読書。
『地下鉄<メトロ>に乗って』 浅田次郎
を読んだ。
いまや世界的大企業へと発展した会社の創業者・小沼佐吉。家庭でも暴君だった佐吉の次男である小沼真次は幼いころ、兄がくり返した佐吉への反発をよく目にしていた。しかし、その反発がこじれて兄が自殺を遂げてしまったことを機に、真次の父親への反感は決定的なものとなる。大人になっても親の会社を継ぐことはなく、地下通路の一角に事務所を構える小さな会社で働く真次。そんな彼は、ある日、高校時代の書道の先生だった野平と偶然出会うことになる。その出会いのときをきっかけにするように、彼は時間を超える経験を幾度として、本当の父親の人生を知ることになっていく。
1994年の作品です。崩壊したバブル景気の毒々しさの名残が色濃く残る時代だったと思います。本作品で香るその時代の匂いとしては、景気が後退してもまだまだ経済的に余裕のあるアジア一豊かな日本の大都市・東京に住む人々の、モノのあふれた中で暮らしている空気がさりげなくあります。また、エゴイスト的な振る舞いが今よりも容認されやすい感覚も感じられます。
では、強くこころにひっかかったところを書き綴っていきましょう。
戦後の焼け野原の頃にタイムスリップした真次は街娼の姐御・お時と出合い、<抱き寄せるお時の骨は、軋むほどに細い。やはり思いがけぬ若さなのだろう。この娘が胸の奥に抱え込んだ哀しみを知る者は、この時代にも、後の世にも永久にいはしない、と思った。>という思いを抱く。
現実にこのような「誰にも知られない深い哀しみ」を胸の奥に抱えたまま生きて、そのまま死んでいった者たちは現代でも過去でもそれこそ未来にだってほんとうに大勢いるでしょう。だけれど、自分のような深い哀しみを抱えた人は過去にも、まだやってこない未来にだって大勢いるものなのだ、ということに気付くと、孤独が、孤独を保ったままで、時空を超えて結びつきあうような体験をすることになったりします。シニカルな見方をすれば、それはただの個人的な想像力の産物にすぎないのでしょう。けれども、そういう方法でしか癒されない深い哀しみというものは存在します。しかしながら、そういった方法を知ることもなく、果てしない孤立感ゆえに胸に大きな穴があいたまま、亡くなっていく人こそが大勢を占めるものなのかもしれません。でも、そこに慈しみの気持ちやねぎらいの気持ちや寄り添いたい気持ちで、イメージを持てるかどうか。つまり、詩的な精神で埋まる穴ってあると思うんですよ。
『地下鉄<メトロ>に乗って』では、戦後間もない時代で、傷つき、でも逞しく生きる人たちの強さを感じさせられます。浅ましくしたたかに法やモラルをかいくぐったり、それらをすれすれのところで行動したりする。そうしなければいけなくなった哀しみ、そうすることの哀しみと、歪みを抱えた人間の強くある姿がありました。
生命力がほとばしるような表情で生きる人たちがいればその民族は復活していく、というように語られるところがこの作品にはあったのだけれど、僕が思うにはそれはちょっとロマンチックな希望的観測すぎるようなとらえ方に思えてしまいました。人間という生き物はそこまで単純ではなくて、自分が生き延び富を得るためには暴力が肯定されてしまい、だからこそ他者を深く傷つけることへの抵抗が弱い。成功して生きていくためにはある種の不器用さを抱え込まなければならず、加害の罪を抱え込んでしまうのだと思うのです。
要するに、そこで「人間はそこまで完璧じゃないんだよな」と感じさせられたのでした。というか、すぐにボロがでる存在なのに無理してまで生きていかないといけない。ここでいう「無理をして」とは、暴力で家族を含めた他者を傷つけながらでも生きないといけない、ということです。これが、時代・社会という止まらない激流を生きるがための哀しみなのかなぁ。
本作品に、僕はストーリーそのものよりも、そういった細かいところで感銘を受けましたねえ。
1章ごとに、「ふーーーーん」と大きく息を継ぎながら考え事に落ちていくような読書でした。混沌としたもの、整理しきれないごちゃっとしたものがそのままどろどろと背面に在りながら流れるストーリーです、序盤から中盤まで特に。読みながらも、端折ったり単純化したりしないように読み続けなきゃという構えでいました。
蛇足ながら、浅田次郎先生は、僕が学生時代にアルバイトをしていた札幌競馬場で何度かおみかけしたことがありました。それどころか、ハンドスタンプの確認のためにお声がけしたりもして。直木賞作家になられた頃でしたから、あ! と思ってちょっと緊張したという。まあ、それだけなんですけどね。
『地下鉄<メトロ>に乗って』 浅田次郎
を読んだ。
いまや世界的大企業へと発展した会社の創業者・小沼佐吉。家庭でも暴君だった佐吉の次男である小沼真次は幼いころ、兄がくり返した佐吉への反発をよく目にしていた。しかし、その反発がこじれて兄が自殺を遂げてしまったことを機に、真次の父親への反感は決定的なものとなる。大人になっても親の会社を継ぐことはなく、地下通路の一角に事務所を構える小さな会社で働く真次。そんな彼は、ある日、高校時代の書道の先生だった野平と偶然出会うことになる。その出会いのときをきっかけにするように、彼は時間を超える経験を幾度として、本当の父親の人生を知ることになっていく。
1994年の作品です。崩壊したバブル景気の毒々しさの名残が色濃く残る時代だったと思います。本作品で香るその時代の匂いとしては、景気が後退してもまだまだ経済的に余裕のあるアジア一豊かな日本の大都市・東京に住む人々の、モノのあふれた中で暮らしている空気がさりげなくあります。また、エゴイスト的な振る舞いが今よりも容認されやすい感覚も感じられます。
では、強くこころにひっかかったところを書き綴っていきましょう。
戦後の焼け野原の頃にタイムスリップした真次は街娼の姐御・お時と出合い、<抱き寄せるお時の骨は、軋むほどに細い。やはり思いがけぬ若さなのだろう。この娘が胸の奥に抱え込んだ哀しみを知る者は、この時代にも、後の世にも永久にいはしない、と思った。>という思いを抱く。
現実にこのような「誰にも知られない深い哀しみ」を胸の奥に抱えたまま生きて、そのまま死んでいった者たちは現代でも過去でもそれこそ未来にだってほんとうに大勢いるでしょう。だけれど、自分のような深い哀しみを抱えた人は過去にも、まだやってこない未来にだって大勢いるものなのだ、ということに気付くと、孤独が、孤独を保ったままで、時空を超えて結びつきあうような体験をすることになったりします。シニカルな見方をすれば、それはただの個人的な想像力の産物にすぎないのでしょう。けれども、そういう方法でしか癒されない深い哀しみというものは存在します。しかしながら、そういった方法を知ることもなく、果てしない孤立感ゆえに胸に大きな穴があいたまま、亡くなっていく人こそが大勢を占めるものなのかもしれません。でも、そこに慈しみの気持ちやねぎらいの気持ちや寄り添いたい気持ちで、イメージを持てるかどうか。つまり、詩的な精神で埋まる穴ってあると思うんですよ。
『地下鉄<メトロ>に乗って』では、戦後間もない時代で、傷つき、でも逞しく生きる人たちの強さを感じさせられます。浅ましくしたたかに法やモラルをかいくぐったり、それらをすれすれのところで行動したりする。そうしなければいけなくなった哀しみ、そうすることの哀しみと、歪みを抱えた人間の強くある姿がありました。
生命力がほとばしるような表情で生きる人たちがいればその民族は復活していく、というように語られるところがこの作品にはあったのだけれど、僕が思うにはそれはちょっとロマンチックな希望的観測すぎるようなとらえ方に思えてしまいました。人間という生き物はそこまで単純ではなくて、自分が生き延び富を得るためには暴力が肯定されてしまい、だからこそ他者を深く傷つけることへの抵抗が弱い。成功して生きていくためにはある種の不器用さを抱え込まなければならず、加害の罪を抱え込んでしまうのだと思うのです。
要するに、そこで「人間はそこまで完璧じゃないんだよな」と感じさせられたのでした。というか、すぐにボロがでる存在なのに無理してまで生きていかないといけない。ここでいう「無理をして」とは、暴力で家族を含めた他者を傷つけながらでも生きないといけない、ということです。これが、時代・社会という止まらない激流を生きるがための哀しみなのかなぁ。
本作品に、僕はストーリーそのものよりも、そういった細かいところで感銘を受けましたねえ。
1章ごとに、「ふーーーーん」と大きく息を継ぎながら考え事に落ちていくような読書でした。混沌としたもの、整理しきれないごちゃっとしたものがそのままどろどろと背面に在りながら流れるストーリーです、序盤から中盤まで特に。読みながらも、端折ったり単純化したりしないように読み続けなきゃという構えでいました。
蛇足ながら、浅田次郎先生は、僕が学生時代にアルバイトをしていた札幌競馬場で何度かおみかけしたことがありました。それどころか、ハンドスタンプの確認のためにお声がけしたりもして。直木賞作家になられた頃でしたから、あ! と思ってちょっと緊張したという。まあ、それだけなんですけどね。