Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

集団の活性のために-----見かけの協力と、ほんとうの協力。

2019-07-19 21:41:53 | 考えの切れ端
ひとつの集団や共同体のなかで、
表向きの態度とそこに隠された内緒にされている態度とが逆だというのが、
多かれ少なかれ、ある。
一応、皆で手を繋いでいるように見える集団であっても、
その実、各々が各々にいらいらしていてバラバラだというような。
それは話し合いや議論が小手先ばかりでやっていて、
下手くそだというところに理由があるでしょう。

話し合いや議論の場で、
自分の意見を通すために相手を抑え込むための言葉や態度で臨む人がいて、
さらに、相手の話をしっかり聞いてあげないし理解してあげない人がいて、
そうなりがちなんですよね。
さらにいえば、話し合いの場で相手を責めるのはNGです。

話し合いをディベートにしてしまうと、
それは試合でありゲームでありという性質のものになり、
そもそもの、テーマを深掘りするだとか最適解を求めるだとかという
真っ当な性質の話し合いから逸れてしまう。
ディベートはボクシングみたいなものだし、
ふつうの、力を合わせる集団内でやるものじゃない。

なのに、話し合いをディベートにしてしまいがちな人っていうのは、
権力を使おうとしたり、そこにいる人々の立場が不均衡なのを利用したり、
自分の考えを通そうとするようなタイプ。
支配性を感じずにはいられない。
ディベートは周囲が敵だけだったり、
集団vs集団での戦いだったり、そういうときのもの。

だから、話し合いを建設的に行い、
なおかつ集団内でもお互いをより深く理解して
うまく補完しあってやっていくというような姿勢が、
徒労に終わるような時間の浪費からみんなを救うし、
余計なストレスから解放するし、
と集団や共同体の環境を好転させていくものになる。

そして重要なのは、
そうやって好転していった集団内では、
それ以前よりもよい意見が出るだろうし、
そのブラッシュアップも以前の比ではないほどになるだろうこと。

自分は個性的な人間だ、とかすごく頭がいいんだ、とか、
そういう思い込みで人は自己洗脳するようなきらいってあるけど、
ほぼ、そういうひとたちだって実は「ふつう」なんですよね。
自己洗脳して無理しちゃうより、
「ふつう」の自然体で他者とかかわった方が、
相手に伝え・聞いて理解しあう態度になれる。

そんな態度は、
前述のように、
話し合いの内容を深掘りしたり、
状況に応じて内容を広くしたり絞ったり、
柔軟かつダイナミックかつ親和的に議論できる方向になる。
そして、そんな集団(場所)にこそ活性が生まれるのではないでしょうか。
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