読書。
『スローシティ』 島村菜津
を読んだ。
スローフードという言葉が流行った時期がありましたが、
そのスローフードの考え方を基本とした街のあり方を考えていく、
そんな価値観で再構成されたり整備されたりした小さな街のことを
スローシティと呼んで、それぞれで連合を組んだりしているのが
イタリアの小さな街たちで、そんなスローシティーズを著者が取材して歩き、
内容をまとめてスローシティの紹介と提言をしているのが本書です。
イタリアの小さな町それぞれには人を惹きつける力があるようです。
自然、街並み、食べもの、住む人々。
また、そういった観光の要素だけではなく、
農家や職人や個人のお店などを大事にして、
住人にもそこに住むことで満足感や肯定感が得られるような仕組みになっている。
世界はどんどん、同じような街や都市ばかりになっていっている。
ベッドタウンもそうだし、個人商店を駆逐してしまい景観を壊す、
国道沿いなどに作られる巨大な店舗もそうです。
土地柄に関係なく、風景をどことも同じ、つまり均質化される
大量消費、大量販売の考えによって出来あがる、
アメリカ型の街の作られ方。
イタリア人は、「それは間違った考えではないか」とし、
その街にないものを探して嘆くのではなく、
あるものを再発見して、それを長所としてストロングポイントにしていきます。
それが、トスカーナのキアンティ地方であり、
小さな街でありながらパルマに次ぐ生ハムの名産地であるサン・ダニエーレであり、
その他にも魅力的な小さな町であるスローシティが存在する。
それは見事な、生き方の美学であるとい同時に、
理にかなった生き方でもあるように、
過疎の町に住む僕には思えたのですが、
本書を読む他の方はどう思うでしょうか。
ここからはごく個人的な雑感ですが、
日本の国づくり都市づくり街づくりっていうのは縦社会で進められた上に、
安全と効率を景観や美意識をないがしろにして
無粋なまでの作り方で作られたものだなあと
本書を読んでいて感じた。
日本では都市、街、村が一つの価値観で
縦社会的に価値づけられていやしないか。
都市が最上級で村が最低級で、そこから見上げたり見下したりがあるだろう。
イタリアでは都市も町もいっしょくたにコムーネと呼ばれる。
そういうところからして意識の違いがありそう。
横社会的な意識。
たとえば、山中、景色を望む場所での
白いガードレールなんかは景観を損ねると本書で言われるけれど、
ほんとにそこまではっきりさせたガードレールを作ってしまうところに、
日本人の「責任逃れの精神」と、
そこから逆算される「人を締め上げる精神」を感じずにはいられない。
締め上げられないために責任逃れできることをする。
日本の街の景観の悪さっていうのは、
そういう日本人の中にある対人面での粗雑な精神
(これは日本人の精神のある一面という意味)を反映したものかもしれない。
でも、電柱も土壌に埋め込むだとかできないのかなあと思ったけれど、
日本は地震が多いから無理なのかなとも思ったりもして。
また、街の価値観の縦社会的な捉え方っていうのも、
アドラー心理学的にはよくないってことになるよね。
幸せな対人関係には縦の関係は持ち込むべきではない、とのことだったと思う。
優越とかスノッブもそうだと思うけれど、
支配的な関係を作るものってよくないんだよ。
それにしても、日本人の締め上げの精神って、
ほんとうに真面目に容赦なく締め上げて、
死ぬまで呪うタイプのものだからタチが悪いと思ってる。
絶対に善人として全うしなきゃだめだとか、
善人の仮面を一生外してはならないものだ、とか、
そういう固定観念からきているんじゃないかな。
なにも善人が悪いというのではないし、
悪人が良いというのでもないのだけれど、
ここでいう締め上げっていうのは、
正しいことが悪に変わる一つの明快な例のように
感じられるのです。
イメージでだけれど、
日本人は狭い意味での安心がほしくてたまらなくて、
信頼っていうものにはぶるぶる手を震わせているような気さえする。
みんながみんなそうじゃないとは思ってるけど、
そういう人たちの声の大きさ(きっと不安や恐怖によってのもの)が
力を持ってしまったりするんだよね。
善人であるべき、善人の仮面は外してはならないという空気によって、
逆に露悪的になる人もたくさんいる。
すべては安心の空気、安心信仰から生まれているんじゃないか。
共同体感覚をもつこと、
そして地方がうまくやっていくためには安心信仰の変化が求められるし、
なにがしかの動きによってそこが変化すると成功だと思う。
都市を否定するわけじゃないけれど、
地方が輝かない盲目的都市信仰による一律な価値観の国って、いびつですよ。
意識の変化が求められるよなあ。
『スローシティ』 島村菜津
を読んだ。
スローフードという言葉が流行った時期がありましたが、
そのスローフードの考え方を基本とした街のあり方を考えていく、
そんな価値観で再構成されたり整備されたりした小さな街のことを
スローシティと呼んで、それぞれで連合を組んだりしているのが
イタリアの小さな街たちで、そんなスローシティーズを著者が取材して歩き、
内容をまとめてスローシティの紹介と提言をしているのが本書です。
イタリアの小さな町それぞれには人を惹きつける力があるようです。
自然、街並み、食べもの、住む人々。
また、そういった観光の要素だけではなく、
農家や職人や個人のお店などを大事にして、
住人にもそこに住むことで満足感や肯定感が得られるような仕組みになっている。
世界はどんどん、同じような街や都市ばかりになっていっている。
ベッドタウンもそうだし、個人商店を駆逐してしまい景観を壊す、
国道沿いなどに作られる巨大な店舗もそうです。
土地柄に関係なく、風景をどことも同じ、つまり均質化される
大量消費、大量販売の考えによって出来あがる、
アメリカ型の街の作られ方。
イタリア人は、「それは間違った考えではないか」とし、
その街にないものを探して嘆くのではなく、
あるものを再発見して、それを長所としてストロングポイントにしていきます。
それが、トスカーナのキアンティ地方であり、
小さな街でありながらパルマに次ぐ生ハムの名産地であるサン・ダニエーレであり、
その他にも魅力的な小さな町であるスローシティが存在する。
それは見事な、生き方の美学であるとい同時に、
理にかなった生き方でもあるように、
過疎の町に住む僕には思えたのですが、
本書を読む他の方はどう思うでしょうか。
ここからはごく個人的な雑感ですが、
日本の国づくり都市づくり街づくりっていうのは縦社会で進められた上に、
安全と効率を景観や美意識をないがしろにして
無粋なまでの作り方で作られたものだなあと
本書を読んでいて感じた。
日本では都市、街、村が一つの価値観で
縦社会的に価値づけられていやしないか。
都市が最上級で村が最低級で、そこから見上げたり見下したりがあるだろう。
イタリアでは都市も町もいっしょくたにコムーネと呼ばれる。
そういうところからして意識の違いがありそう。
横社会的な意識。
たとえば、山中、景色を望む場所での
白いガードレールなんかは景観を損ねると本書で言われるけれど、
ほんとにそこまではっきりさせたガードレールを作ってしまうところに、
日本人の「責任逃れの精神」と、
そこから逆算される「人を締め上げる精神」を感じずにはいられない。
締め上げられないために責任逃れできることをする。
日本の街の景観の悪さっていうのは、
そういう日本人の中にある対人面での粗雑な精神
(これは日本人の精神のある一面という意味)を反映したものかもしれない。
でも、電柱も土壌に埋め込むだとかできないのかなあと思ったけれど、
日本は地震が多いから無理なのかなとも思ったりもして。
また、街の価値観の縦社会的な捉え方っていうのも、
アドラー心理学的にはよくないってことになるよね。
幸せな対人関係には縦の関係は持ち込むべきではない、とのことだったと思う。
優越とかスノッブもそうだと思うけれど、
支配的な関係を作るものってよくないんだよ。
それにしても、日本人の締め上げの精神って、
ほんとうに真面目に容赦なく締め上げて、
死ぬまで呪うタイプのものだからタチが悪いと思ってる。
絶対に善人として全うしなきゃだめだとか、
善人の仮面を一生外してはならないものだ、とか、
そういう固定観念からきているんじゃないかな。
なにも善人が悪いというのではないし、
悪人が良いというのでもないのだけれど、
ここでいう締め上げっていうのは、
正しいことが悪に変わる一つの明快な例のように
感じられるのです。
イメージでだけれど、
日本人は狭い意味での安心がほしくてたまらなくて、
信頼っていうものにはぶるぶる手を震わせているような気さえする。
みんながみんなそうじゃないとは思ってるけど、
そういう人たちの声の大きさ(きっと不安や恐怖によってのもの)が
力を持ってしまったりするんだよね。
善人であるべき、善人の仮面は外してはならないという空気によって、
逆に露悪的になる人もたくさんいる。
すべては安心の空気、安心信仰から生まれているんじゃないか。
共同体感覚をもつこと、
そして地方がうまくやっていくためには安心信仰の変化が求められるし、
なにがしかの動きによってそこが変化すると成功だと思う。
都市を否定するわけじゃないけれど、
地方が輝かない盲目的都市信仰による一律な価値観の国って、いびつですよ。
意識の変化が求められるよなあ。