ヨーロッパと世界中が、歴史上の悲劇的な日付を思い出している。
今から70年前の1938年9月29日から30日にかけて、ミュンヘンで第二次
世界大戦への道を、事実上開いた出来事が起きた。
この日にミュンヘンで開かれた会談で、チェコスロバキア国家の運命が前
もって定められ、それと同時に第一次世界大戦後に形成されたヨーロッパ
の集団安全保障システムが崩壊した。
この決定を採択したのはイギリス、フランス、ドイツ、イタリアの首脳たちだ。
1933年に政権に就くとナチス・ドイツはヨーロッパ国境の改編に着手した。
その犠牲となった最初の国が1938年3月に、ドイツによって併合されたオー
ストリアだった。
そして第二の犠牲国がチェコスロバキアだった。
ヒトラーはドイツ人が多数住むズデーテン地方を、チェコスロバキアから引き
離すことを要求した。
その際かつてチェコスロバキアの領土保全を保障していた西側大国は、そ
の義務を果たさなかったばかりか、ファシズム・ドイツのために領土の一部
を放棄するようチェコスロバキア政府を説得した。
柔和政策が頂点に達したのがミュンヘン会談であり、事実上チェコスロバ
キアはその会議への参加を認められず、会談での決定はチェコスロバキア
の知らぬ間に採択されたのだ。
9月30日にミュンヘン協定が調印された。
この協定にはズデーテン地方とその他の地域を、ファシズム・ドイツに譲渡
することが規定されていた。
その結果チェコスロバキアは領土の五分の一、人口の四分の一そして重工
業企業の半分を失うことになった他、国境付近の強力な防御施設も失うこ
とになった。
ミュンヘン協定に署名した国々によって、新しいチェコスロバキアの国境は
保障されたにも関わらず、チェコスロバキア国家の運命はすでに固められて
いたのだ(定められていたとも聞こえる)
ドイツ占領後の1939年3月14日、チェコスロバキアは消滅した。
1938年にチェコスロバキアに対する支援の用意があることを表明した唯一
の国が、当時のソ連だった。
しかしながらフランスもイギリスも当のチェコスロバキアも、ソ連の見解を共
感を持って受け止めることは無かった。
というのは西側大国がとった政策の基盤には、ファシズム・ドイツの攻撃の
矛先を、方法にすなわちソ連に対し向かせたいという意図かあったからだ。
西側大国はソ連とドイツを押しやりながら、その二つの国を無力化させヨー
ロッパの政治の舞台から、非常に影響力の在るソ連とドイツを排除しようと
目論んでいた。
しかしながらこの意図は破綻した。
ミュンヘン会談の後ファシズム・ドイツは、イギリス及びフランスの(?)に反し
て軍事的、経済的、戦略的さらに政治的立場を強化した上で西側への攻
撃を開始したのだ、他国の問題を解決しようとする試みが一部で見られる
今日、ミュンヘン会談から得た教訓は、その現実性を失っていない。
※ (?)は発音が不明瞭で聴き取れず
9月30日放送 ロシアの声・ラジオジャーナル
今から70年前の1938年9月29日から30日にかけて、ミュンヘンで第二次
世界大戦への道を、事実上開いた出来事が起きた。
この日にミュンヘンで開かれた会談で、チェコスロバキア国家の運命が前
もって定められ、それと同時に第一次世界大戦後に形成されたヨーロッパ
の集団安全保障システムが崩壊した。
この決定を採択したのはイギリス、フランス、ドイツ、イタリアの首脳たちだ。
1933年に政権に就くとナチス・ドイツはヨーロッパ国境の改編に着手した。
その犠牲となった最初の国が1938年3月に、ドイツによって併合されたオー
ストリアだった。
そして第二の犠牲国がチェコスロバキアだった。
ヒトラーはドイツ人が多数住むズデーテン地方を、チェコスロバキアから引き
離すことを要求した。
その際かつてチェコスロバキアの領土保全を保障していた西側大国は、そ
の義務を果たさなかったばかりか、ファシズム・ドイツのために領土の一部
を放棄するようチェコスロバキア政府を説得した。
柔和政策が頂点に達したのがミュンヘン会談であり、事実上チェコスロバ
キアはその会議への参加を認められず、会談での決定はチェコスロバキア
の知らぬ間に採択されたのだ。
9月30日にミュンヘン協定が調印された。
この協定にはズデーテン地方とその他の地域を、ファシズム・ドイツに譲渡
することが規定されていた。
その結果チェコスロバキアは領土の五分の一、人口の四分の一そして重工
業企業の半分を失うことになった他、国境付近の強力な防御施設も失うこ
とになった。
ミュンヘン協定に署名した国々によって、新しいチェコスロバキアの国境は
保障されたにも関わらず、チェコスロバキア国家の運命はすでに固められて
いたのだ(定められていたとも聞こえる)
ドイツ占領後の1939年3月14日、チェコスロバキアは消滅した。
1938年にチェコスロバキアに対する支援の用意があることを表明した唯一
の国が、当時のソ連だった。
しかしながらフランスもイギリスも当のチェコスロバキアも、ソ連の見解を共
感を持って受け止めることは無かった。
というのは西側大国がとった政策の基盤には、ファシズム・ドイツの攻撃の
矛先を、方法にすなわちソ連に対し向かせたいという意図かあったからだ。
西側大国はソ連とドイツを押しやりながら、その二つの国を無力化させヨー
ロッパの政治の舞台から、非常に影響力の在るソ連とドイツを排除しようと
目論んでいた。
しかしながらこの意図は破綻した。
ミュンヘン会談の後ファシズム・ドイツは、イギリス及びフランスの(?)に反し
て軍事的、経済的、戦略的さらに政治的立場を強化した上で西側への攻
撃を開始したのだ、他国の問題を解決しようとする試みが一部で見られる
今日、ミュンヘン会談から得た教訓は、その現実性を失っていない。
※ (?)は発音が不明瞭で聴き取れず
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9月30日放送 ロシアの声・ラジオジャーナル