコンサルタント業を経て大学院大学の教授に就任し、奥方は労務関係のコンサルタント事務所を開いていた。アメリカの典型的なアメリカの支配階層では、このような言葉についてはこのように極めて厳格なのだという事を承知しておいて欲しい。

追加で申し上げておけば、私は社内でついウッカリswearwordを使って、副社長に別室に呼びだされ「我が社の社員たる者、私の面前で二度とそういう言葉を使うな」ときつく叱責されたものだった。これがアメリカの支配階層にある会社の言葉遣いの感覚であり品格なのである。

ところが、「アメリカにはswearwordがあり、下層階級が好んで使う言葉だ」と知らずにアメリカに留学や駐在に行くと、swearwordが何かを強調したい時などに便利に使えると知る機会があるのだ。しかも、そういう言葉を多用する連中に出会う事もまた多いようだ。そこでつい「これこそがアメリカ英語で格好が良いのだ」と誤解して覚えてしまった上で、嬉々として使ってしまうようなのだ。大間違いである。

私はアメリカで支配階層に属する者たちは精々全体の5%程度だと思っているから、外国人である我々がアメリカに観光旅行などで出掛けただけでは、そう滅多にアッパーミドルかそれ以上の人たちと語り合うとか、会食をすることはあり得ないだろう。であれば、悪い言い方だが「安心して単語を並べて語り合っても良い」事になってしまう。

品格と発音の考察:

Native speaker並なら良いのか:
私は発音が綺麗で正確であればあるほど良いと思っているし、嘗ては「発音が良いのは七癖隠す」とまで言ったことがあった。言うなれば、発音が良ければ品格も上がるという事を言いたいのだ。発音で留意すべき点は「正確で明瞭にしようと心がけること」がある。更に、「話す場合にはアクセントと抑揚(intonation)が正確であること、切るべき箇所(pause)を誤らないこと、連結音(liaison)が出来ているかいないかが要注意」なのである。即ち、少し大袈裟に言えば、「ゼア・アー・ツー・サーテイワン・アイスクリーム・ショップス。」のような th やtwoの発音しか出来ていなくとも、相手が聞き取りやすいように全てが明瞭であれば聞き手に理解させることが出来ると言いたいのだ。このカタカナ書きの例文は rーlinkingが出来ていないことをも示している。

また発音とは必ずしも綺麗なnative speaker並の発音にする(出来る)ことではなく、相手が聞き取りやすいように明瞭であること(あるアメリカ人はclarityという言葉で表現した)を意味する。アクセントの付け方も重要で、アメリカの英語ではQueen’s Englishよりもアクセントが強調されている。即ち、私はUK式の方が平板に流れているように聞こえてくる。

極端な表現だが、私は「我が国の英語の先生方に多く聞かれる例で、カタカナ語的というかローマ字の悪影響の下にある外国人離れした上記の例文のような「英語」であって、正統派ではないのだ」と言いたい。「この正調ではない“English”ではない発音からは、出来る限り離れるように努力された方が無難である」とまで考えている。

より具体的に言えば、同じEnglishでも英連合王国(UK)、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドにはそれぞれ独自の発音と訛りも方言もあるので、その中のどの国の英語の発音を選ぶかは、慎重に検討すべきだと言いたい。だが、我が国の学校教育だけで学んだ英語の知識では「どれがアメリカ式でどれがオーストラリア式かは、容易に判断出来ない」のが難しいところだ。私は少なくとも、所謂“London Cockney”とそれにも似たところがあるオーストラリアとニュージーランドの訛りは避けた方が無難だと言って良いと思っている。それはオーストラリアでは Australiaと書いて「オーストライリア」のように“a”の発音に特徴があるのだ。

これまでに何度か例に挙げてきたが、UKのサッカーの名選手だった そそっかしい我が国のマスコミが「貴公子」と呼んだDavid Beckhamは、自分の名前のDavidを「ダイヴィッド」と発音するのである。この訛りは決して上流階級のものではないが、オーストラリアでは閣僚級の方でもこういう訛りがあるので怖い。

私は全世界で最も広まっていると信じているアメリカ式の発音が良いだろうとは考えているのだ。だが、ヨーロッパでは地理的な条件もあってQueen’s Englishの発音が最も普及している。私はアメリカとの縁が最も深かったので、アメリカ式に準拠しているが、実際にはそれとUK式の中間になる発音にするように意識してきた。しかし、面白いことにこういう発音すると、オーストラリアやカナダ(実はUKの系統に属する)では「美しい英語だ」と褒められるのだ。

“r”の後にa,e,i,o,uが来るときの発音:
私がアメリカ式の中で最もお薦めしないのが、ar、er、ir、or、ur等の“r”が絡んだ場合に舌を巻いて r を強調することだ。この巻き舌のような発音はアメリカ国内の何処の出身かで違うが、rを強調しない方が無難であり上品だと言える。

シカゴ生まれのかのヒラリー・クリントンさんの発音では、この傾向が極めて顕著だったのを思い出して頂きたい。私はこの点だけでも彼女を嫌っていた。「この r絡みでは、敢えてQueen’s English式の方をお薦めしたい。その方がUKは言うに及ばす、ヨーロッパに行っても嫌われることがないだろう」から。

アメリカかUKかの何れの発音を心がけるかは各人の選択にお任せするが、何れにせよキチンとした正確な発音が出来るようにしておきたいものだ。それが品格に通じるのである。日本人には“I don’t know.”などのような場合に“t”の発音が難しくて「アイドンノー」ようになってしまう例が多い。私はこういう発音は品格に乏しい英語と看做されると断じたい。何とか“t”のような微妙な発音が出来るように努力されたい。これが出来ないとアメリカでは「オリエンタル・アクセント」と揶揄する人もいるのだから。

貴方の英語の品格の落とし方:
屡々見かける例だが、英語の「会話」とやらの勉強を始める時に「“you know”という句(=phrase)を挟んではいけない」と教えられていない場合に生ずることだ。アメリカ人なり何なりの外国人の中に入って行くと、その人たちが属する階層によっては“you know”のシャワーを浴びせかけられることが多い。

そこでは、その人物のお里が知れたと思うべきなのだ。品格のほどが解ってしまうと思って欲しい。要するに“you know”とは言わないのが良いと認識して貰いたいのだ。私は1945年にGHQの秘書をしておられたHelenに最初に教えられたことの一つの項目がこの点だった。

我が同胞は“you know”の何処が問題であるかを知らずに「何となく格好が良い」か「気取っているのか」と勘違いして真似てしまう例が多いのが非常に遺憾である。とんでもない誤解である。私はこれを「you knowを多用されることは、貴方が有能であることを証明しないのです。使えば有能ではないことになります」と解説してきた。そういうことで、先ず絶対に真似して使ってはならないことなのだ。

例文を作ってみれば“Yesterday, you know, I went to see my old friend at the Tokyo Dome, you know.”といった具合である。”you know”を言わなくても意味は通じるのだし、これが貴方は「私は知識階級ではありません」と自己申告したような結果になると知って貰いたい。また、my old friendも好ましくないのだ。ここでは”one of my old friends“と言わないと、貴方には旧友が1人しかいないことになるのだ。この辺りを学校英語では教えられていない英語という言語のの理屈っぽさだと承知して欲しいのだ。

私がHelenに叩き込まれたことは「何か表現が思いつかない時などには絶対に“you know”などと言ってはならない。精々“let me see“くらいにして、それが出てこなければエーでもアーもウーでも良い」と教えられた。その頃には、この意味は解らなかったが、後年アメリカ人の世界に入って初めてその教訓の価値が解ってきた。

既に挙げた上司の奥方にこのHelenの教えのことを話した時に「その秘書の方の教えは素晴らしい」と言われた。他の例を挙げれば「MLB等から我が国にやってくるアメリカ人や南アメリカ人の選手たちが話すのを聞いて見てごらんなさい」なのだ。立派な“you know”な選手たちばかりだと解るから。

ここでは私を信じて、今日からでも如何にして自分が「有能」であるかを示すよう英語乃至はその会話の勉強に励んで品格を高めるよう努力して頂きたいのだ。