読書。
『教育再定義への試み』 鶴見俊輔
を読んだ。
著者の鶴見さんの半生を振り返りつつ、
教育というものの真の意味にたどり着こうとする論考エッセイです。
むずかしい言葉でがちがちになっていなくとも、
ちゃんと物事の深みを表現して伝えることができるという
良い見本のような文章でした。
むずかしいことはむずかしいという部分はあるのですが、
時間をかけて読むことできっとイメージはつかめるという感覚。
巻末の芹沢俊介さんの解説を読むと、
ああそうか、とそれまで読んできた言葉がすっと胸に入ってクリアになります。
まず、痛みによる教育の試みだといいます。
痛みは身体的なものも心的なものもどっちも。
そうして、著者が自分で経験した痛みからくる教育を披歴していく。
そこで読者は、著者の経験に自分の経験や記憶を照らし合わせて、
自分の内に著者の考えを落としこんでいくことになる。
______
自分の身体と自分の家庭からまなんだことが、教育の基本である。
私以外の人でも、そうではないか。
家庭の外では職場、(中略)さらに男女関係、自分のつくる家庭、
自分の子どもから受ける教育、近所の人たちとのつきあいから受けるもの、
社会活動から引退した人として孤立ともうろくから受ける教育、
近づいてくる死を待つことから受ける教育である。
______
そして、サークル活動というもうひとつの教育というものに話は移っていきますが、
ここで言われているのは、自己教育と後半で述べられるものです。
学校で受けさせられる教育とは違います。
逆に、そういう教育は害があることを本書では解き明かしています。
大事なのは自己教育、ということ。
たとえば、先生が握っている正答をあてるだけの教育は違うんじゃないかというような、
先生を観察して先生に自分を合わせるような生徒を作る教育もどうかという話もある。
答えは一つっていう教育は、現実というものに正面きって立ち向かえない人を作る。
ここからはこの本を読んでの僕の考えですが、
優等生のままの人っていうのは、
いざ現実と対面したときになにも歯が立たない人間なのかもしれない。
生きてくというのは、もっと腕っぷしのいるものだと僕も思うし、
自分にはまったく足りていないとも思う。
優等生でいるというのは怠惰であるという側面もある。
もっと掻きまわして、現実との間に軋轢を生みながら
それを修復し自己や周囲を修正していくような作業を泥くさくやっていく。
それでこそ、役に立てる人になっていける道を歩めるってことなんじゃないか。
杓子定規というかステレオタイプというか、
そうやって、人に教育されるがままでいいや、だとか、
流されるまま流れにのって生きていくのでは、
真っ当に生きられないと言っているのではないかと思うのです。
たしか糸井重里さんの言葉で、なぜ勉強しなくてはいけないか?
という問いに対して、
それは友だちだとか恋人だとか大事な人が困っている時に助けになれるため、
っていうのがありました。
そういう勉強、ここでいう自己教育が、
そんな自分の可能性をひろげることに繋がるっていうことでしょう。
とても好くて深い本だったので、
いろいろ読んでもなにか足りないと感じている人にはおすすめです。
『教育再定義への試み』 鶴見俊輔
を読んだ。
著者の鶴見さんの半生を振り返りつつ、
教育というものの真の意味にたどり着こうとする論考エッセイです。
むずかしい言葉でがちがちになっていなくとも、
ちゃんと物事の深みを表現して伝えることができるという
良い見本のような文章でした。
むずかしいことはむずかしいという部分はあるのですが、
時間をかけて読むことできっとイメージはつかめるという感覚。
巻末の芹沢俊介さんの解説を読むと、
ああそうか、とそれまで読んできた言葉がすっと胸に入ってクリアになります。
まず、痛みによる教育の試みだといいます。
痛みは身体的なものも心的なものもどっちも。
そうして、著者が自分で経験した痛みからくる教育を披歴していく。
そこで読者は、著者の経験に自分の経験や記憶を照らし合わせて、
自分の内に著者の考えを落としこんでいくことになる。
______
自分の身体と自分の家庭からまなんだことが、教育の基本である。
私以外の人でも、そうではないか。
家庭の外では職場、(中略)さらに男女関係、自分のつくる家庭、
自分の子どもから受ける教育、近所の人たちとのつきあいから受けるもの、
社会活動から引退した人として孤立ともうろくから受ける教育、
近づいてくる死を待つことから受ける教育である。
______
そして、サークル活動というもうひとつの教育というものに話は移っていきますが、
ここで言われているのは、自己教育と後半で述べられるものです。
学校で受けさせられる教育とは違います。
逆に、そういう教育は害があることを本書では解き明かしています。
大事なのは自己教育、ということ。
たとえば、先生が握っている正答をあてるだけの教育は違うんじゃないかというような、
先生を観察して先生に自分を合わせるような生徒を作る教育もどうかという話もある。
答えは一つっていう教育は、現実というものに正面きって立ち向かえない人を作る。
ここからはこの本を読んでの僕の考えですが、
優等生のままの人っていうのは、
いざ現実と対面したときになにも歯が立たない人間なのかもしれない。
生きてくというのは、もっと腕っぷしのいるものだと僕も思うし、
自分にはまったく足りていないとも思う。
優等生でいるというのは怠惰であるという側面もある。
もっと掻きまわして、現実との間に軋轢を生みながら
それを修復し自己や周囲を修正していくような作業を泥くさくやっていく。
それでこそ、役に立てる人になっていける道を歩めるってことなんじゃないか。
杓子定規というかステレオタイプというか、
そうやって、人に教育されるがままでいいや、だとか、
流されるまま流れにのって生きていくのでは、
真っ当に生きられないと言っているのではないかと思うのです。
たしか糸井重里さんの言葉で、なぜ勉強しなくてはいけないか?
という問いに対して、
それは友だちだとか恋人だとか大事な人が困っている時に助けになれるため、
っていうのがありました。
そういう勉強、ここでいう自己教育が、
そんな自分の可能性をひろげることに繋がるっていうことでしょう。
とても好くて深い本だったので、
いろいろ読んでもなにか足りないと感じている人にはおすすめです。