読書。
『しろいろの街の、その骨の体温の』 村田沙耶香
を読んだ。
ニュータウンに住まう主人公・結佳。彼女の小学生時代と中学生時代の二部構成の物語。ニュータウンの開発とその停滞、そしてまた開発が進んでいく様と、結佳の身体と心の成長のその様子が、静かにリンクして描かれていたりします。
<今回は、ほぼネタバレとなっています。お気を付けください!!>
黒子に徹しているような文体。静かにそうっと丁寧に、物語を文字にして記していったかのようです。著者は、水槽の中に登場人物や舞台となるところがあって、そこで起こることを眺めて書き移しているというようなことをテレビでおっしゃっていたのを見たことがあります。水槽というか、箱庭みたいな感じなのでしょうか。著者は小説世界が動いている水槽(あるいは箱庭)の中をかなり引いたところから見ていて、自分がわずかにであっても影響を与えないように、息をするかすかな音さえもたてないように気配を消し、集中している感じがしました。自身が思い浮かべた世界の動きではあっても、私情をいれず書き写している感じなのかもしれません。あるいは、自分という文章を書ける存在を物語に捧げているかのような書き方なのかもしれません。そんな気がしてくる、まずは第一部でした。
結佳は、若葉というおしゃれな女子と、元気だけれど少し子供っぽい信子という女子と、三人でよく遊んでいました。同じ習字教室に通う伊吹という男子への未熟な欲望に端を発する秘密の関係もそこで芽生えていきます。
第二部に入ると、生々しいスクールカーストの現場が繰り広げられる。結佳、若葉、信子の関係性も変わっている。そして著者の、その現場のエッセンスを、紙へと文章でトレースする技術がベラボーに高いのでした。
第二部に入って、ひりついた感じがするというか、スクールカーストの現場を想像することで胃が重くなりそうな感じがするというか。やっぱり生々しさが堪えるようなところがあります。僕個人の過去過ごした中学や高校のことが不意に想起されたりしますし、この作品を読むことで、10代の曖昧だった部分を清算することになるかもしれない、という予感もありました。
性的な目覚めによってできた、性的な優劣による階級(でもその優劣はとても狭義で恣意的でいい加減なものです)。教室のなか、学年の中、学校の中などのくだらなくてあやふや価値観が絶対化されてしまって、息苦しさを生んでいる。そうやってできた既得権益にしがみつき、大人になっても同じ力関係を保持するのが当たり前だと考えているたとえば地方都市の住人は多いと思います。僕の住む町でも、そういった話を聞いたりしますから。
そういったどうでもいい価値観すら秩序として守ろうとしてしまう保守性。自分を守るために、窮屈な世界に閉じた状態で我慢してしまっています。この小説では、そういった、性的な目覚めによってできあがったような階級が、その恋愛感情という性的な気持ちがどんどん高まっていくことで、そのあと崩されていくのかどうかが、ひとつの大きな読みどころです。
物語の中盤から終盤にかけて、物語が、そして主人公の在り方が揺るがされていきます。進退が極まる局面へと、追いつめられていく。そしてその結果、
__________
身分制度の外側に突き落とされた私(p276)
__________
となってしまう。誰からも距離を置かれる存在に落とされてしまう。読んでいくと、カーストの底辺よりも価値が低いようなポジションです。
教室の身分制度自体が、きわめて恣意的で、めちゃくちゃな価値観でできあがっている身分制度です(僕もかつて、そういったものから排除されたことを思い出します。また、僕の自作小説『ラン・ベイビー・ラン』に出てくる中学生が、ハッと気づきそうになる価値観の転換にひるむ場面があるのですが、この作品の終盤間際にちらっと主人公が気づくあらたな、そしてほんとうの価値観と同じもので、そこにはなんだか共感を持ったのでした)。
階級の底辺にいる信子は、一番わたしを見下しているのは結佳ちゃんだよ、と言う。主人公がいちばん冷静に、客観的に、その階級をそのままのものと確定させて眺めている。階級上位の男子である井上や荒木は、主人公よりも階級意識について考えが浅いぶん、強固な教室の価値観に流されて信子ら階級の低い者たちをからかったり、いじめたりしている部分があるのかもしれない。しかし、結佳は、価値観の有り様をしっかり見据えて見破ってすらいるのに、それに自分の意志で従っている。考えが深い分、下の階級を下の階級と固定してみることへの意識は強いのかもしれない。
著者の村田さんはグッジョブだと心が温かくなりました。たぶん、切り傷や打撃痕を負いながら、それでもこの閉じた世界観というか、大勢の人々の記憶に刷り込まれているであろう閉じた世界に、単身切り進んで世の中に開いてくれたような仕事が本書だと思います。
また、こういう作品を書くと、自分自身が自分自身に立ちはだかる敵になったりもしているんじゃないでしょうか。負った傷痕は、自分が敵となって自らを攻撃したものも多数ある感じなのではないのか。聖人君子じゃなければそうなるし、聖人君子ならばこういう作品は書けまい。
僕の、カーストから外れたケースは、学祭の演劇の役を一方的に押し付けられたので、セリフを覚えずにステージに立つということをしたんです。もちろん劇はめちゃめちゃで、それから階級の外に落とされたような状態に。まあ、教室では文庫本を読み、放課後は部活で汗を流し、という日々でした。かといって本書みたいにはっきりとした状態ではなく、もっとずっと曖昧なものでしたけどね。
終盤、身分制度の外に落とされた結佳は、きもい、嫌い、などと言われたいと欲します。なぜなのかといえば、自分が大嫌いな自分自身と決別するためには、自分ひとりの力では足りなかったがためだと思えるのです。好きな人、嫌いな人、誰彼構わず、自分を否定する言葉を欲し、飲み込む。そうして、結佳はそれまでの自分と決別し新たな価値観を持つ自分へと再生した。
そこには、性の欲求に押し出されるようにして、自分という個性ある身体性が発見され、大人の身体へと変化した自分の存在のリアルな感覚を不意に掴んだ経験が、大きな後押しになっていたと思う。たまたまそうなったのかと読めなくないですが、おそらくこれは性欲の根源的なエネルギーが強くなっていくことの必然なんだと僕は捉えました。性欲という根源的で強大な力の増大が、性欲の初期の段階である未熟な成長のスタート期に由来していてその段階で固まってしまったかのような身分制度とその価値観を打ち破る。
ラストの部分。結佳と伊吹が結ばれるところ。その結ばれ方が、中学二年生の終わりのまだまだ子どもたちのやり方なのに、とても正当で本当で素直なところに、この物語が宿す大きなカタルシスがあるように思いました。コントロールが難しく、あらぬ方向へと暴れ出して行きがちな性欲を、きちんと開放する道筋、それも自然なかたちでの道筋が照らされ、その道程は開かれていて読者はともに歩んでいくことができる。そこのところは、頭でもわかるし腑に落ちもする感覚で描写されているのでした。
もう一度いいますが、著者はグッジョブです。これまでで村田沙耶香さんの作品に触れたことがあるのは『コンビニ人間』のみでした。僕の読解力では、一作だけで作家を立体的にとらえることは無理で、そのことを本書を読んでよくわかりました。情けない話ですが、『コンビニ人間』だけでは、村田沙耶香という人の指先くらいしかわかっていなかったかも、なんて思うくらいです。
そういった、作家の人となりみたいなところを知りたいか知りたくないかを別としても、つまりそういうところを抜きにしても、本書はしっかりとしたパワーを持った作品でした。しっかり自分を生きたい人には読んで欲しいと、つよくつよくおすすめしたい作品でした。
『しろいろの街の、その骨の体温の』 村田沙耶香
を読んだ。
ニュータウンに住まう主人公・結佳。彼女の小学生時代と中学生時代の二部構成の物語。ニュータウンの開発とその停滞、そしてまた開発が進んでいく様と、結佳の身体と心の成長のその様子が、静かにリンクして描かれていたりします。
<今回は、ほぼネタバレとなっています。お気を付けください!!>
黒子に徹しているような文体。静かにそうっと丁寧に、物語を文字にして記していったかのようです。著者は、水槽の中に登場人物や舞台となるところがあって、そこで起こることを眺めて書き移しているというようなことをテレビでおっしゃっていたのを見たことがあります。水槽というか、箱庭みたいな感じなのでしょうか。著者は小説世界が動いている水槽(あるいは箱庭)の中をかなり引いたところから見ていて、自分がわずかにであっても影響を与えないように、息をするかすかな音さえもたてないように気配を消し、集中している感じがしました。自身が思い浮かべた世界の動きではあっても、私情をいれず書き写している感じなのかもしれません。あるいは、自分という文章を書ける存在を物語に捧げているかのような書き方なのかもしれません。そんな気がしてくる、まずは第一部でした。
結佳は、若葉というおしゃれな女子と、元気だけれど少し子供っぽい信子という女子と、三人でよく遊んでいました。同じ習字教室に通う伊吹という男子への未熟な欲望に端を発する秘密の関係もそこで芽生えていきます。
第二部に入ると、生々しいスクールカーストの現場が繰り広げられる。結佳、若葉、信子の関係性も変わっている。そして著者の、その現場のエッセンスを、紙へと文章でトレースする技術がベラボーに高いのでした。
第二部に入って、ひりついた感じがするというか、スクールカーストの現場を想像することで胃が重くなりそうな感じがするというか。やっぱり生々しさが堪えるようなところがあります。僕個人の過去過ごした中学や高校のことが不意に想起されたりしますし、この作品を読むことで、10代の曖昧だった部分を清算することになるかもしれない、という予感もありました。
性的な目覚めによってできた、性的な優劣による階級(でもその優劣はとても狭義で恣意的でいい加減なものです)。教室のなか、学年の中、学校の中などのくだらなくてあやふや価値観が絶対化されてしまって、息苦しさを生んでいる。そうやってできた既得権益にしがみつき、大人になっても同じ力関係を保持するのが当たり前だと考えているたとえば地方都市の住人は多いと思います。僕の住む町でも、そういった話を聞いたりしますから。
そういったどうでもいい価値観すら秩序として守ろうとしてしまう保守性。自分を守るために、窮屈な世界に閉じた状態で我慢してしまっています。この小説では、そういった、性的な目覚めによってできあがったような階級が、その恋愛感情という性的な気持ちがどんどん高まっていくことで、そのあと崩されていくのかどうかが、ひとつの大きな読みどころです。
物語の中盤から終盤にかけて、物語が、そして主人公の在り方が揺るがされていきます。進退が極まる局面へと、追いつめられていく。そしてその結果、
__________
身分制度の外側に突き落とされた私(p276)
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となってしまう。誰からも距離を置かれる存在に落とされてしまう。読んでいくと、カーストの底辺よりも価値が低いようなポジションです。
教室の身分制度自体が、きわめて恣意的で、めちゃくちゃな価値観でできあがっている身分制度です(僕もかつて、そういったものから排除されたことを思い出します。また、僕の自作小説『ラン・ベイビー・ラン』に出てくる中学生が、ハッと気づきそうになる価値観の転換にひるむ場面があるのですが、この作品の終盤間際にちらっと主人公が気づくあらたな、そしてほんとうの価値観と同じもので、そこにはなんだか共感を持ったのでした)。
階級の底辺にいる信子は、一番わたしを見下しているのは結佳ちゃんだよ、と言う。主人公がいちばん冷静に、客観的に、その階級をそのままのものと確定させて眺めている。階級上位の男子である井上や荒木は、主人公よりも階級意識について考えが浅いぶん、強固な教室の価値観に流されて信子ら階級の低い者たちをからかったり、いじめたりしている部分があるのかもしれない。しかし、結佳は、価値観の有り様をしっかり見据えて見破ってすらいるのに、それに自分の意志で従っている。考えが深い分、下の階級を下の階級と固定してみることへの意識は強いのかもしれない。
著者の村田さんはグッジョブだと心が温かくなりました。たぶん、切り傷や打撃痕を負いながら、それでもこの閉じた世界観というか、大勢の人々の記憶に刷り込まれているであろう閉じた世界に、単身切り進んで世の中に開いてくれたような仕事が本書だと思います。
また、こういう作品を書くと、自分自身が自分自身に立ちはだかる敵になったりもしているんじゃないでしょうか。負った傷痕は、自分が敵となって自らを攻撃したものも多数ある感じなのではないのか。聖人君子じゃなければそうなるし、聖人君子ならばこういう作品は書けまい。
僕の、カーストから外れたケースは、学祭の演劇の役を一方的に押し付けられたので、セリフを覚えずにステージに立つということをしたんです。もちろん劇はめちゃめちゃで、それから階級の外に落とされたような状態に。まあ、教室では文庫本を読み、放課後は部活で汗を流し、という日々でした。かといって本書みたいにはっきりとした状態ではなく、もっとずっと曖昧なものでしたけどね。
終盤、身分制度の外に落とされた結佳は、きもい、嫌い、などと言われたいと欲します。なぜなのかといえば、自分が大嫌いな自分自身と決別するためには、自分ひとりの力では足りなかったがためだと思えるのです。好きな人、嫌いな人、誰彼構わず、自分を否定する言葉を欲し、飲み込む。そうして、結佳はそれまでの自分と決別し新たな価値観を持つ自分へと再生した。
そこには、性の欲求に押し出されるようにして、自分という個性ある身体性が発見され、大人の身体へと変化した自分の存在のリアルな感覚を不意に掴んだ経験が、大きな後押しになっていたと思う。たまたまそうなったのかと読めなくないですが、おそらくこれは性欲の根源的なエネルギーが強くなっていくことの必然なんだと僕は捉えました。性欲という根源的で強大な力の増大が、性欲の初期の段階である未熟な成長のスタート期に由来していてその段階で固まってしまったかのような身分制度とその価値観を打ち破る。
ラストの部分。結佳と伊吹が結ばれるところ。その結ばれ方が、中学二年生の終わりのまだまだ子どもたちのやり方なのに、とても正当で本当で素直なところに、この物語が宿す大きなカタルシスがあるように思いました。コントロールが難しく、あらぬ方向へと暴れ出して行きがちな性欲を、きちんと開放する道筋、それも自然なかたちでの道筋が照らされ、その道程は開かれていて読者はともに歩んでいくことができる。そこのところは、頭でもわかるし腑に落ちもする感覚で描写されているのでした。
もう一度いいますが、著者はグッジョブです。これまでで村田沙耶香さんの作品に触れたことがあるのは『コンビニ人間』のみでした。僕の読解力では、一作だけで作家を立体的にとらえることは無理で、そのことを本書を読んでよくわかりました。情けない話ですが、『コンビニ人間』だけでは、村田沙耶香という人の指先くらいしかわかっていなかったかも、なんて思うくらいです。
そういった、作家の人となりみたいなところを知りたいか知りたくないかを別としても、つまりそういうところを抜きにしても、本書はしっかりとしたパワーを持った作品でした。しっかり自分を生きたい人には読んで欲しいと、つよくつよくおすすめしたい作品でした。