僕は歩く人だ。
走るのも、乗り物を使うのも、本当のところ性に合わない。
せいぜい自転車だと思っている。
歩くのだから、よく景色が見えているだろう、だとか、
息があがることはないだろうだとか、足腰が丈夫なのだろうだとか、
イメージされるかもしれないけれど、そんなことはないし、思ってもみない。
確かに、景色をみようとする時間は十分ある。
歩くペースを緩めれば、呼吸もすこやかになる。
客観的には、足腰は丈夫かもしれない。
しかし、それも、「そうしたなら」という場合に近い。
脇目をふりたくない何かがあり、
ペースを緩められない何かがあり、
足腰は疲労する。
それって何なのだろう。
たぶん、「繋がり」を感じ、思い、考えるからなのでしょう。
関係性やコミュニケーション。
言葉以前からあるものだと思います。
だとすると、知性が繋がりを遮断していくのか。
independentな存在などあるわけがないのだけれど、
まるで自らが独立した存在のように、周囲をみてしまうヴィジョンは存在すると思う。
知性を積み立ててなお、繋がりを見出すことや、新たな位相の繋がりを発見すること。
これって実は、純粋と反対のことなんじゃないでしょうか。
それでいて、真っ当なような。
「pure」という言葉は、けっこう怪しくないですか。
純度の高い水なんかよりも、混じりけのある水のほうが美味しいっていうことを
昨日、ラジオで聞いて思い出したのを、ちらと思い返したので、最後こう繋げて書いてみました。
走るのも、乗り物を使うのも、本当のところ性に合わない。
せいぜい自転車だと思っている。
歩くのだから、よく景色が見えているだろう、だとか、
息があがることはないだろうだとか、足腰が丈夫なのだろうだとか、
イメージされるかもしれないけれど、そんなことはないし、思ってもみない。
確かに、景色をみようとする時間は十分ある。
歩くペースを緩めれば、呼吸もすこやかになる。
客観的には、足腰は丈夫かもしれない。
しかし、それも、「そうしたなら」という場合に近い。
脇目をふりたくない何かがあり、
ペースを緩められない何かがあり、
足腰は疲労する。
それって何なのだろう。
たぶん、「繋がり」を感じ、思い、考えるからなのでしょう。
関係性やコミュニケーション。
言葉以前からあるものだと思います。
だとすると、知性が繋がりを遮断していくのか。
independentな存在などあるわけがないのだけれど、
まるで自らが独立した存在のように、周囲をみてしまうヴィジョンは存在すると思う。
知性を積み立ててなお、繋がりを見出すことや、新たな位相の繋がりを発見すること。
これって実は、純粋と反対のことなんじゃないでしょうか。
それでいて、真っ当なような。
「pure」という言葉は、けっこう怪しくないですか。
純度の高い水なんかよりも、混じりけのある水のほうが美味しいっていうことを
昨日、ラジオで聞いて思い出したのを、ちらと思い返したので、最後こう繋げて書いてみました。