Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

卑怯な性分と向かいあう。

2015-02-15 09:17:27 | 考えの切れ端
自分が他人を邪険にした思い出は、
通常、頭のはるか隅っこに追いやられていて、
まるで思い出せないかのようになっている。
こないだ何かのきっかけでそんな記憶をひとつ思い出して、
ひどいなと思ったんだけれど、
もう何だったのか思い出せない。

都合の悪いところは、なあなあだったりする。
それまで仲の良かった友だちと距離を取り始めたときなんか、
向こうの態度が煙たくなってきたと勝手に感じるようになって、
なんとなく意思の疎通をずらしだす。
それで離れていってその理由も手段もなあなあに曖昧に濁す。
自分にも少なからずそんなのがあった。

なあなあに曖昧にすることで、
自責の念に駆られないように、
そして自分が傷つかないようにしている。
相手を傷つけてこれだもの、この卑怯さ。
「あぁ、そんなこともあったね」
「その程度のことだったね」と処理して、
忘れてしまうこの心の機制。
恥じて反省して改めるべきなのか、それとも
人間ってそんなものなのかと諦めるのか。

そういうことをする人って多いと思うんだけれど、
それでも他方で善いことをしようとするから、
善を働いた時に、
無意識下に沈みこんだ卑怯な記憶が自分自身に対して
「はっきりとした理屈は浮かばないけど、自分は偽善者だ」
と思わせるのでは。

はたまた、他人が善いことをしても、
人ってだれしも卑怯な<曖昧にしてなかったことにする性質>を
持っていることを言外にわかっていたりするから、
「あいつ、いい顔しやがって」的な、
やっかんだり嘲笑したりする気持ちが湧いたりするのでは。

そういうのを超えていくのには、
偽善で何が悪いという開き直りとともに、
やっぱり恥じて内省することだよなあ。
「私はもう、こういう自分の汚さとか自認しているし、
行動を省みることもする。そのうえで善をおこないたい」
という意識が必要かもしれない。

それで、善を行う段になって、
それが本当に自分勝手な善じゃないかどうか、
善の押し売りじゃないかとか考えることになるんだけど、
そこが難しいよね。
大きなお世話にならない善、
その行為によって相手をスポイルさせない善、
だとか考えなきゃいけない…けれど、
多少は目をつむる要素ではあるかも。

突き詰めれば、<善とは見守ることである>くらい、
見方によっては消極的なところへ帰着するのかもしれない。

話が大きくなった。
人は無自覚に卑怯なことをしているものだから、
そこに自覚的になるだけでいろいろ変わるんだってことを言いたかった。
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