読書。
『ガリレオ ――はじめて「宇宙」を見た男』 ジャン=ピエール・モーリ 田中一郎 監修 遠藤ゆかり 訳
を読んだ。
ガリレオの人物像とその時代を、カラー図画などをふんだんに使いながらコンパクトに伝える本でした。
キリスト教カトリック派の力が強大だった中世ヨーロッパ、聖書と齟齬をきたさないプトレマイオス説(天動説・地球が宇宙の中心で太陽をはじめ他の星はすべて地球の周りをまわっているとする説)と、異端視されるコペルニクス説(地動説・現在の太陽系観である、太陽が中心で地球もその周りをまわる星であるという説)が、どちらが正しいとも決着を見ていない時代にコペルニクス説を確信しつつ、実際に当時オランダで発明された望遠鏡の風聞を聴いて自ら光学を勉強しながら作製し、性能をアップさせたものへと改良していき、宇宙をはじめて肉眼以外で観測した人がイタリア人のガリレオ・ガリレイでした。
その観測によって、コペルニクス説の正しさを証明する明確な証拠をガリレオがつかんでいきます。木星に4つの衛星があること、金星の満ち欠けについてのことなどの観測からガリレオは考察を深めていったのでした。
しかしながら、妬みや嫉妬を持ったり、聖書に反するものの見方だとして旧来の秩序を守ろうと敵視してくる人たちがいます。それはイエズス会の神学者たちであったり、学者たちであったりしますが、その批判の内容は幼稚な言いがかりレベル(今で言えば、SNSの「クソリプ」のようなものかもしれません)のものだったりもして、ガリレオははじめこそひとつひとつ反論して打ち破っていったようではあります。
ここでちょっと、思ったことを書かせていただきますが、新しい思想というものは危険視されやすいものです。たとえばイエス・キリスト。彼は当時としてはまったく新しい思想を広めて同胞を増やしていき、それを危険視したユダヤ人の罠で裁判にかけられました。時代は下って中世ヨーロッパ。ガリレオは当時まだ主流のアリストテレスの科学を批判し地動説を支持し、キリスト教カトリックによる裁判にかけられました。キリストがかけられた罠を、その信者たちが、かつてのユダヤ人たちがキリストに対してしたのと同じように「新しい思想の排除」のため、ガリレオにかけた。皮肉が効いているというか、ミイラ取りもミイラになるというか、やっぱり内省や自己批判などが大切なのではないだろうか、と思うなどしました。
そうなんですよね、有名な話ですがガリレオは最後には異端裁判にかけられて、アリストテレス科学を暗に批判した書物などは禁書とされ、自らの信念ともいうべき地動説も捨てさせられます。ガリレオが異端裁判にかけられる一昔前には、ブルーノという人物がやはり地動説を支持したことを罪とされて火刑に処されています。ガリレオが禁固刑と、その後の監視処分で済んだのは(それでも厳しい処分ですが)、僕がこの本から感じ取るに、その対人関係の誠実さと柔らかさにあるような気がします。あからさまな敵への反論でも、感情的な文面で返していません。相手に対して、丁寧に説明し、責め立てて追いつめたりもしていません。そういった人間的な性質が、「ガリレオだから、火刑はきつすぎるか」とためらわせたのかもしれない。また、科学に明るい枢機卿や貴族との強いつながりを持っていたので、そういった処世的な柔らかさが自らの命を救ったのかもしれない、とも考えられると思います。
ガリレオって、愚直で、一歩一歩確実に歩いていくタイプだったぽく感じられるんです。だけれど、その歩みは日々続けられ、重い一歩が着実に積み重ねられて、常人との大きな差となっていったような感じがしました。天才的な飛躍だとか、軽妙なひらめきだとかはあまり感じられないほうですね。ただ、偏見や既成概念に捕らわれない人だとは言えそうです。なんていうか、ちゃんと世間の中にいる科学者です。象牙の塔で自分だけ最先端へ行っちゃうタイプではなさそうです。
最後にひとつ、引用を。
__________
コロンベが味方にしようとしたのは、まったく別の種類の人間、つまり無学で、口汚く、攻撃的で、「信仰の番犬」を自称する人びとだった。(p77)
__________
→コロンベという人物は、なんとしてでもガリレオをやっつけようと、仲間を集めてガリレオを非難する小冊子をつくってばらまいたりしています。しかし、取るに足らない内容で、ガリレオと彼の協力者たちは笑い飛ばしたと本書にあります。コロンベのような、ただ、当時の人びとに内面化されていた旧来の秩序を頑として守りたいだけで、新しい思想や発見を吟味する知性もない人がやるのが、上記引用のような仲間集めなのでした。これは現代にも通じている行動様式ではないでしょうか。怖いのは、そういった力が、終いにはガリレオを異端裁判へと向かわせていることです。コロンベのような困った人たちであっても、どうにかして説得するなどして包摂しないといけないのだろうか、と考えてしまうところでした。
『ガリレオ ――はじめて「宇宙」を見た男』 ジャン=ピエール・モーリ 田中一郎 監修 遠藤ゆかり 訳
を読んだ。
ガリレオの人物像とその時代を、カラー図画などをふんだんに使いながらコンパクトに伝える本でした。
キリスト教カトリック派の力が強大だった中世ヨーロッパ、聖書と齟齬をきたさないプトレマイオス説(天動説・地球が宇宙の中心で太陽をはじめ他の星はすべて地球の周りをまわっているとする説)と、異端視されるコペルニクス説(地動説・現在の太陽系観である、太陽が中心で地球もその周りをまわる星であるという説)が、どちらが正しいとも決着を見ていない時代にコペルニクス説を確信しつつ、実際に当時オランダで発明された望遠鏡の風聞を聴いて自ら光学を勉強しながら作製し、性能をアップさせたものへと改良していき、宇宙をはじめて肉眼以外で観測した人がイタリア人のガリレオ・ガリレイでした。
その観測によって、コペルニクス説の正しさを証明する明確な証拠をガリレオがつかんでいきます。木星に4つの衛星があること、金星の満ち欠けについてのことなどの観測からガリレオは考察を深めていったのでした。
しかしながら、妬みや嫉妬を持ったり、聖書に反するものの見方だとして旧来の秩序を守ろうと敵視してくる人たちがいます。それはイエズス会の神学者たちであったり、学者たちであったりしますが、その批判の内容は幼稚な言いがかりレベル(今で言えば、SNSの「クソリプ」のようなものかもしれません)のものだったりもして、ガリレオははじめこそひとつひとつ反論して打ち破っていったようではあります。
ここでちょっと、思ったことを書かせていただきますが、新しい思想というものは危険視されやすいものです。たとえばイエス・キリスト。彼は当時としてはまったく新しい思想を広めて同胞を増やしていき、それを危険視したユダヤ人の罠で裁判にかけられました。時代は下って中世ヨーロッパ。ガリレオは当時まだ主流のアリストテレスの科学を批判し地動説を支持し、キリスト教カトリックによる裁判にかけられました。キリストがかけられた罠を、その信者たちが、かつてのユダヤ人たちがキリストに対してしたのと同じように「新しい思想の排除」のため、ガリレオにかけた。皮肉が効いているというか、ミイラ取りもミイラになるというか、やっぱり内省や自己批判などが大切なのではないだろうか、と思うなどしました。
そうなんですよね、有名な話ですがガリレオは最後には異端裁判にかけられて、アリストテレス科学を暗に批判した書物などは禁書とされ、自らの信念ともいうべき地動説も捨てさせられます。ガリレオが異端裁判にかけられる一昔前には、ブルーノという人物がやはり地動説を支持したことを罪とされて火刑に処されています。ガリレオが禁固刑と、その後の監視処分で済んだのは(それでも厳しい処分ですが)、僕がこの本から感じ取るに、その対人関係の誠実さと柔らかさにあるような気がします。あからさまな敵への反論でも、感情的な文面で返していません。相手に対して、丁寧に説明し、責め立てて追いつめたりもしていません。そういった人間的な性質が、「ガリレオだから、火刑はきつすぎるか」とためらわせたのかもしれない。また、科学に明るい枢機卿や貴族との強いつながりを持っていたので、そういった処世的な柔らかさが自らの命を救ったのかもしれない、とも考えられると思います。
ガリレオって、愚直で、一歩一歩確実に歩いていくタイプだったぽく感じられるんです。だけれど、その歩みは日々続けられ、重い一歩が着実に積み重ねられて、常人との大きな差となっていったような感じがしました。天才的な飛躍だとか、軽妙なひらめきだとかはあまり感じられないほうですね。ただ、偏見や既成概念に捕らわれない人だとは言えそうです。なんていうか、ちゃんと世間の中にいる科学者です。象牙の塔で自分だけ最先端へ行っちゃうタイプではなさそうです。
最後にひとつ、引用を。
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コロンベが味方にしようとしたのは、まったく別の種類の人間、つまり無学で、口汚く、攻撃的で、「信仰の番犬」を自称する人びとだった。(p77)
__________
→コロンベという人物は、なんとしてでもガリレオをやっつけようと、仲間を集めてガリレオを非難する小冊子をつくってばらまいたりしています。しかし、取るに足らない内容で、ガリレオと彼の協力者たちは笑い飛ばしたと本書にあります。コロンベのような、ただ、当時の人びとに内面化されていた旧来の秩序を頑として守りたいだけで、新しい思想や発見を吟味する知性もない人がやるのが、上記引用のような仲間集めなのでした。これは現代にも通じている行動様式ではないでしょうか。怖いのは、そういった力が、終いにはガリレオを異端裁判へと向かわせていることです。コロンベのような困った人たちであっても、どうにかして説得するなどして包摂しないといけないのだろうか、と考えてしまうところでした。
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