リチャード・ローティという学者の言葉で、
人間の連帯で重要なのは理念の共有ではなく
「あなたも苦しんでいるのですか」という問いかけだ、というものがあります。
散文的な抗争しあう関係より、詩的な共同しあう関係を好むと、
このような考えはいいなあと思うんだよね。
ルソーや村上春樹なんかは、
人と人との繋がりは傷や痛みなどによってこそのもので
それこそ真の調和なんじゃないかって言ってます。
これはなにも傷のなめ合いがいいというのとは全く違う。
そういうことはしないで、胸の奥、根底の所で共有する気持ちのことを言っている。
「憐れみ」は役に立つ、と。
しかし、「憐れみ」なんて言葉ひとつにしても、
受け取るニュアンスは人それぞれだったりしうるもので、
上から目線の動作のように思う人もいれば、
横並びの視線の言葉に感じる人もいるでしょう。言葉は難しい。
憐れみなんかできる立場じゃないし、
受け手としては同情なんかされたくないと思う人もいる。
それはきっと、集団社会内での「しがらみ」というものが関係していると思う。
でも、僕はこう考える。
理想ばかりをみていてはきっと空回りしてばかりになる。
だからといって現実ばかりをみていたらきっと右往左往してばかりになる。
交渉とおなじく、両の言い分の落とし所を決めることが必要だけれども
「理想に近づくこと」それこそが尊いと思うので理想と現実のせめぎ合いになった時点で喜べる。
漸進的だといえる。
・・・とまあ、最近の読書や思索からの、ぼくの最新の態度でしょうか。
『贈与論』からえの考えもくっつけたいところです。
人間の連帯で重要なのは理念の共有ではなく
「あなたも苦しんでいるのですか」という問いかけだ、というものがあります。
散文的な抗争しあう関係より、詩的な共同しあう関係を好むと、
このような考えはいいなあと思うんだよね。
ルソーや村上春樹なんかは、
人と人との繋がりは傷や痛みなどによってこそのもので
それこそ真の調和なんじゃないかって言ってます。
これはなにも傷のなめ合いがいいというのとは全く違う。
そういうことはしないで、胸の奥、根底の所で共有する気持ちのことを言っている。
「憐れみ」は役に立つ、と。
しかし、「憐れみ」なんて言葉ひとつにしても、
受け取るニュアンスは人それぞれだったりしうるもので、
上から目線の動作のように思う人もいれば、
横並びの視線の言葉に感じる人もいるでしょう。言葉は難しい。
憐れみなんかできる立場じゃないし、
受け手としては同情なんかされたくないと思う人もいる。
それはきっと、集団社会内での「しがらみ」というものが関係していると思う。
でも、僕はこう考える。
理想ばかりをみていてはきっと空回りしてばかりになる。
だからといって現実ばかりをみていたらきっと右往左往してばかりになる。
交渉とおなじく、両の言い分の落とし所を決めることが必要だけれども
「理想に近づくこと」それこそが尊いと思うので理想と現実のせめぎ合いになった時点で喜べる。
漸進的だといえる。
・・・とまあ、最近の読書や思索からの、ぼくの最新の態度でしょうか。
『贈与論』からえの考えもくっつけたいところです。