読書。
『土屋耕一のことばの遊び場。』 土屋耕一 和田誠/糸井重里 編
を読んだ。
本書は、
コピーライター・土屋耕一さんが書いた、
ことばについての、ユーモアたっぷりで、
でも神髄をついている論考が中心の
「言葉の遊びと考え」(糸井重里・編)と、
回文や詰語などなどを扱った
雑誌『話の特集』のコラムから選り抜いた
ことば遊びの文章をまとめた
「回文の愉しみ」(和田誠・編)の二冊からなります。
まず、「ことばの遊びと考え」から。
コピー講座の節を読んでいて、
ものまねはコピーの審査のふるいに残らないことが語られていた。
ものまねをしているかどうか意識していなくとも、
それがすでにあるものの調子であれば、
価値は二流、三流、四流。
これは小説の創作にも言えることだと思った。
おれもこういうの書けるよ!って
既製品に寄せちゃう心理ってあってですね、
何かを作ろうというひとは、
その甘い誘惑に一度や二度や、三度や四度は乗ってしまうものなのですよ。
それって、あこがれの気持ちも一枚かんでいてね、
一人前になりたいっていう気持ちの罠の面なんだと思う。
なんの役に立たなくても、
まずそういうのが、つまりものまねができることによって
ある種の飢餓感から逃れられるから、そのためにやってしまう。
でも、三度や四度やれば、
飢餓感的劣等心もちょっと満たされるところがある、
外部の評価をあまり気にしなければ。
そうなったら、やっと勝負できるものが作れるんじゃないのかなあ。
外部の評価と自分の評価って、
駆け出しの素人にとってはまったく別々のものだと思う。
自分の評価は良いのに、
外部の評価がイマイチなのは何故だろうという疑問がすでに愚問なのだ。
なぜなら、自分のコアにある気持ちが、
外部(他人)に読んでもらい楽しんでもらうことを優先一位にしていないから。
土屋耕一さんは、自分の目と他者の目で文章を読むことを往復しなさい、という。
主観と客観の目を半々で持つべきなのだろうね。
ぼくは音楽を作っていたときに、
客観ってすごく大事だと気付き、主観だけじゃない目線(音楽の場合は聴感覚かな)を
持つように心がけて、それ以降、一応はそういう感覚を持っているつもり。
なぜ、ものまねをするのか。
自分のコアにある気持ちが実はまずあこがれであって、
その次くらいに他人を楽しませるっていうのがあるんだと思う。
それがなかなかに、相いれないのだね。
あこがれが強ければ、まず外部の評価と切り離して、
それを満足させて薄めていくことが大事なのかなあと思った。
あこがれが満足して薄まっていって、
やっと自分の仕事ができるようになるのかもしれない。
また、
「マージャンやパチンコは時間を空白にしていく」という文章にうなずく。
ぼくはいま、空白にする時間を持つのと反対の時間を持ちたいですから。
まあ、時間を空白にしたいとき、
そうしないと壊れちゃう時ってありますから、
全否定するわけではありませんよ。
「回文の愉しみ」のほうは、まあ楽しいですよ。
文章でこれだけ楽しめる経験をすると、「ことば」ってものにハマると思います。
刺激強めの、ワイセツな回文なども面白かったですしね。
こういうことばを操り加工して見せてくれる職人的技巧にはうなりますし、
コピーはいうまでもなく、これだけのことができるというのは、
ことばの申し子的な「名人」なのだろうとぼくは思いました。
軽妙ですが、スカスカじゃなくて、ちゃんと人間の重みのある文章で、
それで読むひとを楽しませてくれるサービス精神、エンタテイメント精神が、
おいそれと気づかれない気づかいの中に存在しています。
2009年に78歳で亡くなられて、
ぼくはそれまで土屋耕一氏を存知あげなかったのですが、
こんなに楽しい巨人と同時代に生活していたのだなあと
感慨みたいなものがありました。
この二冊のおもしろさは保証してもいいくらい。
ことばを扱うこと、文章をつくることに興味がある方には、
十分な興奮と刺激が与えられることでしょう。
おもしろかった。
『土屋耕一のことばの遊び場。』 土屋耕一 和田誠/糸井重里 編
を読んだ。
本書は、
コピーライター・土屋耕一さんが書いた、
ことばについての、ユーモアたっぷりで、
でも神髄をついている論考が中心の
「言葉の遊びと考え」(糸井重里・編)と、
回文や詰語などなどを扱った
雑誌『話の特集』のコラムから選り抜いた
ことば遊びの文章をまとめた
「回文の愉しみ」(和田誠・編)の二冊からなります。
まず、「ことばの遊びと考え」から。
コピー講座の節を読んでいて、
ものまねはコピーの審査のふるいに残らないことが語られていた。
ものまねをしているかどうか意識していなくとも、
それがすでにあるものの調子であれば、
価値は二流、三流、四流。
これは小説の創作にも言えることだと思った。
おれもこういうの書けるよ!って
既製品に寄せちゃう心理ってあってですね、
何かを作ろうというひとは、
その甘い誘惑に一度や二度や、三度や四度は乗ってしまうものなのですよ。
それって、あこがれの気持ちも一枚かんでいてね、
一人前になりたいっていう気持ちの罠の面なんだと思う。
なんの役に立たなくても、
まずそういうのが、つまりものまねができることによって
ある種の飢餓感から逃れられるから、そのためにやってしまう。
でも、三度や四度やれば、
飢餓感的劣等心もちょっと満たされるところがある、
外部の評価をあまり気にしなければ。
そうなったら、やっと勝負できるものが作れるんじゃないのかなあ。
外部の評価と自分の評価って、
駆け出しの素人にとってはまったく別々のものだと思う。
自分の評価は良いのに、
外部の評価がイマイチなのは何故だろうという疑問がすでに愚問なのだ。
なぜなら、自分のコアにある気持ちが、
外部(他人)に読んでもらい楽しんでもらうことを優先一位にしていないから。
土屋耕一さんは、自分の目と他者の目で文章を読むことを往復しなさい、という。
主観と客観の目を半々で持つべきなのだろうね。
ぼくは音楽を作っていたときに、
客観ってすごく大事だと気付き、主観だけじゃない目線(音楽の場合は聴感覚かな)を
持つように心がけて、それ以降、一応はそういう感覚を持っているつもり。
なぜ、ものまねをするのか。
自分のコアにある気持ちが実はまずあこがれであって、
その次くらいに他人を楽しませるっていうのがあるんだと思う。
それがなかなかに、相いれないのだね。
あこがれが強ければ、まず外部の評価と切り離して、
それを満足させて薄めていくことが大事なのかなあと思った。
あこがれが満足して薄まっていって、
やっと自分の仕事ができるようになるのかもしれない。
また、
「マージャンやパチンコは時間を空白にしていく」という文章にうなずく。
ぼくはいま、空白にする時間を持つのと反対の時間を持ちたいですから。
まあ、時間を空白にしたいとき、
そうしないと壊れちゃう時ってありますから、
全否定するわけではありませんよ。
「回文の愉しみ」のほうは、まあ楽しいですよ。
文章でこれだけ楽しめる経験をすると、「ことば」ってものにハマると思います。
刺激強めの、ワイセツな回文なども面白かったですしね。
こういうことばを操り加工して見せてくれる職人的技巧にはうなりますし、
コピーはいうまでもなく、これだけのことができるというのは、
ことばの申し子的な「名人」なのだろうとぼくは思いました。
軽妙ですが、スカスカじゃなくて、ちゃんと人間の重みのある文章で、
それで読むひとを楽しませてくれるサービス精神、エンタテイメント精神が、
おいそれと気づかれない気づかいの中に存在しています。
2009年に78歳で亡くなられて、
ぼくはそれまで土屋耕一氏を存知あげなかったのですが、
こんなに楽しい巨人と同時代に生活していたのだなあと
感慨みたいなものがありました。
この二冊のおもしろさは保証してもいいくらい。
ことばを扱うこと、文章をつくることに興味がある方には、
十分な興奮と刺激が与えられることでしょう。
おもしろかった。