読書。
『反知性主義』 森本あんり
を読んだ。
副題は『アメリカが生んだ「熱病」の正体』となっています。
反知性主義とは、
かいつまんでいうと、
知性と権力とが結びついたものに対する嫌悪や、
それらに反対する心理や行動のようです。
学のあるエリートと大衆的でおおらかな人物とが、
たとえば大統領選挙でまみえると、
前者は知性主義的であり後者は反知性主義的であるので、
後者が勝ちやすいみたいなところがアメリカにはあるようです。
そんな反知性主義はどうして生まれ、
アメリカ人の根底に流れるようなものになったか。
そこには、アメリカという国そのものの歴史、
それも宗教史を考えていくとわかるものがある。
イギリスで起こったピューリタン(清教徒)の系列のキリスト教が、
アメリカに移民とともにはいってきますが、
それはとても知性的な宗教だったのです。
勉強に勉強を重ねたエリート中のエリートが牧師になれて、
それぞれの土地の重鎮みたいにその土地の顔のようになり、
人々を導く役割を持つ。
そんなところに、あまり神学について学の無い伝道者が、
各地を巡回して説教をする時代になる。
それによって、回心という現象が多発するようになります。
これをリバイバル、という。
もともとキリスト教の洗礼をうけてはいたものの、
ぼんやりとした宗教心しかもっていなかった多くの人々が、
伝道者のわかりやすく巧みな話術(説教)に触れたことで、
キリスト教に、あらためて、
いや初めてといってもいいような覚醒をするんですね。
失神したり痙攣したりといった、
狂信的な意識レベルに入ることで起きるような身体現象を伴いもしたようです。
といったように、
そういった反知性の伝道者が受け入れられ、その後、
伝道者によってお金儲けと信心とが結び付けられていき、
まさにアメリカ的なキリスト教になったことで、
反知性主義はアメリカ人たるものの根底にあるものになる。
反知性主義の源泉には、平等(フェアネス)をよしとし、
求め、実現しようという理念があります。
また、たとえば誰かを助けるときにおいて、
知性主義の人は、
立場や法律など社会システムに照らしてから助けるか否かを決め、
反知性主義の人はその誰かの命や生活を優先して
社会システム度外視で助ける、みたいなところがあるようです。
そういうのを知ると、反知性主義のほうでいいじゃないか、と思ったりもしませんか。
しかし、どんな主義思想にも欠点はつきもので、
反知性主義には、よくない意味での熱狂を生むし、
原理主義と親和性があり陥りやすいというのがあります。
反知性主義って、
神の子羊である存在を肯定するようなところがあるように見受けられる。
勉強して子羊以上の存在になった者よりも、
子羊のままでいいのだ、と。
そんな無知な子羊が子羊として無垢な存在であるためには、
社会から競争と資本主義を取り去る必要があると思います。
そこはもっと個人的にも考えていかないと、ですね。
「知能」と「知性」は違うという話もおもしろかった。
知能犯はいても、知性犯はいない。
知性とは、自分を振り返る技術や性向をいうのだ、とされていました。
だからといって、反知性主義にも知性は必要で、
権力と知性の結びつきをきびしく監視し分析するのに使われます。
反知性主義ときくと、ちゃらんぽらんな状態がいいのだ、と誤解しそうですが、
本書を読むと、反知性主義であろうと知性主義であろうと、
知性なしでは進んでいかないものであることがわかります。
やっぱり、無知って悪と結びつくとも言われるので、
「主義」はぬかして、知性は大事だなと感じるのでした。
『反知性主義』 森本あんり
を読んだ。
副題は『アメリカが生んだ「熱病」の正体』となっています。
反知性主義とは、
かいつまんでいうと、
知性と権力とが結びついたものに対する嫌悪や、
それらに反対する心理や行動のようです。
学のあるエリートと大衆的でおおらかな人物とが、
たとえば大統領選挙でまみえると、
前者は知性主義的であり後者は反知性主義的であるので、
後者が勝ちやすいみたいなところがアメリカにはあるようです。
そんな反知性主義はどうして生まれ、
アメリカ人の根底に流れるようなものになったか。
そこには、アメリカという国そのものの歴史、
それも宗教史を考えていくとわかるものがある。
イギリスで起こったピューリタン(清教徒)の系列のキリスト教が、
アメリカに移民とともにはいってきますが、
それはとても知性的な宗教だったのです。
勉強に勉強を重ねたエリート中のエリートが牧師になれて、
それぞれの土地の重鎮みたいにその土地の顔のようになり、
人々を導く役割を持つ。
そんなところに、あまり神学について学の無い伝道者が、
各地を巡回して説教をする時代になる。
それによって、回心という現象が多発するようになります。
これをリバイバル、という。
もともとキリスト教の洗礼をうけてはいたものの、
ぼんやりとした宗教心しかもっていなかった多くの人々が、
伝道者のわかりやすく巧みな話術(説教)に触れたことで、
キリスト教に、あらためて、
いや初めてといってもいいような覚醒をするんですね。
失神したり痙攣したりといった、
狂信的な意識レベルに入ることで起きるような身体現象を伴いもしたようです。
といったように、
そういった反知性の伝道者が受け入れられ、その後、
伝道者によってお金儲けと信心とが結び付けられていき、
まさにアメリカ的なキリスト教になったことで、
反知性主義はアメリカ人たるものの根底にあるものになる。
反知性主義の源泉には、平等(フェアネス)をよしとし、
求め、実現しようという理念があります。
また、たとえば誰かを助けるときにおいて、
知性主義の人は、
立場や法律など社会システムに照らしてから助けるか否かを決め、
反知性主義の人はその誰かの命や生活を優先して
社会システム度外視で助ける、みたいなところがあるようです。
そういうのを知ると、反知性主義のほうでいいじゃないか、と思ったりもしませんか。
しかし、どんな主義思想にも欠点はつきもので、
反知性主義には、よくない意味での熱狂を生むし、
原理主義と親和性があり陥りやすいというのがあります。
反知性主義って、
神の子羊である存在を肯定するようなところがあるように見受けられる。
勉強して子羊以上の存在になった者よりも、
子羊のままでいいのだ、と。
そんな無知な子羊が子羊として無垢な存在であるためには、
社会から競争と資本主義を取り去る必要があると思います。
そこはもっと個人的にも考えていかないと、ですね。
「知能」と「知性」は違うという話もおもしろかった。
知能犯はいても、知性犯はいない。
知性とは、自分を振り返る技術や性向をいうのだ、とされていました。
だからといって、反知性主義にも知性は必要で、
権力と知性の結びつきをきびしく監視し分析するのに使われます。
反知性主義ときくと、ちゃらんぽらんな状態がいいのだ、と誤解しそうですが、
本書を読むと、反知性主義であろうと知性主義であろうと、
知性なしでは進んでいかないものであることがわかります。
やっぱり、無知って悪と結びつくとも言われるので、
「主義」はぬかして、知性は大事だなと感じるのでした。