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『東京都同情塔』

2024-08-06 00:49:33 | 読書。
読書。
『東京都同情塔』 九段理江
を読んだ。

第170回芥川賞受賞作。

近未来。東京オリンピック前に、新国立競技場建設コンペでザハ案が選ばれ、その費用がかさむことで廃案とされた現実とは違い、ほんとうにザハ案の国立競技場が建った世界の、その近未来までの物語です。

始めの一行目から、
__________

 これはバベルの塔の再現。シンパシータワートーキョーの建設は、やがて我々の言葉を乱し、世界をばらばらにする。(p3)
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と述べられている。だけど、続けて書かれていますが、バベルの塔の神話のように神の怒りに触れて人々が別々の言葉を話すようになるという理由ではありません。各々の勝手な感性で人々が喋り出すことで、言葉の濫用、捏造、拡大が生じ、排除が起こり、その当然の帰結として、互いの言っていることがわからなくなる、というのです。独り言が世界を席巻する、と。

本作品を読み終えてからこの最初の段落に戻ってみると、それがどうしてなのか、についてぼんやり思いつくことがあります。シンパシータワートーキョーの目的は、とある社会学者で幸福学者であるマサキ・セトという人物の提唱したテーマでありアイデアであるものの実現でした。彼によってホモ・ミゼラビリスという呼び方をあてがわれたいわゆる犯罪者たち。セトは彼らを通常のように刑務所に送る存在とはしません。社会環境や家庭環境など、どうしようもない不可抗力といえる力によって可塑的な人格的変化をなされてしまった、あるいは犯罪を犯す状況へ追い込まれてしまったがゆえに、犯罪に手を染めざるを得なくなった可哀そうな存在であるのが犯罪者・ホモ・ミゼラビリスという人たちなので、彼らは人権を尊重され、哀れみや同情の元、人間回復のための豊かな生活を、外界から隔離されたタワーの中で生活するようにさせる、というのが、その思想でした。これはまさに、社会的包摂の極み、母性の極みなんです。日本は母性的な国だと言われますが、作者はそこを特徴づけて物語の背骨にしたのでしょう。

とてもセンシティブで、意見は分かれて当然で、そして議論がまったく終わっていない問題ですし、たとえ議論をしてもうまく片付かないような割り切れない問題だと思うのです、犯罪者に対するこういった見方と、ラディカルなまでの包摂の実現というのは。そういった、人間的進歩の追いついていない時期尚早の問題であるのに、この物語の中では、決断され、採択されて、シンパシータワートーキョーはできあがる。当然、反対派の過激派による攻撃はあるし、SNSなどでの誹謗中傷も激しい。タワーの建設は、「どのような異論も認められないほどの、圧倒的な破壊」(p87)なのですから。

そうなった世界では、それぞれが自分の思想にしがみつくものなのかもしれません。同情を是とするか否とするか、またその間のグラデーションもありますが、この作品内では、マサキ・セトの取り扱った問題について、それぞれの違った思想を持つ者たちがそれぞれ分断されていくという方向で語られる。

ここは、ザハ案の国立競技場がトリガーなのでした。ザハ案が実現したことによって、ifの世界、それは不安定な世界なのだけれども、到来している。シンパシータワートーキョーは、このザハ案の国立競技場への建築的な回答として作られていますし、この物語世界の呼び水なんですね。

それで、そんなザハ案に呼ばれてしまった世界は、再度いいますが、人間的進歩の追いついていない時期尚早な問題への答えを無理矢理作り上げて、それによって議論が終わっていないのに既成事実としてしまい、その既成事実は現在の人間の知力や感性の力の範囲を超えているがために、得体のしれない魔力のようなものが宿っている。その魔力の源に、母性や社会的包摂、同情といったものがあって、そういったものの、人間の言葉をバラバラにしてしまう劇薬的側面みたいなものを、本作は訴えているところがあるのかもしれません。



というところで、真面目な個人的読み解きはここまでとします。あと余談的な感想をいくつか。



こういう作品を読むと、思考力、思考体力、思考継続力とでもいったらいいのか、考えることをずっとやってこそ文学は誕生するみたいなひとつの考え方に行き着くところがありますね。あと、この作風、僕が今まで読んだものの中で唯一同カテゴリぽく浮かんだのが上田岳弘さんの『ニムロッド』。小説の質感が、ニムロッドぽい感じがします。

世の中の整理されきっていないもの。それは対立となっていたりするのだけれど、そういった情勢を背景音としてときに干渉されつつ生きる主要人物、といったように、世情が巧みにスケッチされていて、そのなかで物語が進むさまは、形態として明治時代だとかの文学とつながっていると思いました。明治時代から始まる近代文学の系譜にこの芥川賞作品もちゃんとあるぞ、という。作風のレイヤー構造を想定してみると、SFのレイヤー、ifのレイヤー、文体のレイヤーなどがあると思うのですが、近代文学のメインロードとしてのレイヤーもそこに重なっているのではないでしょうか。

それにしても、東京タワーにスカイツリー、そして物語の中とはいえ同情塔。狭いエリアに3つもタワーを建ててしまうのが日本的ですよね。パリならエッフェル塔のみでそれ以上要らないところが、市井の人にもアンティークの感覚が宿っている国民性の感じられるところではないですか。日本人は、古いものを愛でるのは好事家のみという国民性かな、タワーが三つたつさまを思ってちょっと考えるところがありました。

最後に。あった人の数のぶんだけ、自分というものは増えていく、増殖するっていうのを本作品のP111あたりで読みました。これ、まったく同じことを僕は自分の創作の最初期の頃に書いています(『結晶アラカルト』第二話という短編のなかにあります)。僕の場合は、中学三年の頃に、当時買ったYMOのCD『増殖』のジャケットの意味するところを考え続けて閃いたことでした。たぶん、これについての簡単な解説も読んでいる。中学の卒業文集に、増殖!って書いたくらいの、当時の僕としてはとても大きな気付きでした。まあ、なんていうか。九段さん、僕のはじめての小説をまさか読んでないよね、と思いつつ(いや、といいながら思いませんが笑)。



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