Fish On The Boat

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『悲しき熱帯 Ⅰ・Ⅱ』

2020-12-08 00:19:40 | 読書。
読書。
『悲しき熱帯 Ⅰ・Ⅱ』 レヴィ=ストロース 川田順造 訳
を読んだ。

中公クラシックスから出ている民族学そして構造主義の名著。本文にときどき登場する「構造」の言葉が、ソシュールやフロイトあたりが源流とも言われるある種の思考の形に「構造主義」の名を与えたとか。

20世紀の半ば頃までにまだ絶滅を免れていた南米のインディオたちの諸部族を現地調査した著者による調査報告なのですが、自由な体裁で書かれていて文学的な趣もあります。そのときどきの思索、日記のような記述、体験や経験の記録を読者の興味を引くように書かれた読み物、部族の容姿・気質や風習・文化などの分析、論説などなど、できるだけ垣根を設けず思考の流れに忠実に執筆しているような雰囲気があります。なので読んでいると、さながらレヴィ・ストロースになって深い思考体験をするヴァーチャル・ロールプレイングに浸っているかのような感覚を持つくらいです。それでいて、読み手と本との対話も濃厚にできる本でもありますから、読み手が独自に思索を深めたり寄り道したりしながら楽しんで読んでいける性格のつよいほうの本だと思いました。

第二次大戦下の時代。フランス人である著者がなんとか密航して祖国を脱出する回想から始まっているのだけれど、その船内のすし詰めの状況や不衛生な環境などのしんどくて大変な様子をしっかりとした描写で書いていて、これはほんとうに大変な時代だったなぁとそこで訴えられているものをひしひしと受けとめることになるのですが、この最初の部分から文体は比較的重厚で(読みづらいわけではないのですが)、本書の濃厚さに頭を慣らしていく部分にもなっていると思います。

南米の諸民族を語るまでの導入部がかなり長いのですが、あなどるなかれ、ガツンとくる言い回しや論考に関すれば、スタートからゴールまで一貫してずっと質が高いままです。気になる箇所のうち、僕なりに「これは!」と思ったところから思いついた考えがあって、それは「若者の自分探しの旅は、自分探しという目的にはほとんど意味がなくて、旅をしたという行為にこそ意味があるようだ。それまでの人生から見て桁外れな体験をすることが、大人になるための通過儀礼のようなものになる。」というものなのですが、北米の若い男性のインディアン(ネイティブ・アメリカン)の例が挙げられていて、そこでは肉体的にほんとうにもうキツすぎるというようなことを成人への通過儀礼としてやらなきゃならない。気がふれるような領域まで自分を追い込んで(あるいは追い込まれて)、そこで精霊を見たり感じたりするまでいってしまいます。で、それがその人のインディアンネームのきっかけになる。これらと比べれば、日本人の自分探しなんてちっぽけなものかもしれませんが、過剰に保護された世界から飛びだして生身の心身でぶつかっていく体験は、やはり成人への通過儀礼的な内容があるのではないかと考えてしまいます。

また、南アジアの途上国(インド)で、靴磨きや客引きや安もの売りや土産物売りや物乞いの子どもや障害者が、旅行者の前に身を投げてくると書かれている。だが、彼らを笑ったり苛立ったりしたくなる人は気をつけるといい、とレヴィ・ストロースは言います。これらの馬鹿げた仕草、人を嫌な気持ちにする遣り方、そこにひとつの苦悩の徴候を見ずにそれらを批判するのは虚しく、嘲るのは罪であろう、と作者は続ける。この洞察に対しては不遜ながら「なかなかやるじゃないか」という感想を持ちました。なぜなら、これは人間を突き放さないことでしかわからないからです。誰でもわかることじゃないんです。そういう心理地点に到達できる人は多くはない気がします。僕自身、在宅介護の修羅場を経験したうえで、なおかつなにかの拍子にひょっこりとそういう視座を持てる地点に出たタイプで、周囲の知人たちを思い返しても「このひとはもしかすると」っていう人が数人いる程度です。ましてや、ヨーロッパの昔の偉い学者にはわからなさそうな感じがしますから。なので、作者の前述の洞察には「やるな!」と思う次第。こういうところは学問とかじゃなくて日々というか生活というかから得られる学びからきますからねぇ。

そして、本題の諸部族をめぐるフィールドワーク部へ入っていきます。ここで僕のあたまにひかっかったのは以下の部分。部族の首長だけが一夫多妻制になっていてそのあおりを食う男たちがいたり、首長は首長でその地位による優越はあるだろうが群れのリーダーとして忙しく群れのために世話を焼かなければならない。競争意識による刺激がほとんどない社会にもこういった差異があるのは、生来の差異のため――――以上はナンビクワラ族の考察部から。競争社会を批判し、競争のない社会がユートピアかもしれないと夢想しても、人間の個体差というどうにもならないものがあるのだから、完全な公平さが実現したユートピアにはなるものではないです。公平さの実現にはもっと人工的な操作が要るってことでしょう。人工的な操作が必要といったって、それでナチスドイツに代表される「優生学」方面に進んでしまったとしたら道を間違えています。人間の選別、遺伝子デザインではなくて、障害のある人でも笑って暮らせる社会へのデザインを考えるほうが豊か。文明の進歩で人工的にできることが増えていく、その力を活かすのはそっちだと思います。

しかし、最後まで読み進めていくと……。

人間には生まれつきの個体差があるから社会には多様性がある。そこから生じる良くない部分、つまり差別や立場の不均衡があるのでそれらをなくすため人工的に社会を平らで滑らかなものにしてしまうのが良いかといえば、でもそれは違うみたい。本書『悲しき熱帯』が照らす地平はどうやらそっちなんです。個体差という多様性を維持しながら差別をしないことはできます。これは多様性を認めるということで、他者に敬意を持つことでできますよね。では立場の不均衡はどうなんだろう。平滑にしてしまったほうがフェアな気がしますけれども、しかし不均衡な状態のほうが何かの拍子に一網打尽になりにくいのは多様性の強みと一緒かもしれません。かといって、生きづらい人たち・生きにくい人たちがそのままでいいなんてちょっと思えないですし。

きっと生きづらさの解消に関しては、やっていくべきは生存可能圏を開拓していく行為なんじゃないでしょうか。人間社会のハビタブルゾーンにはまだまだ広大な暗黒領域があって、そこを可視化された生存可能領域へと変えていくこと。だから、立場の不均衡の解消をしても多様性の強靭さを損なわないために、既存の社会領域を拡大もせず深掘りもせず小手先だけで器用にめくらましするのではなくて、創造に似た新領域の発見・開拓のイメージを持って考えるとよいのかもしれません。要するに、いま、生きづらい人たちが苦労しているのは棲み分けがうまくいっていないからではないのか。棲み分けのために必要な領域(生存可能領域)がまだ暗黒地帯に含まれていて、ずっと発見を待っているからなのではないのか。狭い領域にぎゅっと詰められている状態が今ではないかと仮定できるのではないでしょうか。

ということで、固い内容ばかりのような印象を持たれてしまうかもしれないですが、そんなこともないんです。たとえば、口内炎を痛がる言うことをきかない騾馬とレヴィ=ストロースの格闘は愉快でした……。

読了まで時間がかかりましたが、読んでよかった!と思えるすばらしい本でした。やっぱり、風化せずにドシンと現代まで残るものは違うんですね。




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