Fish On The Boat

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『ハーモニー』

2022-05-10 20:17:25 | 読書。
読書。
『ハーモニー』 伊藤計劃
を読んだ。

「大災禍」を経た21世紀後半。成人した大人たちは、WatchMeという微小な医療分子機械を体内にインストールすることが義務付けられている。それが、大多数の国家が政府ならぬ生府という統治機構へと移行した未来世界のシステム。WatchMeによって健康状態を管理されることで、人類は病の大半を克服した。人間存在は社会のリソースとして、この上なく尊重されるものとされる。究極の健康ファーストの価値観が共有され、健康に悪い食物や嗜好品は忌避されている。健康倫理のセミナーも盛んで、人々の健康意識や人命尊重意識はこのうえなく高く、安定している。

そんな管理社会に、自らの死をもって自らを尊重しよう、自分は自分なのだからとする考えで自死を試みた3人の少女。イデオローグ的な存在としてその行動を先導した御冷ミァハと、彼女の影響を強く受けた主人公・霧慧トァン、ミァハに選ばれたもうひとりの少女・零下堂キアン。しかし、自死を遂げずにトァンとキアンは生き延びた。そして13年後、世界は大きく動きだし、WHOの螺旋監察官となったトァンが、大きな事件の中心を突き進むことになる。

この物語世界にさらりと触れたくらいならば、それは、健康を保ち続けるべく各々が「自律的」に生きている世界だと読解するかもしれない。健康意識、生命を尊重する倫理観、そういったものを自発的に求め、自律的な行動で獲得する。ぱっと見には「自律性」による世界がそこにあるでしょう。しかし、そこに義務めいたものがある時点で、「自律性」を疑う必要があります。つまりは「自律性」を暗に強要する「他律性」がある。

ちょっと話が逸れます。以前、僕が考えを重ねてたどりついた「幸福感を得るための方法」の主軸となるひとつに、「他律性から逃れること」があります。本作において生命主義の下で病気の大半を克服した人類が、それなのに自殺者の数が多いというパラドックスを抱えています。生きづらさって「他律性」が関係していると僕は考えるのですが、この虚構世界の設定のなかで、それが証明されているように感じられて、考えが強化されたような想いがしました。著者による綿密な思考実験的な世界でのことですから、なおのことです。

福祉がもっと進んだらいいのに、と考える僕であっても、この小説を読んでいる最中、そこで描かれている生命主義(福祉社会の発展型)による、テクノロジーを駆使した万人による万人への慈しみや優しさの義務みたいなものへは「それは違うぞ」と感じました。良いのだけど良くない、みたいな感覚で、です。生命尊重にしたって程々にしないとこうなるのか、と、作者がつきつめて考え得た「ひとつの可能性としての世界のヴィジョン」に居心地の悪さを感じるのでした。

棲み分けだとか、他者に干渉することへ自問的であることだとかや、他者にとって他律的にすぎると思えばブレーキをかけられることだとかがまず、福祉ファーストの生命主義社会に進むのに先んじて必要ではないのかなと思いました、大真面目に現実に落とし込むように考えてみてです。ある意味で、傷つけられたり傷つけてしまったりは避けられないんだっていう前提で打開策・回避策を考えたほうがよいのかもしれない。それが、この物語の世界観への違和感との、僕なりの向き合い方なのでした。

『ハーモニー』の世界観って、実は人権への考え方がちょっと辺鄙で狭隘なところにて停止した世界なんです。そこに至るには、過去の「大災禍」からの人類全体の反省とトラウマが原動力となっていることが明かされますが、現実の世界でも、何か大きな出来事があったりするとその揺れ戻しで、反対のほうへと極端なくらいみんなの意識が傾きがちですから、フィクションとして構築された『ハーモニー』の世界だってそうなのだろうと考えなおしてみると、なにも不可解ではないな、と納得してしまえるのです。論理的な整合性がしっかり感じられてしまうくらい精密な思索とイメージのなかに、『ハーモニー』は作られている。(そんな『ハーモニー』には、『風の谷のナウシカ』へのちょっとしたオマージュも。)

作者の深く広い知識と論理力でぐいぐい物語を進めていくその牽引力には非凡なほど卓越したものがあります。社会ってどういうものなんだろう、と考えたことがある方ならば、本作の、思想的というよりも生物としての人間観に則った実際的な社会観による、演繹法によってできあがった未来世界に、時を忘れるほど没入することができるでしょう。おもしろかったです。


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