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『マダム・エドワルダ / 目玉の話』

2021-10-08 01:08:04 | 読書。
読書。
『マダム・エドワルダ / 目玉の話』 バタイユ 中条省平 訳
を読んだ。

20世紀前半から中ごろに活躍したフランスの作家・バタイユの代表小説二作品の新訳版です。どちらも性描写が多く、内容としても中心に性がある作品で、とくに『目玉の話』においては、ある種の極まで到達した性の感覚を扱っていて強烈な読書体験になる作品でした。分量は短いのですが、読んでは考えまた読んでは考えしながら、少しずつ嘴でつつくような読み方をして自分なりに消化してみた次第です(全消化とまではいってないでしょうけれども)。

まず『マダム・エドワルダ』。娼婦との一夜の話です。娼館からも抜けだしてパリの街中にさまよい出て、快楽と危険の線上を行く物語は続いていく。暗い色味で写実的、でも幻想性を帯びた、エロスがテーマの絵画を何枚も何枚も続けざまに眺めているような読書体験でした。アート作品と呼んだほうがしっくりくるような文学作品だと思います。

そして『目玉の話』。これは厄介です。性欲にまかせた変態行為を重ねる思春期の男女の話なのですが、その精神性には妙なくらいリアリズムを感じます。思春期の、「そのあとどうなるか?」よりも今やってしまいたい衝動の強烈さがまずひとつそこにはあります。序盤の段階で、それが退廃的ではあってもニヒリズムではないのは、まだ若い人たちによる「追求の姿勢」があるからだと思います。もしも社会性が身についてまでこのような性の変態行為の追及を行っている大人がいたら、それは社会へのニヒリズムになるのではないでしょうか(しかし、後半ではエドモンド卿という大人の変態人物もでてきて、彼はニヒリズムとはまた違う印象を持っているのでした)。

物語のタイトルになっている目玉やゆで玉子などの楕円性のたんぱく質でできた白い物体をシモーヌが好み、性的な遊戯に使いたがるのですが、このモチーフについては本書の解説に譲るとして、この記事では物語の中で繰り返される性的遊戯の変態行為について考えていきます。

社会性が身につくより先に興味と性欲の底知れぬ高まりを見せるのがたぶん男であり、女でもあるでしょう。その性欲を肯定することで暴走が始まり、そのうちそれが追求の様相も帯びてくる。その変態行為が社会的な規範から逸脱しているものでも、思春期のアンバランスさのなかで、何かの間違いだったり、あるいは何かが噛み合ってしまったりすると(ヒロイン・シモーヌような女の子と仲良くなるという偶然がこの場合そう)、一般の人間であっても主人公たちのようなことにならないとも限らないのかもしれません。

後半部。シモーヌのつてで主人公たちの庇護者として登場するエドモンド卿がでてくるあたりで気付くのは、いつのまにか主人公とシモーヌはかなりの遠い場所まで来てしまっていること。性欲の暴走と追及しか視界になかったので、踏み越えるべきではない一線を越えたことにも気付かなかった、という感じがします(それは読み手も同じかもしれません)。仲間のマルセルが死ぬことになった経緯に大きく自分たちの性向が関係していることに気づくのも、すべて終わってからです。「そのあとどうなるか?」よりも今の衝動を優先して、そうなってしまった。

人生には似たような「一線の越え方」は珍しいものではないと思いますが、その些細ではない大きなひとつが、こうして地上の性的狂騒の「水面下」で越えられていった。考えているより先に、知らず時間が過ぎ去っていくように一線を越えるという感覚です。そしてエドモンド卿というキャラクターは、主人公たちのようにいつしか一線を越え、自分の意思で追求したものに逆にとりこまれてしまったかのような人格形成の道を歩んで、結果その完成をみた人物ではないのか、と読むこともできます。角度を変えてみると、エドモンド卿は退廃的な領域にいる人物ですが、思春期の主人公たちがこのままその道を進んでいくとそうなってしまうはずの人物というポジションと言えるかもしれないです。

本能に忠実に、野生の感覚を第一とするような(それも性欲に対して)在り方が、この物語のベクトルとしてあるように読めます。伝統や常識、世間の目といった既存の社会、その、強固に構築されているがゆえの窮屈さ息苦しさ生きにくさから逃れるための脱線のかたちがこの小説で描かれている性的な変態遊戯という脱線の仕方だと言えるかもしれない。ストレートではない逃避であり、ストレートではない抵抗でもある。それでいてひとつのストレートな地下道あるいは裏道というような感じがします。しかし、終盤、スペインの教会で、若い司祭を性的な冒涜のあげく死に至らしめる流れにまで発展すると、もはやそれは地下道や裏道から這い出て「対決」を始めてしまったことになっていると捉えることができます。

ここで描かれているのは強烈な性欲が中心に回っている物語なのだけれど、著者も読み手もそこでの何に魅せられているのかというと、強い衝動を生み、自動的とでも言うように動かされてしまう、その根源的なエネルギーになのではないか。伝統や制度などが代表的なところですが、そういった抑圧的なものを忌み嫌うからこそ、こういった物語が生まれたのではないか。その時代を下支えしている秩序の重さに耐えかねたのです。

窮屈さや息苦しさなどを先ほど挙げましたが、さらに言えば、それらよりもずっと「つまらなさ」というものを嫌悪すべきものとしてあっただろうし、エネルギーの消耗というか、「(古い伝統や古い制度などの抑圧によって)発揮されずに打ち捨てられる運命におかれるエネルギー」という個人の内に湧き出るエネルギーのその立場に我慢がならなかったのかもしれない。それは、生は大切なものなんだ、との世界観が基盤にあるからだと思います。

というように、性的な変態行為にだって、「生をちゃんとまっとうしたい」「一回だけの生を味わいつくしたい」というような比較的真っ当な気持ちがその底にあるのではないか、というところに落ち着くのでした。

最後の項までいくと、バタイユ自身の幼少時の個人的な体験の反映があるのではないか、と自己分析が語られていて、それはそれでそうかもしれない、と少しすっきりするのです。しかしながら、僕のような角度で解析してみるのも面白いと思い、あえてこうして記事にしてみました。多少、陳腐な部分もあるでしょうが、大目にみてください。


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