Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

マウント考察→分解→破壊

2021-05-02 11:31:40 | 考えの切れ端
録画していたNHKの「マウンティング会話講座」がおもしろかった。「うわ!」とか「なにやってんの!」とか、見てるだけでも離脱したくなる、捨ておきたくなるドラマ仕立てのマウンティング例が秀逸といった感じでした。以下はそこから触発されてのマウンティング考察です。

僕の場合だったら、知り合った人が本を読む人か知りたくなって探りたくなるんだけど、そうやって、本好きなんだなって知った人に自分の小説の意見が欲しくて「読んでもらいたいんですけど」と原稿を渡せばマウントととられるんでしょうね。というかか、本が好きなんだなぁって知った相手に「実は僕、小説書いてます」と言っただけでもマウントだととられるんですよ(めんどくさ)。

マウンティングって、世の中が勝ちか負けかしかないとの前提からきますよね。これって強迫観念ぽいです。なんでもマウントと解釈するのはやめてくれーと思う。勝ち負けを競いたいならもっとでっかいことでやったらどうかと思ったりもします。それこそ、徒競走からはじまって、商品開発競争でもいいし、F1レースでもいいし。だから、小さなことからコツコツとマウンティングやらんでください、と苦笑いしちゃいます。

「うちの主人なんかね」「うちの子ときたら」の愚痴に忍ばせたマウントって、僕が子どもの頃だったらマンガやドラマでの滑稽なシーンの常套技術みたいな感じだったんですけど、似たようなのをみんなやるようになっちゃいました。そういう場面の後、主人公と仲間は「なにが言いたいんだろ、あのおばさん」とか「嫌味ったらしかったね」と初めはひそひそ、それからげらげらと笑いあうってなります。そういった主人公たちの見ていた世界観、住んでいた世界はどこにいったんだろうか。いや、彼らは「どんな世界に住んでいたか」ですよ。

「どんな世界に住んでいたか」。たいてい、この手のシーンが出てくる作品の主人公たちは、ちょっと貧しかったり、勉強が不得意だったり、親が一人だったりなんていうふうに世間一般からちょっとマイナスに見える要素を持っている人だったりもした。そういう人はマウントしなかったんです。物質的に恵まれて、学力も平均的にあがって、親が一人なのも珍しくなくなって(?)、マウントが一般化しちゃったのではないか。時代がすすむにつれて獲得したものとトレードオフで、「マウントしないこと」を失っちゃったのかもしれないですね。まあいまや、したくなくても巻き込まれますが。

あと、年収が多いとか海外へ留学したとか、高いブランドの紙袋もってきたとかありますが、頑張った分がストレートに結果となる世の中だったら、そんなのは今のようなマウントにはならないです。当り前でってことになりますから、プラスもマイナスもとても単純。でも、世の中は不透明で不公平だからマウントをしたりそう取られたりってなるところはあるんじゃないですか。これはマウントとしてやってる、と自覚してマウントばかりする人は、精神的にとてもマッチョな人かでかい穴をかかえている人か、そういう種類の人だと思う(思うだけだけど)。

自分の頑張りの結果やラッキーだったことをただ知って欲しくて発言してもそれは相手を組み伏せる「マウントの文脈」に回収されてしまいます。もともとこっそり忍ばせているという意味の「ステルスマウント」だって、それとなく自分のことを知って欲しい気持ちから生まれているのではないか。そういった自己開示的な言動や行為も、「マウントの文脈」に回収されがちです。

ご承知の上だと思いながら確認しますが、マウントを取られるということは相手にマウンティング、つまり組み伏せられたことを意味し、要するに負けたという意味になります。それが度重なると相手に優位性がでてくるので、相手の意向が通されやすくなる。だからマウントされることに神経質になる(そこには他律性を嫌う性分が顔を見せている)。

同調圧力はマウントを許さないんです。もっと細かく考えたら、同調圧力はマウントの文脈に回収できるものを許さない。出る杭は打ちましょう、という論理です。そして、マウントの現場にある同調圧力は、みんな公平で平準で、っていう価値観による同調圧力です。そんなのは実際無理であって、いわば理想と現実のあいだに真面目な面持ちで板ばさみになっているのが先述の「マウンティング講座」での再現ドラマに代表されるものなんです。

それとですね、今言ったことを別角度で見てみると次のような発見があるんです。同調圧力がさまざまな出る杭をマウントの文脈に回収しているのかもしれない、というのがそれです。コロナ下の「自粛警察」のように、同調圧力が浸透した価値観が、どんなものであってもマウントととれるんだったらとるというような「マウント警察」という働きがありそうです。

こういうのは、もう一歩、視界を俯瞰させることでその枠組みがみえてくると変わってくるんですが、マウントや同調圧力は、まるで空気のようにふつうに存在している大前提みたいにとらえられているきらいがあり、疑いが挟まることって少ないのでしょう。

自分の優位性を捨てられるならば、マウントのないコミュニケーションってできますよね。そういうのは楽しいです。素直に自己開示できて、素直に他人を認めることができて、他人を褒めることができて、自分が支配的にふるまわないし支配的にふるまわれるもしない。同調圧力などの前提が変わればできるんですけども。そういう僕は、支配的か被支配的かの心理テストで、どちらでもない傾向の高い一匹オオカミ型とでたことがあります。どちらかというとマウント人間ではない。だから、こう思うんですよ、支配や被支配にみんながウンザリしてくれたとしたら、僕は一匹オオカミじゃなくてよくなるな、と。なんていうか、……他力本願!! というところで、終わっときます。
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