Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『大きな熊が来る前に、おやすみ。』

2023-11-09 23:19:15 | 読書。
読書。
『大きな熊が来る前に、おやすみ。』 島本理生
を読んだ。

2007年発表、2010年文庫化の、三編からなる作品集。

ネタバレありなので、ご注意ください。まずは、一遍目の表題作である「大きな熊が来る前に、おやすみ。」から。

子どもの頃、父からのDVを受けていた若い女性の主人公・珠実。できたばかりの彼氏・徹平にも、一度、暴力をふるわれてしまう。

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本当は、徹平に初めて会ったときから、父のことを思い出していた。
友達から紹介された後に何人かで飲みに行ったときも、そのことばかり考えていた。
口数が少なく、言いたいことを腹に押し込めたような顔をしている。飲み始めると次第に饒舌になり、表面的にはとても明るい人に見えるけど、目だけが冷めている。時折、わざと自分を落としてまわりを笑わせるわりに、他人からからかわれると上手く乗れない。
そういうプライドが低いふりをして本当は自我のかたまりみたいなところや、それを完ぺきに隠し切れないでついぼろっと出してしまう不器用さもよく似ていて、ひどく落ち着かない気分になったけれど、目が離せなかった。(p19-20)
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→あまり本筋とは関係がないですが、「そんなところまで見通されてしまっていたのか!」と「そんなことまでわかってくれたなんて!」は、表裏一体なんですよね。わかってくれる人って、わかられたくないところもちゃんと見てるものなのを、なんとなくこの箇所で思い出しました。

さて、この作品がもっとも動く後半部分なのですが、主人公の珠実に赤ちゃんが宿っていることがわかったのだけれど、彼氏の反応がネガティブなものだったので、彼女は電車に乗って知らない駅で降りて目に付いた美術館に入ったりなどしながら、暗闇に降る雪の中をあてどなく歩き回ります。黙って佇んでなどいられないのです。佇んでいては、頭の中が無軌道に回転してしまうことを察したからなのかもしれません。歩き回ることは、頭の中を動かす替わりに身体を動かす、代替行為なのではないのだろうか。あてどなく彷徨っているその行動が、本来ならば頭の中で行われていて、外側からは見えることのないめまぐるしい考えごとの表出のようでした。あるいは、落ち着くために身体を動かしている。積もったストレスを発散して、頭が回るように、気持ちが落ち着くように、と無意識でした行為なのかもしれない。

そういうふうに読めたのだけれど、そのあてどない彷徨いの場面がとても訴求力を持っていました。二段階くらいはそれまでより深く、すとんと引きこまれました。そしてラストに至っては、もうこれは「排除」や「拒絶」とは別のものが物語を覆っていました。暴力をふるうことははもうしないから、と謝る彼氏に珠実は寄りそおうという気持ちになり、一方では、許すなんて馬鹿な真似だ、間違いなくまた暴力は繰り返されるものだ、ともしも友人に話したならそう諭してくるようなケースだということもわかっている。

でも珠実は、受け入れました。賭けたのか、奇跡的なものを信じたのか、若さゆえのエネルギーに由来する楽観なのか、彼を変えられる自信なのかはわかりません。それは、愚かなほどの甘さなのだ、と簡単に言われてしまうようなことかもしれなくても、それでも「積み上げていく道」を選びました。クリエイティブなほうを、選んだ。



次に、「クロコダイルの午睡」。

理工系の女子大生である霧島さんは、育ちがよくてお金に困っていない男、都築が苦手。でもひょんなことから、自宅で都築に手料理をふるまい続ける日々を送ることになります。そんな都築には彼女がいる。その彼女と対面したときの霧島さんの思ったことが以下です。
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私は、昔から、こういう完璧に手入れされた爪が怖かった。あの爪では、お釜の中の米を研ぐことはできない。ハンバーグの挽き肉をこねることも、焦げた鍋の底を強く擦ることも。あらゆる点で長い爪は非実用的なのだ。そして実用性よりも鑑賞することを求められる種類の女性というのは確実に、いる。そして、私は違う。(p104-105)
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→女性が女性をこう見ている。タイプの違う者が、他方のタイプを静かにこう言語化していっている。怖くもありながら、でもそれは日常的に行われている心理上のありふれた活動のひとつでもある。といいつつ、この作品からも、著者が人間心理をよく踏まえていることがうかがい知れます。自然過ぎてわざわざ言葉にまでして意識に上らせないような自明の心理を、客観的にみつめる能力が優れていると思いました。

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ああ、と私は心の中で痛感した。私は、この子のことが嫌いだ。それも彼女だけが嫌いなんじゃなく、彼女に代表されるような、苦労もせずに与えられた平和の中で平気に文句を言える、そういう育ちの子たち、すべてが憎いのだ。(p106)
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→ここで述べられていることについて、僕は言われる側、憎まれる側としてわかります。金銭的な平和についてならば、僕が生まれたのは金持ちの家だったというわけではないけれど、そこそこにそれを味わって生きてきました(今は違いますけど)。だけど、憎む側にある主人公の霧島さんのように、家庭に問題があってつらい思いをして育ったことも僕にはあって、経験としてわかるんです。

周囲は初め、金銭的な平和の中にいる者へあまり余計な手を出したりせずにただ注意深く観察していたりします。そして、翳りの兆しを察すると、それまでの注意深さを脱ぎ捨てて、喜んではやし立てたり、もっと落ちればいいと本音を出しはじめたりする。僕自身はそういった周囲の気配を察しますが、彼らが見ているのは表面的な金銭面の部分だけなのがわかります。それだけ人間って、お金に関してやっかんだり妬んだりする感情がそうとう強い。というか、関心がそういった表面的な部分にとどまる人ばかり。一枚捲った内側に苦しみを宿していて、それをたまたま目にしたとしても、そこにはまるで無関心だしお金に対するような食いつきは見せません。金銭的な平和のなかにあった、という前提が、対象となる人物のコンテクストを瞬時に変えてしまっているんです。

僕の場合は、見た目としては憎まれるほうに分類される金銭的平和があり、反面、まったく他人には見せずに隠し通してきた家庭の大きな不安定さがあります。さらには、自分でも最近まで言葉にできていなかった、環境から受け続けたマイナス面もあります。でも、世間は金銭的な平和の部分しか見ないんですよ。それだけ、世の中って、お金による快適さや自由さが異っている世界だということでしょう。

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「俺、よく考えるんだ。生まれたときから自分は特に何も不自由がなくてさ、むしろ恵まれてて、だけどそれって俺が努力でどうにかしたものじゃないって。ほとんど理由もなく与えられたものを享受してるだけなんだ。だから、もしかしたら、いつかその逆が起こるかもしれないって、思ってた。なんの理由もなく、災害みたいな不幸が自分に降ってきても、それは仕方のないことなんだって。俺は与えられた幸せも不幸も、同じように口にしなきゃいけないんだって」
そう言い切った彼の表情は澄んでいた。
そんなことを、と私は心の中で呟いた。そんなことを覚悟してる人だということを、どうしてもっと早く教えてくれなかったのか。
(p130-131)
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→理由もなく与えられた恵みを享受していても、酒に飲まれるみたいにしてその運命に飲まれてしまって傲慢な特権階級意識を持ち始めたりするのではなく(まあ多少はその育ちの上でそういった性質は不可抗力的に身に付けてしまうものではありますが)、もしも正反対の運命に見舞われてもそれを受け止め、受け入れる、とこの相手役の彼は言っているのでした。ちょっと立ち止まって考えると、それすら育ちの良さゆえなのですが、それでも利己的に他者から搾取するようなずるいタイプではないことがわかります。他人の気持ちがわからなくて傷つけてしまうという大きな欠点のある性格のキャラクターではありましたが、他人を陥れる人間ではない。生まれの恵まれ方の違いによって、憎んだり憎まれたりが、本人のほんとうの気持ちとは関係なく生じるのが世の中だなあ、とこの作品からあらためて思い知らされたのでした。



最後に、「猫と君のとなり」。

この作品も、男側の暴力(元彼からの暴力の過去)が描かれていますし、他方、再会した年下の男と主人公の女子大生の仲が進展しながらも、その年下の男の無神経な発言に傷ついたりもしている。

あとがきに、
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『クロコダイルの午睡』『猫と君のとなり』も、他人はどうやっても他人だということが、良くも悪くも浮き彫りになっている短編ではないかと思います。
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とあります。お互いが惹きあっても、それは個と個の関係であることは変わらず、いっぽうを自分のものにしようという心理、支配欲求などは、不幸を招き寄せしかしない。フィクションを通じてそういった思考体験ができる作品でもあったのではないかな、と思いました。

読み終わってみるとまだまだ読み足りず、著者の他の作品を読みたくなりました。今回、けっこう真面目な感想になっていますが、本作はユーモアにもあふれています。とくに『クロコダイルの午睡』の前半部なんか、何度か吹き出しもしました。やっぱり心理のとらえ方や洞察なんだと思います。こういう部分って、簡単には見習えない能力ではないでしょうか。著者のストロングポイントの大きなひとつとして、僕には見えたのでした。


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