この間、ある人に聞いた話。
食品表示のことなんだけど、
「このゼリーには寒天を使っておりません」という表示を出したところで、
別段なんてこともないんだ、と。
昔はあったんだと。そう表示することで、ゼリーとしての正当性をアピールできるようなことが。
今だったら、そんな表示をだしたところで「なんなの?」って感じだと。
僕ね、この話を聴いたときは、かなり笑ったんです。
あったりまえじゃんって思えるようなことを、堂々と自信をもって表示するってことにね。
漫才みたいだ、ってね。この話をしてくれた人が面白い人なんで、余計。
また、僕もさ、こういう場だとかで、意図してあるいは意図せずにそういうことやるから、
面白かったのかもね。「意図せずに」の部分は自分で気づいてないことが山ほどあるかもって
ことを踏まえてだよ。
また、同じ文章でも読み手によって、「あたりまえじゃん」なことも「へえ、そうなの」
なこともあるでしょう。
でね、これって、「正義」の話に似てるなって思いました。
寒天を使ってないのも正義なんですよ。
だけど、正義なんて当たり前なわけでしょう。善意もそうです。
正義であることが当たり前になってるのに、いまさら正義を唱えても笑い話だ、と。
消費者は、その多様な正義の中から自分にあったモノを選びますよね。
選ばれたモノは各消費者に受け入れられた正義であって、その消費者が宿すことになる正義かもしれない。
そして、主観と客観の集合が出来ていくんだと思う。それはまぁ、今はいいとして。
言いたいことはね、正義ってのは大したこと無いってことだよ。・・・このままだと随分語弊があるかな。
イデオロギーでの正義のかち合い方ってあるけれど、マーケットの中じゃとっくにね、正義云々にほとんどを
内包させるようなことは無くなってきてるよなぁと思ったんです。
とはいえ、あるにはあるんだよね。きちんと作っていて旨くてってものが。
少量しかなくて、値が張るけれど、正義な感じがするものってのがさ。
その正義の定義っていえば、たとえば便利だとか美味しいとか楽しいとか美しいとか安全だとか、
他と比べて「より良い」感じなんだろうと思う。
ただ、その「より良い感じ」と受け止めているほうは、消費者でしょう。
それである意味、第三者なんじゃないのかな。第三者的に消費者になる人もたくさんいると思う。
それで、送り手が「俺んとこのは正しいんだから、買え」って押し売りしているわけじゃない。
そういう構造があって、だから広告ってのがあるわけで、選んでくださいとやんわり宣伝するんだよね。
強く言うような広告を出しても、消費者はやんわり受け取るだろうし。
話の本筋は「正義」でした。まとめがてら話を戻します。
国家同士で、「うちの正義が目に入らぬか」ってのがあるでしょう。
それで勝手にコミットしていったりするでしょう。
で、風潮として、善悪だけで決めるのは止しましょうみたいなのがあるでしょう。
甘っちょろい仮説かもしれないけれど、ナチスドイツが登場した揺れ戻しみたいな期間が
戦後ずっと今日まで続いてるんじゃないかと思ったわけ。
何故かというと、市場の様子をみてみて視点を戻すと、広告とかの前段階のように思えるでしょう、
正義を押し通そうとするのって。で、正義が当たり前になると、広告が大事になる。
実に巧妙なプロパガンダが、次にやってくるのかなぁと、ちょっと思えるんだよね。
そうすると、やっぱり試されるのが、広告を受ける側なんだよ。ライトサイドへいくか、
ダークサイドへ落ちるかは、受け手の力量次第。それも総量。
常識よりか、良識の問題なんだろう。ほんと、一番大事なのが一般人なんだよな。
実際、どれがライトサイドでダークサイドなのかってのは相当見えにくいと思う。
本当に旨い米だ、とかさ、素晴らしい酒だ、とかさ、
本物をみつけられて、それが本物だとわかる感じっていうの?経験かな。
そしてそれに対して第三者的な気持ちも少しだけ持っているっていうね、そういうスタイルって
大事なんじゃないかなぁと、たぶん以前考えていたよりも上へスパイラルしたところで、
感じたのだと思ったんでした。
まぁ、あれだね。
好きな人が「正義」って言葉を使うと、こういうことまで考えるってことかな。
わかりにくい話と文章で面目ない。
食品表示のことなんだけど、
「このゼリーには寒天を使っておりません」という表示を出したところで、
別段なんてこともないんだ、と。
昔はあったんだと。そう表示することで、ゼリーとしての正当性をアピールできるようなことが。
今だったら、そんな表示をだしたところで「なんなの?」って感じだと。
僕ね、この話を聴いたときは、かなり笑ったんです。
あったりまえじゃんって思えるようなことを、堂々と自信をもって表示するってことにね。
漫才みたいだ、ってね。この話をしてくれた人が面白い人なんで、余計。
また、僕もさ、こういう場だとかで、意図してあるいは意図せずにそういうことやるから、
面白かったのかもね。「意図せずに」の部分は自分で気づいてないことが山ほどあるかもって
ことを踏まえてだよ。
また、同じ文章でも読み手によって、「あたりまえじゃん」なことも「へえ、そうなの」
なこともあるでしょう。
でね、これって、「正義」の話に似てるなって思いました。
寒天を使ってないのも正義なんですよ。
だけど、正義なんて当たり前なわけでしょう。善意もそうです。
正義であることが当たり前になってるのに、いまさら正義を唱えても笑い話だ、と。
消費者は、その多様な正義の中から自分にあったモノを選びますよね。
選ばれたモノは各消費者に受け入れられた正義であって、その消費者が宿すことになる正義かもしれない。
そして、主観と客観の集合が出来ていくんだと思う。それはまぁ、今はいいとして。
言いたいことはね、正義ってのは大したこと無いってことだよ。・・・このままだと随分語弊があるかな。
イデオロギーでの正義のかち合い方ってあるけれど、マーケットの中じゃとっくにね、正義云々にほとんどを
内包させるようなことは無くなってきてるよなぁと思ったんです。
とはいえ、あるにはあるんだよね。きちんと作っていて旨くてってものが。
少量しかなくて、値が張るけれど、正義な感じがするものってのがさ。
その正義の定義っていえば、たとえば便利だとか美味しいとか楽しいとか美しいとか安全だとか、
他と比べて「より良い」感じなんだろうと思う。
ただ、その「より良い感じ」と受け止めているほうは、消費者でしょう。
それである意味、第三者なんじゃないのかな。第三者的に消費者になる人もたくさんいると思う。
それで、送り手が「俺んとこのは正しいんだから、買え」って押し売りしているわけじゃない。
そういう構造があって、だから広告ってのがあるわけで、選んでくださいとやんわり宣伝するんだよね。
強く言うような広告を出しても、消費者はやんわり受け取るだろうし。
話の本筋は「正義」でした。まとめがてら話を戻します。
国家同士で、「うちの正義が目に入らぬか」ってのがあるでしょう。
それで勝手にコミットしていったりするでしょう。
で、風潮として、善悪だけで決めるのは止しましょうみたいなのがあるでしょう。
甘っちょろい仮説かもしれないけれど、ナチスドイツが登場した揺れ戻しみたいな期間が
戦後ずっと今日まで続いてるんじゃないかと思ったわけ。
何故かというと、市場の様子をみてみて視点を戻すと、広告とかの前段階のように思えるでしょう、
正義を押し通そうとするのって。で、正義が当たり前になると、広告が大事になる。
実に巧妙なプロパガンダが、次にやってくるのかなぁと、ちょっと思えるんだよね。
そうすると、やっぱり試されるのが、広告を受ける側なんだよ。ライトサイドへいくか、
ダークサイドへ落ちるかは、受け手の力量次第。それも総量。
常識よりか、良識の問題なんだろう。ほんと、一番大事なのが一般人なんだよな。
実際、どれがライトサイドでダークサイドなのかってのは相当見えにくいと思う。
本当に旨い米だ、とかさ、素晴らしい酒だ、とかさ、
本物をみつけられて、それが本物だとわかる感じっていうの?経験かな。
そしてそれに対して第三者的な気持ちも少しだけ持っているっていうね、そういうスタイルって
大事なんじゃないかなぁと、たぶん以前考えていたよりも上へスパイラルしたところで、
感じたのだと思ったんでした。
まぁ、あれだね。
好きな人が「正義」って言葉を使うと、こういうことまで考えるってことかな。
わかりにくい話と文章で面目ない。