「人生には意味がある」と、いつしか考えている自分がいた。
私の場合、「好奇心を持って、いろいろな知識を得て、学び、考え、どんどん積み重ねていくこと」が人生の意味にあたる。それは人生の終わりまで続いていく、揺るぎない自明の種類のものだと考えていたので、ちょっと立ち止まって疑いを挟んでみるなんていうことは、試みようと思ったことすらなかった。だが、その「ちょっと立ち止まって疑いを挟んでみる」瞬間が昨夜、唐突に訪れたのだ。
「あれ? ちょっと待てよ、これってもしかすると」胸がざわめき、穏やかだった心の水面に薄い波紋が漂いだし、そのうち少し不穏に波立ってくる。「老境に達した作家が、自死してしまうことがある。これっていったい、どんな理由があったからなのだろう?」
脳裏に浮かんでいるのは、文豪・川端康成の自死について。
私は、川端康成先生の自死の理由を知らない。遺書が残されていたのか、近しい人に愚痴をこぼし始めていたのか、まったくなにも知らない状態で、「彼の自死」という事実のみと思いがけず向かい合ったのだ。
自分の人生に意味がなくなったから、死のうか、と決めてしまうことはあると思う。もしも死ぬ勇気が十分に湧いてこなくて死ねなかったとしても、人生の意味の無さに強烈にとらわれてしまったならば、自暴自棄になり堕落したふるまいを重ねていくかもしれない。川端康成は、前進・進歩という「人生の意味」を考えていたのではないのだろうか(世間体とかプライドとか、他にもあるでしょうが、そういった種類のものを省いた「ごく単純な想定」であることはわかっています)。
もしかすると、昨今の研究によって、彼の死にはいくつかの有力な仮説が立っているのかもしれない。でも、私は無知で、そして調べてみようとも思わない。だが、これは何かに繋がることだと予感し、自分で仮説を立ててみることにしたのだった。
* * *
老化が始まって、目や耳が弱くなったり、あらたに物事を切り拓いていけるような考えが進んでいかなくなったりしたとき、ちゃんとそういった自分のそれからの人生を肯定できるのか、と考えてみた。文筆業だったら、年齢的にピークを過ぎれば、書く文章の勢いがなくなり書くもののレベルが下がっていくことは考えられる。
人生を、「前進」「進歩」を柱として生きていたとしたら、その柱は必ず崩れ去る。だから、進歩すること、そして積み重ねていくことに「人生の意味」を持ってしまうと、危うい。
とくに子孫を残さなかった人は、自身が老いていって、それまでできていたことができなくなっていくときに、「人生の意味がなくなった」と感じてしまいやすいのではないか。そんな下り坂にさしかかったときに、息子、娘、はたまた孫がいたなら、彼らが進歩するさまを見守ることで、自分が次の世代を残したことに意味を感じて、精神が安定するのではないか。子孫の存在は、セーフティー・ネットたりうるように思う。
人生の意味、というものを設定しないほうがいい。そもそも、人生の意味、は幻想なのだ。人生は、「やれるうちはやったらいい」、というだけではないだろうか。命を懸けて仕事をする人、しなくちゃいけない人は、「人生は厳しいんだ」とはっきり言い切るけれど、成熟した社会においては基本的に、そんなに簡単に命なんか懸けるものじゃないんだと思う。人生において無理をする場合も、「やれるうちはやったっていい」、というだけだ。
人生の送り方に正解は存在しない。だから、ここまでいろいろと論じておきながら、これから述べる結論としての一言はとてもシンプルなところに行き着いてしまっており自分でも驚いてしまうのだけど、つまりは、ルールにのっとった上で(つまり、盗みや殺人などはしないという前提で)好きにするべきなのだ。「やれるうちは、やったらいい、というだけなのが人生」なのだし、そうであるのだったら、人生は好きにするべきなのだ。
ルール無用の行為だとかグレーゾーン内のズルい行為だとかで、他者を出し抜こう、自分だけ良い目を見よう、とはしない範囲で、人生って好きにするべきなんだ、それこそが善く生きることなんじゃないのだろうか、と今のところの結論がでた。
「人生には意味がある」と、いつしか考えていた自分は危うい。これはどういうことなのか、と考えられるうちに考えておかなければ、心の水面に生じる波の大きさは次第にもっと高く激しくなり、乱れる時間も長くなっていくのかもしれない。時としてそれは、死を望むようになるほどに。
* * *
ここからはおまけとして、わずかながら付記します。上記の結論で満足した方は、読み進まなくて問題ありません(ここまで読んでくださり、ありがとうございます!)。
* * *
では補足するように、ちょっとだけ続けます。
老人を見て、「存在しているというだけで、それだけでいいものなんだ」という洞察のある人ですら、自身に関しては厳しくて狭い価値観をあてていたりなどし、自分が老人になったときには、もはや生きている意味はない、と捉えてしまったりしないだろうか。価値を生み出せないことに罪悪感を感じるのだ。私なんかの場合だと、若い頃に達成したものや残した価値すらないのだから、なおさらだ。余生、という段になって、いままで頑張って価値を創出してきたのだから、休んでもいいのだろう、とはなりにくい。
人は、歳をとってから罪悪感をもってしまうことのないように、身体が動くころには仕事をする、という意味もあるのだろうか。でも、働けないくらいの障がい者の人たちはどうなるのだ。ベッドで寝たきりで仕事を持てない人も少なくないだろう。そういった人たちの人生に意味はないのだろうか。障がい者も、子孫を残さない人も、前進・進歩に傾いている人も、みんなすべての人が人生を精神的に貧しくしないで全うできる人生観があるといい。そしてそれが、「やれるうちは、やったらいい、というだけなのが人生」、「好きにするべき人生」とはならないだろうか。
私の場合、「好奇心を持って、いろいろな知識を得て、学び、考え、どんどん積み重ねていくこと」が人生の意味にあたる。それは人生の終わりまで続いていく、揺るぎない自明の種類のものだと考えていたので、ちょっと立ち止まって疑いを挟んでみるなんていうことは、試みようと思ったことすらなかった。だが、その「ちょっと立ち止まって疑いを挟んでみる」瞬間が昨夜、唐突に訪れたのだ。
「あれ? ちょっと待てよ、これってもしかすると」胸がざわめき、穏やかだった心の水面に薄い波紋が漂いだし、そのうち少し不穏に波立ってくる。「老境に達した作家が、自死してしまうことがある。これっていったい、どんな理由があったからなのだろう?」
脳裏に浮かんでいるのは、文豪・川端康成の自死について。
私は、川端康成先生の自死の理由を知らない。遺書が残されていたのか、近しい人に愚痴をこぼし始めていたのか、まったくなにも知らない状態で、「彼の自死」という事実のみと思いがけず向かい合ったのだ。
自分の人生に意味がなくなったから、死のうか、と決めてしまうことはあると思う。もしも死ぬ勇気が十分に湧いてこなくて死ねなかったとしても、人生の意味の無さに強烈にとらわれてしまったならば、自暴自棄になり堕落したふるまいを重ねていくかもしれない。川端康成は、前進・進歩という「人生の意味」を考えていたのではないのだろうか(世間体とかプライドとか、他にもあるでしょうが、そういった種類のものを省いた「ごく単純な想定」であることはわかっています)。
もしかすると、昨今の研究によって、彼の死にはいくつかの有力な仮説が立っているのかもしれない。でも、私は無知で、そして調べてみようとも思わない。だが、これは何かに繋がることだと予感し、自分で仮説を立ててみることにしたのだった。
* * *
老化が始まって、目や耳が弱くなったり、あらたに物事を切り拓いていけるような考えが進んでいかなくなったりしたとき、ちゃんとそういった自分のそれからの人生を肯定できるのか、と考えてみた。文筆業だったら、年齢的にピークを過ぎれば、書く文章の勢いがなくなり書くもののレベルが下がっていくことは考えられる。
人生を、「前進」「進歩」を柱として生きていたとしたら、その柱は必ず崩れ去る。だから、進歩すること、そして積み重ねていくことに「人生の意味」を持ってしまうと、危うい。
とくに子孫を残さなかった人は、自身が老いていって、それまでできていたことができなくなっていくときに、「人生の意味がなくなった」と感じてしまいやすいのではないか。そんな下り坂にさしかかったときに、息子、娘、はたまた孫がいたなら、彼らが進歩するさまを見守ることで、自分が次の世代を残したことに意味を感じて、精神が安定するのではないか。子孫の存在は、セーフティー・ネットたりうるように思う。
人生の意味、というものを設定しないほうがいい。そもそも、人生の意味、は幻想なのだ。人生は、「やれるうちはやったらいい」、というだけではないだろうか。命を懸けて仕事をする人、しなくちゃいけない人は、「人生は厳しいんだ」とはっきり言い切るけれど、成熟した社会においては基本的に、そんなに簡単に命なんか懸けるものじゃないんだと思う。人生において無理をする場合も、「やれるうちはやったっていい」、というだけだ。
人生の送り方に正解は存在しない。だから、ここまでいろいろと論じておきながら、これから述べる結論としての一言はとてもシンプルなところに行き着いてしまっており自分でも驚いてしまうのだけど、つまりは、ルールにのっとった上で(つまり、盗みや殺人などはしないという前提で)好きにするべきなのだ。「やれるうちは、やったらいい、というだけなのが人生」なのだし、そうであるのだったら、人生は好きにするべきなのだ。
ルール無用の行為だとかグレーゾーン内のズルい行為だとかで、他者を出し抜こう、自分だけ良い目を見よう、とはしない範囲で、人生って好きにするべきなんだ、それこそが善く生きることなんじゃないのだろうか、と今のところの結論がでた。
「人生には意味がある」と、いつしか考えていた自分は危うい。これはどういうことなのか、と考えられるうちに考えておかなければ、心の水面に生じる波の大きさは次第にもっと高く激しくなり、乱れる時間も長くなっていくのかもしれない。時としてそれは、死を望むようになるほどに。
* * *
ここからはおまけとして、わずかながら付記します。上記の結論で満足した方は、読み進まなくて問題ありません(ここまで読んでくださり、ありがとうございます!)。
* * *
では補足するように、ちょっとだけ続けます。
老人を見て、「存在しているというだけで、それだけでいいものなんだ」という洞察のある人ですら、自身に関しては厳しくて狭い価値観をあてていたりなどし、自分が老人になったときには、もはや生きている意味はない、と捉えてしまったりしないだろうか。価値を生み出せないことに罪悪感を感じるのだ。私なんかの場合だと、若い頃に達成したものや残した価値すらないのだから、なおさらだ。余生、という段になって、いままで頑張って価値を創出してきたのだから、休んでもいいのだろう、とはなりにくい。
人は、歳をとってから罪悪感をもってしまうことのないように、身体が動くころには仕事をする、という意味もあるのだろうか。でも、働けないくらいの障がい者の人たちはどうなるのだ。ベッドで寝たきりで仕事を持てない人も少なくないだろう。そういった人たちの人生に意味はないのだろうか。障がい者も、子孫を残さない人も、前進・進歩に傾いている人も、みんなすべての人が人生を精神的に貧しくしないで全うできる人生観があるといい。そしてそれが、「やれるうちは、やったらいい、というだけなのが人生」、「好きにするべき人生」とはならないだろうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます