1977年生まれの僕は、20世紀と21世紀を生きている。
そして、22世紀を迎える前にこの世を去るだろう。
そんな僕は四世紀と関わって生きているといえそうだ。
幼少の頃に出会った老人の中には、19世紀生まれの人もいただろう。
昔話がなくとも19世紀との接触がそこにある。
また、これから出会う子供たちの中には長寿をまっとうする人もいて、
22世紀にも生き延びる人たちがでてくるだろう。
それは僕が60歳になったときに出会った子供でもいいのだ。
そうすると、僕は22世紀にもちょっと関わったことになる。
こう考えてみると、人間一人のダイナミズムを知ることになる。
400年(実際には200年とちょっとだろうけど)にわたった生命活動といえなくもない。
そうすると、400年という途方もない時間感覚にある種の親近感を持ってしまう。
400年という単位が途方もない昔でも未来でもなくなる。
ちょっと前の江戸時代だって、前世紀初頭に生まれた人にとっては江戸時代生まれの
人たちと関わることがあっただろう。そして、そんな江戸時代の人と関わった人と
今度は僕らが係わり合いを持つことで、その時間的ダイナミズムを感じることになる。
僕らが中年を過ぎて、老年を迎えた時に出会う子供たちには未来への接触があるように
思う。22世紀に生きているだろう人間との触れ合いだからだ。
江戸時代享保の改革も戦国時代長篠合戦も、ましてや明治維新なんて、
時代的にはついさっきの出来事に他ならない。
1977年生まれだと、終戦を迎えた1945年から32年経っていて、
それには32年の開きがあるけれど、知覚的に近い時代のこととして認識できる。
その「知覚的に近い」という感覚をもって、四世紀分を感じることも可能なんだ
と僕は言いたいのです。
人間の生命活動の範囲は寿命分だけじゃないぞ、と。
ついさっきまでちょんまげしてたり、原爆投下で苦しんだりしたことは、
1977年生まれの僕にとってもまったく無関係のことではない。
どうでしょうか、こういう考え方は。
こんな考え方をもって、老人や子供と接すると面白いとおもいませんか。
僕はしばらくこの感覚で過ごしてみるつもりです。
とはいっても、この感覚バリバリで鵜の目鷹の目で過ごすわけではありませんよ。
何かの拍子にポッとこの400年観がひらめいて、少しの間それに浸ってみるということ
をしたいと思っているのです。
あなたもいかがですか?
そして、22世紀を迎える前にこの世を去るだろう。
そんな僕は四世紀と関わって生きているといえそうだ。
幼少の頃に出会った老人の中には、19世紀生まれの人もいただろう。
昔話がなくとも19世紀との接触がそこにある。
また、これから出会う子供たちの中には長寿をまっとうする人もいて、
22世紀にも生き延びる人たちがでてくるだろう。
それは僕が60歳になったときに出会った子供でもいいのだ。
そうすると、僕は22世紀にもちょっと関わったことになる。
こう考えてみると、人間一人のダイナミズムを知ることになる。
400年(実際には200年とちょっとだろうけど)にわたった生命活動といえなくもない。
そうすると、400年という途方もない時間感覚にある種の親近感を持ってしまう。
400年という単位が途方もない昔でも未来でもなくなる。
ちょっと前の江戸時代だって、前世紀初頭に生まれた人にとっては江戸時代生まれの
人たちと関わることがあっただろう。そして、そんな江戸時代の人と関わった人と
今度は僕らが係わり合いを持つことで、その時間的ダイナミズムを感じることになる。
僕らが中年を過ぎて、老年を迎えた時に出会う子供たちには未来への接触があるように
思う。22世紀に生きているだろう人間との触れ合いだからだ。
江戸時代享保の改革も戦国時代長篠合戦も、ましてや明治維新なんて、
時代的にはついさっきの出来事に他ならない。
1977年生まれだと、終戦を迎えた1945年から32年経っていて、
それには32年の開きがあるけれど、知覚的に近い時代のこととして認識できる。
その「知覚的に近い」という感覚をもって、四世紀分を感じることも可能なんだ
と僕は言いたいのです。
人間の生命活動の範囲は寿命分だけじゃないぞ、と。
ついさっきまでちょんまげしてたり、原爆投下で苦しんだりしたことは、
1977年生まれの僕にとってもまったく無関係のことではない。
どうでしょうか、こういう考え方は。
こんな考え方をもって、老人や子供と接すると面白いとおもいませんか。
僕はしばらくこの感覚で過ごしてみるつもりです。
とはいっても、この感覚バリバリで鵜の目鷹の目で過ごすわけではありませんよ。
何かの拍子にポッとこの400年観がひらめいて、少しの間それに浸ってみるということ
をしたいと思っているのです。
あなたもいかがですか?