読書。
『くもをさがす』 西加奈子
を読んだ。
直木賞作家・西加奈子さんが、コロナ禍のあいだに乳がんに罹患しました。その治療の日々の、記録だけにとどまらないエッセイです。
ご自身の気持ちの揺れを隠さず綴っておられます。体調の悪さにひきずられて精神面も沈んでいく日々がある。それでももちろんユーモアを忘れることなく、ときに看護師たちの言動などに大笑いもしている。がんという重い病気に罹患することで、心境はぐらりと変わるし、人生観も変わっていく。そうすると、見えているもの聞こえているものへの解釈も、また以前とは違うものになったりする。
抗がん剤や放射線治療がこれほど大変なのだとは、恥ずかしながら知りませんでした。様々な恐怖や大変さが人生には必ずくっついてくるものだけれど、病気や薬によって身体が変化していき、そこに死の影が感じられるときのそれらには堅い覚悟が求められることが想像できます。死を感じるからこそ研ぎ澄まされるものがあり、それは死を受け入れ、人生を断ち切られてもそれを飲み込むための力になるものだと思う。望まないにしても、そうやって、死への心理的な準備はなされていくように思います。
ここからは印象的だった箇所をいくつか引用しつつ、感想を書いていきます(今回のレビューはとても長いです)。
__________
クリスティは、しばらく私の顔をじっとみた。そして、こう言った。
「ドクターはなんて言うてるか知らんけど、うちは、カナコがやりたいんならやっていいと思うで。もちろん、抗がん剤で免疫が下がってるから、感染症には気をつけなあかんけど、自分の体調を自分でチェックして、マンツーマンとか、出来る範囲でやったらええんとちゃう? 柔術とかキックボクシングだけやないで。好きなことやりや?」
私も、彼女を見つめ返した。
「カナコ。がん患者やからって、喜びを奪われるべきやない。」(p48-49)
__________
→こういう言葉をかけてもらいたいもんですよねえ。また、こういう言葉がふつうに発せられる世の中だったらいいのにと思います。苦境にいるあらゆる人が、喜びを奪われるべきじゃないんですよね。「人はパンのみに生きるにあらず」にも通じる考え方ではないでしょうか。
__________
(田我流&B.I.G.JOEの楽曲「マイペース」の引用より)
当たり前過ぎて俺ら忘れがちだけれども
人生はたった一回 一回しかないんだ
(p98)
__________
→僕は、「人生は一回」ってよく考えるのだけど、けっこうみんな忘れがちなのですか?! 長いか短いかわからないけれども、残り時間についても考えたりしますが、これって少数派だったでしょうか?
__________
それでも、街の雰囲気は依然、とてもリラックスしている。あくせく働いてヘトヘト、みたいな人を私はあまり知らない。金曜日は、皆午後になると飲み始めているし、残業している人もそれほどいない(LOCAL Public Eateryというレストランの看板には、「世界のどこかは午後5時」と書かれている。つまり、いつでも飲み始めていい、ということだ)。皆、ワークライフバランスや、クオオリティ・オブ・ライフを、とても大切にしている。
でも、それはもちろん、私が持っている特権がなせることだ。バンクーバーにももちろん、あくせく働いてヘトヘトの人はいるのだろうし、残業続きでメンタルに影響が出ている人もいるだろう。私は結局、私が見ることが出来る範囲のものしか見ておらず、見たいものしか見ずに済む環境にいる
(p105-106)
__________
→カナダと日本の国民性や社会性の違いについて書かれている箇所ですが、読んでいるとカナダのほうがまっとうで人間らしい生活なのではないか、と思えてきます。くわえて、日本社会は人よりも枠組み優先の性質であることが、際立って感じられてきます。とはいえ、これ以前の部分に書かれている、著者が病院にかかるようになったときの場面では、病院にかかるまでの大変さ、手続きのゆるさがおよそそのままの形で綴られていますし、このしばらく後の部分では、カナダでは病院でなかなか診察を受けられない事態になってくるのです。そういったものと生きやすそうに見えるこれらは、地続きであることを忘れてはいけないですよね。
__________
オーシャン・ヴオン『地上で僕らはつかの間きらめく』の引用箇所より
僕たちは命を保持しようとする――もう体が持ちこたえそうにないと分かっているときも。僕たちはそれに食事を与え、体勢を楽にし、体を洗い、薬を飲ませ、背中をさすり、時には歌を聴かせる。僕たちがそういう基本的な部分で世話するのは、勇気があるからでも献身的だからでもなく、それが呼吸のように、人類の根幹にある行動だからだ。時がそれを見捨てるまで、体を支えること。(p127)
__________
→これは、自分で自分の体をケアする「自助」の行為としてでも読めますが、でもまずは家族や他人をケアしたり介護したりする行為について述べていることだと読めるでしょう。たとえば日本では、苦しい生活のなかでのどうしようもない口減らしのため、「姥捨て伝説」があったり、ヨーロッパでは小さな子どもを間引きしてきた残酷で悲しい営みが童話のなかに織り込まれていたりするといいます。それらは人間の営みの歴史という大きな布生地のほんの隅っこにできた黒い染みである小さな点のようなものではないかと思うのですが、昨今の欲望重視である世の中の空気としては、ともすると、この染みの部分こそが本物だと、倒錯した価値観が大声で語られやすくなっているような気がします。人間が軽んじられる、というように。この引用の文章は、そこを元に返してくれているような思いをもって読むことができます。
__________
バンクーバーにいる人たちは、皆とても体が強い。専門家にすぐにアクセス出来ない状況や、救急で何時間も待たされる経験から、彼らは一様に体をメンテナンスすることに重きを置いている。とは言っても、食べ物に気をつけているというよりは(もちろん、ものすごく気を遣っている人もいるが)、エクササイズや運動に力を入れている人が多いように思う。
やはり野菜の全くないピザにかぶりついている人や、それ何色? みたいな色のジュースをガブガブ飲んでいるカナダ人が屈強で健康でいるのを見ると、自分達アジア人の健気さに泣けてくる。出汁から取った味噌汁や、野菜をたっぷり使った料理を食べても、私は簡単にダウンした。(p148)
__________
→日本人が固く信じている「正解」が、どうもそれほど確かなものではないことに気付かされる箇所です。個人差はあるだろうし、人種差もあるかもしれない。さらに言えば、ある病気が発症するかしないかは、確率的なものもあるかもしれない。また、医療行為を受けないほうが長生きする、という逆説的事実も最近では「夕張パラドックス」として知られてもいますから、カナダ人が日本人ほど医療行為を受けないことで、健康の強さを保てている可能性もあるかもしれません(そうはいっても、カナダ人の平均寿命についてはわからないので、大きなことは言えないですが)。それでも、運動はよさそうだ、ということには気づけます。
__________
情は意志を持って、そして尊厳のために獲得するものではなく、気がつけば身についているものだ。目の前に困っている人がいれば、愛を持って立ち上がる前に、なんかもうどうしようもなく(あるいは渋々)手を伸ばしてしまっている。もしかしたら本人は面倒だ、嫌だと思ってしまっているかもしれない。もしかしたら自分の方が困った状況にあるのかもしれない。自分の居場所を譲るのは、本当は死活問題で、でも、もうそこにいる困った人を、どうしても、どうしても放っておけないのだ。
愛がいつも良き心、美しい精神からきているのに対して、情は必ずしも良き心や美しい精神からきているとは限らない。だから情は、それによって状況をさらに悪化させたり、時に人間を醜く見せたりもする。情に流されて悪事に手を染めたり、絶対に許すべきではない人を許してしまったりする。絶対に分かり合えない、顔を見たくないと思っている誰かの悲しげな背中を見た時にホロリとしてしまうのは情なのではないか。明らかな悪縁だと分かっていても断ち切れず、また手を伸ばしてしまうのは、情なのではないか。自分の手も傷だらけ、血だらけ、泥だらけだというのに。日本人の手は、情でしっとりと濡れている。そしてその湿度は、時に素晴らしい芸術へと昇華される。(p209-210)
__________
→前段に愛についての考察が述べられ、続くかたちで情についてこう述べられていました。在宅介護をしているとよくわかるところです。在宅介護中の僕はどうやら情で介護をしている。僕の場合はさらに「明らかな悪縁だと分かっていても断ち切れず、また手を伸ばしてしまう」のもけっこうあって、これはいけないなあと思うのですが、なかなか性格的に修正の難しいところでもあり、自虐的に「お人好し」と言葉を充てていたりもします。また、情が、どうしても手を差し伸べてしまう、というその性質の源のところには、もしかすると「寂しさ」があるのかなあ、という推測が生まれました。日本人の無関心な気質と寂しさとの、その間に情があるのではないかと、想像を巡らせました。
というところです。西さんは寛解を果たし「がんサバイバー」となりましたが、今のところ再発の不安からは自由になれないそうです。何かを背負うというか、ある意味で無条件の人生の自由という好天の下にいたのに小さくはない暗い雲も出始めたなかで生きていくことになったというか、読んでいると、もちろん僕も自分自身を顧みつつ読むのですが、こういった境遇に突入する人たちって一定数いるわけで、なってみるまでは「自分には関係がないことだ」と思いがちだけれども、やっぱりある種の確率でそうなるものである、というように腹が据わってくる感覚があります。
運がいいとか悪いとか、そういった次元で語られているうちは薄っぺらい人生なのだと思います。人生とはもっと、こう、何が起こるかわからないことが前提とされていて、起こったことに一喜一憂したっていいんだろうけど、できれば感情はもっと強くあるべきだと要求されるものだし、ときに感情を排して行動するべきだと要求されもする。真剣勝負で渡っていかねばならない時期や瞬間ってあるのだし、そういった経験ののちに持てた価値観が、それまでの価値観よりもずっと自らの信条としての揺るぎなさをもたらしてくれたり、ちゃんと世界に対しても通用するようなものだったりする。
本書は、なによりも著者・西加奈子さんが、真っすぐな言葉で病気と生の局面について伝えてくれました。読んでいていろいろと考えさせてくれましたし、やっぱりその姿勢を文章を通して眺めることが出来たのがいちばん大きかったんじゃないか。本書の中で、がんを患った人には、先輩がんサバイバーが寄り添ったりアドバイスをくれたりしていました。そこは本書自体が、そういった役割を果たせるところはありそうですし、もっと広い意味で、困難にある人や、これから困難に出合うかもしれない人に伝える、ひとつの在り方を読むことができる。多くの引用もあり、それらが援用的だったり、またちょっと違った角度からの視点を与えてくれていたりしました。そういったまるごとを受け止めて、できるだけのぶんを消化して、明日につながっていくようなスピリットが人によって差はありながらも醸成される。そういった力があるような一冊だと、僕は思いました。
『くもをさがす』 西加奈子
を読んだ。
直木賞作家・西加奈子さんが、コロナ禍のあいだに乳がんに罹患しました。その治療の日々の、記録だけにとどまらないエッセイです。
ご自身の気持ちの揺れを隠さず綴っておられます。体調の悪さにひきずられて精神面も沈んでいく日々がある。それでももちろんユーモアを忘れることなく、ときに看護師たちの言動などに大笑いもしている。がんという重い病気に罹患することで、心境はぐらりと変わるし、人生観も変わっていく。そうすると、見えているもの聞こえているものへの解釈も、また以前とは違うものになったりする。
抗がん剤や放射線治療がこれほど大変なのだとは、恥ずかしながら知りませんでした。様々な恐怖や大変さが人生には必ずくっついてくるものだけれど、病気や薬によって身体が変化していき、そこに死の影が感じられるときのそれらには堅い覚悟が求められることが想像できます。死を感じるからこそ研ぎ澄まされるものがあり、それは死を受け入れ、人生を断ち切られてもそれを飲み込むための力になるものだと思う。望まないにしても、そうやって、死への心理的な準備はなされていくように思います。
ここからは印象的だった箇所をいくつか引用しつつ、感想を書いていきます(今回のレビューはとても長いです)。
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クリスティは、しばらく私の顔をじっとみた。そして、こう言った。
「ドクターはなんて言うてるか知らんけど、うちは、カナコがやりたいんならやっていいと思うで。もちろん、抗がん剤で免疫が下がってるから、感染症には気をつけなあかんけど、自分の体調を自分でチェックして、マンツーマンとか、出来る範囲でやったらええんとちゃう? 柔術とかキックボクシングだけやないで。好きなことやりや?」
私も、彼女を見つめ返した。
「カナコ。がん患者やからって、喜びを奪われるべきやない。」(p48-49)
__________
→こういう言葉をかけてもらいたいもんですよねえ。また、こういう言葉がふつうに発せられる世の中だったらいいのにと思います。苦境にいるあらゆる人が、喜びを奪われるべきじゃないんですよね。「人はパンのみに生きるにあらず」にも通じる考え方ではないでしょうか。
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(田我流&B.I.G.JOEの楽曲「マイペース」の引用より)
当たり前過ぎて俺ら忘れがちだけれども
人生はたった一回 一回しかないんだ
(p98)
__________
→僕は、「人生は一回」ってよく考えるのだけど、けっこうみんな忘れがちなのですか?! 長いか短いかわからないけれども、残り時間についても考えたりしますが、これって少数派だったでしょうか?
__________
それでも、街の雰囲気は依然、とてもリラックスしている。あくせく働いてヘトヘト、みたいな人を私はあまり知らない。金曜日は、皆午後になると飲み始めているし、残業している人もそれほどいない(LOCAL Public Eateryというレストランの看板には、「世界のどこかは午後5時」と書かれている。つまり、いつでも飲み始めていい、ということだ)。皆、ワークライフバランスや、クオオリティ・オブ・ライフを、とても大切にしている。
でも、それはもちろん、私が持っている特権がなせることだ。バンクーバーにももちろん、あくせく働いてヘトヘトの人はいるのだろうし、残業続きでメンタルに影響が出ている人もいるだろう。私は結局、私が見ることが出来る範囲のものしか見ておらず、見たいものしか見ずに済む環境にいる
(p105-106)
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→カナダと日本の国民性や社会性の違いについて書かれている箇所ですが、読んでいるとカナダのほうがまっとうで人間らしい生活なのではないか、と思えてきます。くわえて、日本社会は人よりも枠組み優先の性質であることが、際立って感じられてきます。とはいえ、これ以前の部分に書かれている、著者が病院にかかるようになったときの場面では、病院にかかるまでの大変さ、手続きのゆるさがおよそそのままの形で綴られていますし、このしばらく後の部分では、カナダでは病院でなかなか診察を受けられない事態になってくるのです。そういったものと生きやすそうに見えるこれらは、地続きであることを忘れてはいけないですよね。
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オーシャン・ヴオン『地上で僕らはつかの間きらめく』の引用箇所より
僕たちは命を保持しようとする――もう体が持ちこたえそうにないと分かっているときも。僕たちはそれに食事を与え、体勢を楽にし、体を洗い、薬を飲ませ、背中をさすり、時には歌を聴かせる。僕たちがそういう基本的な部分で世話するのは、勇気があるからでも献身的だからでもなく、それが呼吸のように、人類の根幹にある行動だからだ。時がそれを見捨てるまで、体を支えること。(p127)
__________
→これは、自分で自分の体をケアする「自助」の行為としてでも読めますが、でもまずは家族や他人をケアしたり介護したりする行為について述べていることだと読めるでしょう。たとえば日本では、苦しい生活のなかでのどうしようもない口減らしのため、「姥捨て伝説」があったり、ヨーロッパでは小さな子どもを間引きしてきた残酷で悲しい営みが童話のなかに織り込まれていたりするといいます。それらは人間の営みの歴史という大きな布生地のほんの隅っこにできた黒い染みである小さな点のようなものではないかと思うのですが、昨今の欲望重視である世の中の空気としては、ともすると、この染みの部分こそが本物だと、倒錯した価値観が大声で語られやすくなっているような気がします。人間が軽んじられる、というように。この引用の文章は、そこを元に返してくれているような思いをもって読むことができます。
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バンクーバーにいる人たちは、皆とても体が強い。専門家にすぐにアクセス出来ない状況や、救急で何時間も待たされる経験から、彼らは一様に体をメンテナンスすることに重きを置いている。とは言っても、食べ物に気をつけているというよりは(もちろん、ものすごく気を遣っている人もいるが)、エクササイズや運動に力を入れている人が多いように思う。
やはり野菜の全くないピザにかぶりついている人や、それ何色? みたいな色のジュースをガブガブ飲んでいるカナダ人が屈強で健康でいるのを見ると、自分達アジア人の健気さに泣けてくる。出汁から取った味噌汁や、野菜をたっぷり使った料理を食べても、私は簡単にダウンした。(p148)
__________
→日本人が固く信じている「正解」が、どうもそれほど確かなものではないことに気付かされる箇所です。個人差はあるだろうし、人種差もあるかもしれない。さらに言えば、ある病気が発症するかしないかは、確率的なものもあるかもしれない。また、医療行為を受けないほうが長生きする、という逆説的事実も最近では「夕張パラドックス」として知られてもいますから、カナダ人が日本人ほど医療行為を受けないことで、健康の強さを保てている可能性もあるかもしれません(そうはいっても、カナダ人の平均寿命についてはわからないので、大きなことは言えないですが)。それでも、運動はよさそうだ、ということには気づけます。
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情は意志を持って、そして尊厳のために獲得するものではなく、気がつけば身についているものだ。目の前に困っている人がいれば、愛を持って立ち上がる前に、なんかもうどうしようもなく(あるいは渋々)手を伸ばしてしまっている。もしかしたら本人は面倒だ、嫌だと思ってしまっているかもしれない。もしかしたら自分の方が困った状況にあるのかもしれない。自分の居場所を譲るのは、本当は死活問題で、でも、もうそこにいる困った人を、どうしても、どうしても放っておけないのだ。
愛がいつも良き心、美しい精神からきているのに対して、情は必ずしも良き心や美しい精神からきているとは限らない。だから情は、それによって状況をさらに悪化させたり、時に人間を醜く見せたりもする。情に流されて悪事に手を染めたり、絶対に許すべきではない人を許してしまったりする。絶対に分かり合えない、顔を見たくないと思っている誰かの悲しげな背中を見た時にホロリとしてしまうのは情なのではないか。明らかな悪縁だと分かっていても断ち切れず、また手を伸ばしてしまうのは、情なのではないか。自分の手も傷だらけ、血だらけ、泥だらけだというのに。日本人の手は、情でしっとりと濡れている。そしてその湿度は、時に素晴らしい芸術へと昇華される。(p209-210)
__________
→前段に愛についての考察が述べられ、続くかたちで情についてこう述べられていました。在宅介護をしているとよくわかるところです。在宅介護中の僕はどうやら情で介護をしている。僕の場合はさらに「明らかな悪縁だと分かっていても断ち切れず、また手を伸ばしてしまう」のもけっこうあって、これはいけないなあと思うのですが、なかなか性格的に修正の難しいところでもあり、自虐的に「お人好し」と言葉を充てていたりもします。また、情が、どうしても手を差し伸べてしまう、というその性質の源のところには、もしかすると「寂しさ」があるのかなあ、という推測が生まれました。日本人の無関心な気質と寂しさとの、その間に情があるのではないかと、想像を巡らせました。
というところです。西さんは寛解を果たし「がんサバイバー」となりましたが、今のところ再発の不安からは自由になれないそうです。何かを背負うというか、ある意味で無条件の人生の自由という好天の下にいたのに小さくはない暗い雲も出始めたなかで生きていくことになったというか、読んでいると、もちろん僕も自分自身を顧みつつ読むのですが、こういった境遇に突入する人たちって一定数いるわけで、なってみるまでは「自分には関係がないことだ」と思いがちだけれども、やっぱりある種の確率でそうなるものである、というように腹が据わってくる感覚があります。
運がいいとか悪いとか、そういった次元で語られているうちは薄っぺらい人生なのだと思います。人生とはもっと、こう、何が起こるかわからないことが前提とされていて、起こったことに一喜一憂したっていいんだろうけど、できれば感情はもっと強くあるべきだと要求されるものだし、ときに感情を排して行動するべきだと要求されもする。真剣勝負で渡っていかねばならない時期や瞬間ってあるのだし、そういった経験ののちに持てた価値観が、それまでの価値観よりもずっと自らの信条としての揺るぎなさをもたらしてくれたり、ちゃんと世界に対しても通用するようなものだったりする。
本書は、なによりも著者・西加奈子さんが、真っすぐな言葉で病気と生の局面について伝えてくれました。読んでいていろいろと考えさせてくれましたし、やっぱりその姿勢を文章を通して眺めることが出来たのがいちばん大きかったんじゃないか。本書の中で、がんを患った人には、先輩がんサバイバーが寄り添ったりアドバイスをくれたりしていました。そこは本書自体が、そういった役割を果たせるところはありそうですし、もっと広い意味で、困難にある人や、これから困難に出合うかもしれない人に伝える、ひとつの在り方を読むことができる。多くの引用もあり、それらが援用的だったり、またちょっと違った角度からの視点を与えてくれていたりしました。そういったまるごとを受け止めて、できるだけのぶんを消化して、明日につながっていくようなスピリットが人によって差はありながらも醸成される。そういった力があるような一冊だと、僕は思いました。