古河蒼太郎が死んだことを、岡島賢人は悲しんだ。あまりに突然だった彼の死の報せは、賢人に大きな途惑いを覚えさせ、やがてあるひとつの考え事に深く沈み込ませていった。
*
息を吸うと鼻の穴の中が凍てついてくる。それは、それほど寒さの冴え渡った夜半近くだった。横断歩道を渡りはじめてすぐだったらしい。歩行者である蒼太郎を確認せずに左折してきた乗用車に彼は轢かれたのだ。横断歩道は無人のはずだ、とそれが当たり前だというように決めつけたドライバーは一時停止をせず、アクセルを踏み込みつつハンドルを切った。ぶつけられた衝撃はかなりの大きさで、ダウンコートのポケットに両手をつっこんでいた蒼太郎は、そのまま勢いよく突き飛ばされ、丸太のようにごろごろと激しく地面を転がった。目撃証言によれば、とくに転倒したその最初の瞬間に頭をひどく打ちつけていた。真冬の二月頭とはいえ、撒布された融雪剤の効果のために、路面は剥き出しのアスファルトである。路面を厚く覆うほど雪の降り積もるような夜であったならば、また結末は違っていたのかもしれない。
意識不明で運ばれた病院で、蒼太郎は翌日の夜明けの頃にはもう息を引き取った。回復の兆しは少しも見られなかったということだった。享年三十七歳。賢人らと同年の、彼が生きる時間の流れは、そうやって断ち切られたのだった。
賢人はその日の昼休みに、宮家咲からの電話でこの訃報を知らされた。三人は、新型コロナウイルスが季節性インフルエンザと同じ「5類」に引き下げられたころ、結局は流れた同窓会の誘いをきっかけに連絡を取り合うようになり、再会も果たし、それから不定期に集まるようになっていた。
賢人たち三人は十代の頃、かぐわしかったり酸っぱかったり甘ったるかったりじっとりしていたり眩しかったりしたいくつもの雑多な時間、そしてそれでいて派手さのあまり感じられなかった時間を共に過ごした仲だった。そんな過ぎ去っていった、代わりとなるもののない時間を想い出として共に携えている、なつかしい高校時代の友人たちだった。
大きなショックを受けた賢人は、西区にある、店長として取り仕切っている道内大手小売チェーン店の、狭い休憩室の壁際に設えられている長机の奥のほうに腰掛けて、自店のから揚げ弁当をほおばっていたところだったのだが、咲からの電話連絡を受け終えた後、食べ直そうと持ち上げた箸の震えが止まらなくなり、震えた指のままで箸を置き、両手をふとももの上に置くと、パイプ椅子の背もたれに深く沈み込み、顎を引いて目を閉じた。左目のまぶたが、ぴくぴくと細かくけいれんしだしている。
なんでまた、と賢人は蒼太郎が死んだというそのわけのわからなさに混乱する。鼓動が速く強く体の内側で響く。しかしそのうち、死んでしまったのか、と蒼太郎の急逝を現実の出来事として、諦めとして、飲み込めるようになる。そうして、賢人は悲しんだ。ひんやり湿った悲しみの膜の中に全身が包み込まれるようにして。
それから二ヵ月近くが経った土曜日の午後早く、賢人は琴似駅から真駒内方面へ向かう南北線に乗っていた。車内はそれほど混んでいない。車両内側面のシートに座ることができた。
咲は南平岸駅近くのアパートで一人暮らしをしている。蒼太郎と同棲する話がでていた矢先の事故だった、と賢人はあの日以来、何度か電話で話したなかで咲にそう聞いていた。引き払う予定が白紙のものへと変わった住み慣れたアパートの一室から小声で話す咲の電話越しの声。それは涙でくぐもることが多く、たびたび嗚咽に乱れもした。
お互いが相手と別れたばかりだった蒼太郎と咲は、再会の日以来、まるで自然法則に逆らいでもしているかのように、不自然に見えるほどの力強さでお互いがお互いを強引に求めあい、あっという間に結びついた。あまりのスピードに、賢人はあっけにとられ呆然とした。いきなり置いてきぼりを食ってしまったその疎外感に、しばらく嫌な思いすらしていたくらいだ。
もうどうしていいのかわからないくらい、悲しい。咲は電話で何度も賢人にそう訴えた。咲が蒼太郎の弟から四十九日法要の日取りの連絡を受け、そして出席を終えた夜に、賢人は、次の週末にいちど会って話をしないか、と持ちかけたのだった。
地下を走っていた南北線の車窓の暗闇が一気に地上の風景へと開かれる。賢人の気持ちも、内向きなものから外界に対するものへと、車窓の劇的な変化がもたらす強制的な力によって、あっという間に切り換わる。降りないと。席を立つ。
駅の出口はすぐに車道に面した歩道だった。今年の雪解けはもう終わりに近い。風は強くて路面は埃っぽかった。空は一面、薄灰色の雲で満ちていて、風がびゅううう、と鳴っている。どこからか舞いあがった白いレジ袋が一枚、そんな空の高いところを転がるように滑っていった。
賢人は咲のアパートを目指し、地図アプリを確認しながら歩いていく。なにも持ちあわせていないことに気づき、途中でコンビニに立ち寄って洋菓子をいくつか買った。そういった時間も合わせて十五分ほどで、咲のアパートに着いた。葬儀以来に見る彼女の顔ははっきりと青白くて、すこしやつれたようだ、と賢人は思った。それでも咲は、賢人を見ると、化粧の薄い顔にいつもの自然な微笑みを浮かべ、今日はありがとう、どうぞ入って、と言った。
あまり物の置かれていない静かな印象の部屋だった。黒味のグラデーションがかかったタイルカーペットがまず目を引く。壁際に置かれた背の低い横長の本棚は、眺める側へと角度がついていて並んだ本が見やすい。本棚の上の壁には紺地に幾何学模様があしらわれた小さなタペストリーがひとつ掛かっている。その向かいの窓には淡い暖色のカーテンがふんわりとまとめられていた。
「わたしの時間は、どうやら止まってしまったみたい」
呟くようにそう言いながら、キッチンから湯気立つコーヒーのカップをふたつ手にして運んできた咲はモノトーンのセーターと明るめのブルージーンズという格好だ。全体的に丸みがかったアクリルテーブルの脇にある、ダークブルーの平らなクッションの上に座るとわずかに俯く。賢人は勧められた灰色のソファに腰掛けている。賢人の斜め右側に咲がいる。賢人は、咲が深い悲しみの奥底にいることを悲しく思った。
「思いつめないで。これはほんとうに、どうしようもないことだったんだからさ」
その言葉が継がれることはなく、すぐに二人の間の空間は、しん、と静まった。沈黙がむず痒く賢人の耳の奥に響いている。お互いのカップはテーブルに置かれたまま手を付けられず、湯気だけがたゆたう。同じくテーブルに置かれたコンビニ洋菓子の、熊をあしらったイラストの入ったかわいらしい容器も、乾いたのっぺりとした絵面として目に映るだけだった。咲は小さくため息を吐くと、俯いたまま、小さな声で話し始めた。
「覚えているかな。私たちが知り合ったときのこと。なんだか最近、よく思い出すんだ。賢人と蒼太郎はクラスメイトだったけれど、私は違った。高校の三年間、一度もあなたたちのどちらとも同じクラスにはならなかった。だけど、放課後によく、同じ時間に、図書室にいたのよね。私は本が好きで、あなたもそうで、蒼太郎もそうだった。そのうち、なんとなく顔を合わせているうちに、蒼太郎が話しかけてきたのよ。そこから、友達同士のあなたたちに、私が加わることになったんだよね。変な言い方かもしれないけれど、それってとっても、必然だったような気がしたの。そのときだけそういう気がしたんじゃなくて、今振り返ってみても必然でしかないめぐり合わせだったって思う」
そうだね、俺たちの出会いは必然だったんだと俺も思うよ、俺もよく覚えている、と賢人は同意した。
「毎日、図書館で顔を合わせて、それから近くの公園だとか、マックだとかに行って、やっぱり本の話はよくしてた。みんな、読んだ本の内容を教えたがったものね。今日は蒼太郎が語り、次の日は賢人が語り、その次は私が語り、っていうように」
賢人の脳裏にもあの日々が小さな光となってきらめいた。当時、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の上下巻を文庫本で読んだことで、感情面や世界観が急激に変化を始め、そのまま丸ごと脱皮まで果たしたかのような感動を味わったものだった。二人に伝える言葉をもどかしく探りながら、つっかえつっかえになりつつ、気持ちばかりが先走りながら単語ばかりの力説をしたことを恥ずかしさとともに思い出した。咲は『ノルウェイの森』をすでに読み終えていて、村上春樹ってちょっと他とは違うよね、とそんな賢人に共感を示してくれたのだった。
「あの日々は、俺もはっきり覚えている。三人だけで完全だったっていうかさ。ほんとうに楽しかった。あの時期に世界は、俺たちみたいな三人なんかのために、不思議と特別な時間をつつましく用意してくれたんじゃないかって、思いあがったことを考えてしまうくらいだよ。無事、大人になったあと、その基盤としてあの日々は今もある、と言いたいくらいだしね」
賢人を見つめる咲の目が赤いことに、彼は気づいた。
「蒼太郎が亡くなって、あの日々はもう壊れてしまったわ」
「いや、現在の力があの日々にまで及ぶなんてことはないんじゃない? あの日々はあの日々で、もう完結しているんだから。ずっと大切にしていくべき想い出の日々だろ」
「いいえ、違うわ。あの日々の意味は、もはや変わってしまったのよ。悲しみのための日々というべきものに変わり果てたんだよ。楽しかったはずの想い出は、悲しみっていう結末に向かって転げ落ちていくためのつらい想い出に変わってしまったの。楽しかった分、悲しみは深くなる」
涙がひと粒、咲の左頬をつうっと伝い落ちた。ピアノの鍵盤をひとつ指で押したなら必ずポンと音が鳴るように、しかるべき当然の現象としてというような、なんら違和感を生じさせることのない涙の粒だった。
「そんなふうに考えちゃいけない」
賢人は窓の外に視線を移す。先ほどと何も変わり映えのしない曇り空と、ここと同じようなアパートがいくつも立ち並ぶ住宅地がある。景色の奥のほうに見える道を歩く人は誰もいない。猫一匹、どこにも佇んでさえいない様子だった。
「あのね、武器商人の裕福な家で育った男の子の話、していい? 聞いてもらえたら、私の心境がよくわかると思う」
賢人は咲に視線を戻し、出し抜けになんだろうと思ったが、口を開くことなく、うん、と発声だけで返事をする。咲の目はまだ赤いままだったが、眉間に薄くよっていた縦皺は消えていた。
「ある国に武器商人の夫婦がいたの。彼らはその頃起こった大きな戦争のおかげで、親から受け継いだ銃や弾薬の製造工場が大繁盛してとてもお金持ちになった。一生、なんの不自由もない贅沢な暮らしを送ってもお釣りが山ほど貰えるくらいにね。そして、子どもを作った。生まれた赤ちゃんは健康な男の子だった。召使いや女中たちにちやほやされて育った男の子は、そのうち学校に通いだす年頃になる。そこでも、教師からえこひいきされて、友達連中からも気を使われて過ごすの。自分の家はなんの仕事をしているのか、それについて男の子はまだ何も知らなかった。そして何年も経っていく」
順風な人生といえば、順風な人生だ、と賢人は言った。咲は顔色を変えずに、そうなの、と言う。
「いつしか男の子は思春期の真っ只中にいる。ごく自然な成り行きとして、好きな女の子ができちゃうわけ。その女の子は、美しくて聡明な子だったの。男の子は、友達に協力してもらって、その女の子と仲良くなろうとする。女の子はしぶしぶ男の子の相手をしてくれるようになるのだけれど、一定の距離はずっと保ったままだった。ある時、あまり我慢するのが得意じゃなかった男の子は、たいそう苛立ってしまい、ついに強く女の子に迫った。僕は君のことがほんとうに大好きなんだ、もっと仲良くなりたいんだ、って。苛立ちからだけじゃなくて振り絞った勇気も後押ししたんだと思う。でもそのとき、男の子は女の子にこう言われたの。あなたは武器商人の家族、間接的に大勢の人間の命を奪ったし、間接的に大勢の人間に人殺しの罪を背負わせた、そうやって稼いだものすごい額のお金を力として、あなたは不自由なく生きている、そういう人とわたしは仲良くなんかしたくない、って。はっきりとね」
ぬるくなったコーヒーを手に取って一口啜った賢人は、その女の子の気持ちはまあわかるな、と呟いた。咲は無言で頷いて応えると、続きを話し出した。
「男の子は幸せだったのよ。両親は毎日愛情たっぷりに接してくれたから嬉しかったし、召使いたちだっていつもにこやか。学校ではずっとみんなと友好的に過ごせていた、なにも疑うことなんかなくね。それが、女の子を好きになったことでがらがらと音を立てて崩れてしまう。女の子を好きになるなんて、悪いことじゃなくてとても素敵なことなのに。男の子は自分が今浸っている幸せのほんとうの理由を知ってしまう。そして、ほんとうの、ほんとうの意味では自分が幸せじゃないことに気づいてしまう。幸せじゃないどころか、見渡せないほど巨大でとてつもなく重い、悪、としっかり言えてしまうくらいの黒い宿命のもとに生まれてきたってことを。男の子は、女の子にほんとうのことを言われたときから、それまでの日々の意味合いがみるみる変わっていくのを感じるの。それまでの日々を男の子は、幸せな日々としてほんのわずかな疑いすら抱かなかった。でも、そうじゃなかった。女の子の一言で、これまで歩んできた日々の意味合いは、ほとんど正反対の重苦しいものへと変わってしまった。他人をすごく苦しめたもののおかげで、自分がどれだけ満ち足りた生活を送ってきたかを知ったから」
賢人は、咲の言いたいことがよくわかった。でも、ただこの話と咲の心境とがシンクロしている部分をそのまま肯定してしまうのにためらいがあったし、それは実際、まずいことだろうとも思った。彼女の意識に鍋底の焦げのようにこびりついているものを引き剥がさないといけない。考えてというよりも、直感が鋭くそう叫んでいた。賢人は咲の話の感想を述べる。
「男の子も女の子もそれぞれに、なにも間違ってはいない。だからこれは悲劇ではあるな。それと、男の子が女の子に突き付けられて知ってしまった事実で苦しむようになる悪は、自分の意志でそうしたものじゃないのだから、男の子に罪があるとは決めつけられはしないんじゃない? 男の子に罪はないよ」
賢人がそう言うのを聞きながら咲は目の前まで垂れ下がってきた前髪を横にかきわけている。その目が真剣であることを、賢人は認めた。
「生まれの幸せが、一気に不幸へと転じるところをよく考えてみて。この話で私が賢人にわかってもらいたいのは、そこなんだよね」
賢人は論点をわずかにずらそうとして、男の子には罪はない、と言ったのだが、うまくいかなかった。咲は、自分の心境をわかって欲しい、とほんとうに強く願っている。賢人は、こうなったらはっきり言おうと決める。
「ねえ、咲。俺たち三人が過ごした日々は、君が話した男の子のようなそんなのじゃないよ。だって、俺たちの日々には、武器商人の家に生まれた男の子のように、武器の製造と販売という、男の子に隠された事実、あるいは、男の子が気づくことができなかった事実なんてまず存在していないんだからね。蒼太郎が三十七歳で死んでしまう予兆が、あの日々の中に隠されてあったかい? あのまま蒼太郎が偏差値の高い大学に入って、公務員試験をパスして市役所に入って、同窓会の誘いをきっかけにずいぶん久しぶりにまた三人で会うようになって、そして蒼太郎だけが事故で死んでしまう、そんなふうに運命が決まっているっていう神様の細工が隠されてあったと思うかい?」
「隠された細工なんてないわ。でも、そうじゃないのよ。蒼太郎が死んでしまったことは、私にとって、過去が意味合いを暗く塗り変えられて、死という終点に向かうだけのものとして閉ざされてしまうことだったのよ」
今の咲はこのような気分に過度なくらい支配されてしまっている。そうはいっても、しかたのないことなのかもしれない。今日のところはこれ以上、深く話し合うことを賢人は無理だと判断した。とても残念な思いだった。この先、何度も機会を作って、時間をかけてゆっくりと解きほぐしていかないといけないようなことなんだと考えてみよう、とひとまず自分をなだめてみる。現状を飲み込むとうことを試みたのだが、でも待てよ、とひっかかってくるものを感じた。いや、ひっかかってくるというよりも、それが強く主張し始めようとしてくるような感覚を感じ取った。
賢人は今日、咲の悲しみをすこしでも和らげてあげたくて南北線に乗りアパートまでやってきた。何度かの電話の様子から、咲のメンタル面に危うさを感じ取っており、とても心配していたからだ。実際に顔を合わせて話すことで、いつもの屈託のない仲間内だからこそのくだけた雰囲気が二人の間に再び漂いだし、そうなったときにタイミングよく賢人がちょっとおどけて見せたりすれば、咲にいつもの笑顔が戻るのではないか、というイメージだって頭の隅に描いていた。咲の悲しみによる痛みを緩和させられるのではないか、と。笑えるだなんて思ってもみなかった、久しぶりに気分がよくなったわ、なんて言われることを、期待をもって夢想すらしていた。アパートを訪れた目的はそういうものだった、ときっぱり言い切れる。だが現状は、そうなるにはシリアス過ぎた。
なにも、簡単に考えてきたわけではない。結果的に、どうやら考えが浅かった、と降参せざるをえなくなってしまったほど、彼女の悲しみの根は異常なくらい深かったうえに、予想がつかないほど複雑に張りめぐらされていたのだ。
賢人は、咲との間に流れた沈黙のうち、不意に、今を逃しては決定的にそれは終わってしまうのではないか、とあるひとつの考えに胸をざわつかせ始めていた。それが、主張し始めようとしてきたものの、第一声だった。そしてその声を受けて、頭をめまぐるしく回転させた。この状況下の今こそ仕掛けていくべきだ、という選択肢が浮上してくる、いや、甦ってくる。その選択肢とは、蒼太郎が死んでしまったあとほどなくして賢人が深く考え込んでいたときに、自分の中でまだまだ寝かせつけておくべきだ、ととりあえずの答えを出していた考えだった。それなのに、やるのだ、と行為を迫られる心持ちがしてくる。そればかりか、やるのだ、やるのだ、やるのだ、と強さが増していく。そうして、賢人は押し切られたのだった。今日はまだやるべきことではない、と決めて寝かせ付けていたことが、急遽、今日やるべきことに変わり、目を覚ましたのだ。
「咲は、これまでの三人の想い出の意味が、ぐるっと一変してしまうくらいに、蒼太郎が死んでしまったことから衝撃を受けているようだけど、俺にしたって蒼太郎の死はほんとうに残念だし、それに悔しいと思ってるんだよ。俺だってさ、そうなんだ」
湯気の上がらないコーヒーカップを見つめていた咲が賢人へと顔を向けた。それから二人は少しの間、また何もしゃべることなく、自然に見つめ合う。賢人は思う。自分が咲のことを深く心配していることは、十分に伝わってはきたのだろう、と。心配は事実だ。偽りなどではない。しかし、もはや心配は、背後に目的を隠したものと賢人の中で捉え直されていた。やるべきことのため、そうなったのだ。来た道を振り向いてみた賢人自身の視界に、やるべきことがはっきり形として存在している。
つまり、賢人はこの静かで短い時間を使って内省めいたことをしていたのだった。賢人はそのわずかな時間に自分の姿を自分で正しく眺めることができ、それゆえに、これからの自分の目的をはっきりと自覚したのだ。
咲を見つめていた視線の焦点がいつのまにかぼやけていた。それに気づいた時に視線が揺れてしまったのだが、それが意味する内面でのたくらみが見透かされないように、賢人は自分を見つめ続ける咲の注意の追跡をかわすため、大げさに居住まいを正す動作をしてみせた。
「俺が来たのは、咲のことをほんとうに大切だと思っているからだよ。悲しんで、元気を失くして、落ち込んでしまうのはとてもよくわかる。だって、蒼太郎なんだから。だから俺だってつらい。それは咲もわかるよね?」
「わかってる。感謝してる」
賢人はテーブルへにじり寄るようにして咲の方へとすこし近づいた。
「いや、感謝なんてものはいいんだ。俺は、蒼太郎を失った悲しみを、咲がひとりきりで抱え込んで欲しくない。だから、これまで俺たち三人がいっしょに過ごした頃のことなんかをさ、二人でたくさん話そうよ。そうやって、想い出を辿って、味わい直して、蒼太郎のやったことや言ったこと、姿や表情を懐かしんでさ、少しずつ蒼太郎の死を受け入れていこう。蒼太郎がいなくなった世界に慣れていく努力をしよう」
「あの頃の話をするのは賛成だけど、蒼太郎のいない世界に慣れるのは正直、自信がないな」
賢人は、テーブルの上に置かれた咲の左手に自分の右手を重ねる。
「咲は一人じゃないから。俺がいるんだから。俺は咲にずっと寄り添っていける。そういう気持ちでいるよ。咲がつらいときには、俺にもたれかかってくれてまったく構わない」
咲は眉を下げ、困ったように俯く。
「でも」
「俺たちは仲間なんだし。あの頃からずっと、気兼ねの要らない関係だったよ」
アパートの横の道を小学生くらいの女の子たち数人が甲高い話し声や笑い声を立てて通り過ぎていったのが聴こえて、賢人はちょうど今までの一連の自分のふるまいに、両耳がぽうっとわずかに膨らむみたいな感じで発熱するのがわかる。白々しかった。心配しているのは事実だ、嘘なんかじゃない、と心の中で大声を発し、吹っ切ろうとする。だが、背中の体温までがかあっと上昇していく。俺はなにをしているんだ、と遠くからもう一人の自分に叱責される声を聴いたような気がした。
俺は、悪いことをしはじめているのだろうか。蒼太郎の死に乗じた、悪いことを。咲の不安定さに付け込んだ、悪いことを。
いや、待て、馬鹿らしい。悪いなんてことはないんだ。ここで躊躇する方が、自分の気持ちを尊重しないという意味で、偽善なんじゃないのか。自分の気持ちの向くほうに従ってやるべきことだと決めたことなんだから、この際、気にするべきじゃない。それに俺が咲に、これまで以上に近づくことで、咲は救われるに違いないのだし。咲の悲しみ、そして苦しみは、俺という存在が彼女の中で大きくなることによって、忘れ去られるのだから。ということは、お互いに前向きになれる利益があるのだから。
確信があるからやっているとは言えない。ただ、やるべきこと、という言葉を思い浮かべると、走り出さずにはいられなかった。だって、そういうものだろう、自分に振り向かせたい異性への、そのチャンスに巡り合ったときの気持ちなんて。たとえそれが死に乗じたものだとしても、それは間違いなくチャンスでしかないのだから。
賢人はさらにもう一度考えてみる。この状況で咲にアプローチして、うまくいっしょになって、幸せになることがおかしなことなのだろうか。アプローチをするきっかけについては、厳しく選ばなければいけないものなのだろうか。露骨に事を運ばなければ、そして咲の気分を害しさえしなければ、今のような機会であっても、いや今のような機会だからこそ、仕掛けてしかるべきなんじゃないのだろうか。
死に乗じているからといって、蒼太郎が死んだことをそっちのけにしているわけではない。誓っても、彼の死自体は丁重に扱っている。でも、蒼太郎の死を深く悲しむよりも、咲といっしょになりたい気持ちのほうが勝った。それが、率直な賢人の心情、賢人の背後に、賢人自身に気付かれないまま隠れ続けた、やるべきこと、という心情、つい先ほど名付けられたばかりの心情だった。背徳、とは賢人は名付けなかった。優先されるべき情熱、と彼は名付けていた。
咲にそのままのことを伝えては、拒絶されるに決まっている。太陽が昇る方向がずっと変わらないことと同じくらい明確なことだ。軽蔑される場面だってたやすく想像できる。だから、上手に偽らなければいけない。このまま滑らかに事が運んだとしても、次の段階へ移るのが早すぎる、とたぶん咲はとらえるだろうから、そうならないように細心の注意で、ほころびの無いように偽らなければいけない。それでも遅いくらいだ、と感じるのが賢人だったが。
賢人は、口の中がひどく乾いているのを感じ、真夏の炎天下で喜ばれるに違いないくらいに冷えたカップの中身を一口啜る。咲が、淹れ直すね、と賢人の手からカップをもぎ取り、自分のものと二人分を持ってキッチンへと立っていった。
賢人はひとり、ソファの上で前かがみになり指を組み合わせている。咲の心理は蒼太郎の死に捕らわれ過ぎだ、とあらためて考えていた。
「ねえ、咲?」
キッチンの内側で、咲はデカンタに溜まっていく琥珀色の液体をじっと眺めている。先ほどまでの真剣さはどこかへ消え失せていて、両目にあまり生気が感じられない。彼女は、うん? と薄っぺらい声で返した。
「蒼太郎が死んでしまってからこのふた月近く、俺も俺であいつの死と真剣に向き合っていたんだよ。高校生の頃、あいつはたいてい哲学の本を読んでいたけど、気が付けばミュージシャンのことを書いた本なんかもよく読んでいたりね、そういった些細なところを想い出したりもしてさ。去年、再会してから、昔のことだってほじくりかえすようにいろいろ喋っていたのに、ひとりで想い出しているとそれでもまだすごく懐かしいと感じるんだよ」
「私もそう。彼と付き合い始めてからだって、二人でいろんな話をした。想い出話も含めて。それなのに、蒼太郎といっしょに想い返した時よりも、蒼太郎が亡くなってから私ひとりであの頃を想い出しているときのほうが、なんだかずっと生々しくてリアルに感じられるのよ。不思議よね」
「確かにそうなんだよな。妙な話だけど、蒼太郎が亡くなってからのほうが、想い出の解像度が上がったような気がする」
「そういえば、ミュージシャン関連の本は最近も読んでたみたい。秋の終わりころだったと思うけど、古本屋さんでベックの半生を綴った本を見つけた、って喜んでたもの」
咲はさっと洗って拭いた先ほどのカップに、落とし終えたばかりのコーヒーを注ぎ始めた。賢人はその姿を眺めながら、想い出の解像度ってどうして上がったんだと思う? と訊いた。咲は、どうしてだろうね、蒼太郎を求める力が増したからかな、と賢人を見ずに答えた。コーヒーの香ばしくて好い匂いが漂ってくる。
「実はそこなんだ。あのさ、咲。これから俺が喋ることは、俺が自分を見つめ直して気づいたことなんだけど、たぶん咲にも当てはまることじゃないかと思う。ちょっと聞いて欲しいんだ」
キッチンからテーブルに戻り、賢人と自分の前にコーヒーカップを置きながら、咲は、わかった、とまたダークブルーの平たいクッションの上に座り直した。
「おそらく、というか、ほぼ確かだと俺は思っている。どうして蒼太郎が死んでしまってからのほうが、想い出の解像度が上がったものとして感じられるのか。もともと、想い出ってあやふやで、こうだとは決めつけられないようなものだと思うんだ。なんていうかさ、想い出を中心に、蒼太郎、咲、俺が、その中心から伸びたそれぞれの長さのロープをつかんでいるイメージなんだ。それぞれの長さっていうのはね、その想い出へのインパクトの違いを表しているっていうかさ、強烈な想い出として残っている場合はロープが短いんだ。で、そんなロープをそれぞれがゆるくつかんでいる。ゆるく繋がっているわけだよ、想い出と。そして、そのロープの先に想い出があることを知っているから、その方向に注意を向けたり身体全体を向けたりして、想い出を見て感じることができる。そうやって、想い出を共有している。それが通常の、想い出に対しての姿勢だと思うんだよ。ここまでは、いい?」
「けっこう独特な考えだね。ここからもっと混み入っていったりするのかな?」
「いや、これ以上複雑にはならないから、安心して聞いて。だけど、ちょっと傷つく覚悟はしておいて」
咲は背を伸ばし、まつ毛が弧を描いた目をそれまでよりも大きく見開いた。賢人は、ちゃんと聞いてくれているな、と内心ほっとした。賢人は話を続ける。
「想い出の解像度が上がって感じられるっていうのはつまり、想い出から手元に伸びているロープを引っ張るからなんだと思うんだ。そうやって、想い出を引き寄せようと力をいれて、実際、自分のほうへ引き寄せている、綱引きみたいに。あるいは、ロープの先へと腕力だけで進んでいくんだ、そうやって想い出に近づいていく。だから、想い出との距離が近くなる分、解像度が上がる。どうしてロープを引っ張ったりするのかといえば、想い出を求めてしまうから。もともと想い出は、それぞれが共有しているもので、それぞれに対して気兼ねしながらゆるくロープをつかんでいるはずのものだった。それが、急激な欲求にさからえずに、自分だけ想い出に近づいてしまうんだ。そして、想い出を求めてしまうそのきっかけ、欲求を生じさせたのは、蒼太郎の死だ。あと、これは今思いついたことだけど、想い出には蒼太郎も繋がっていたのに、その蒼太郎が欠けてしまったことで、力の均衡が崩れたのかもしれない。そうやって崩れた均衡が、ロープをつかむ俺や咲の手にそれまでと違う手ごたえを感じさせて、違和感のために手に力が入ってしまうのかもしれない。なんてね。そんなところだよ」
咲は視線を横に流したまま何度も瞬きをしていて思案気だ。賢人は一口だけコーヒーを飲み込む。街灯が順々に灯りをともすみたいにして、その熱が胃へと降りていった。
「要するに、それは」
咲はやっと口を開いてそこまで言ったのだが、そこでまた口を閉ざす。言葉がまとまらないようだった。
「そうだよ。想い出はそれぞれロープをつかんだ地点からしか見えない。まあ、事実という面で言えば想い出そのものは同じ想い出だよ。だとしても、咲には咲の、俺には俺の、それぞれの見え方があるし、理解の仕方がある。さらにそんな想い出を、ロープをたぐって自分に引き寄せて見てしまったりするんだ。そうやって解像度の上がって見えた想い出をつぶさに眺めて、涙を流してしまう。それってどういうことか。もうわかると思う。きつい言い方だけど、結局は独りよがりということなんだよな。独りよがりな心持ちで想い出を眺めたのだから、その想い出は自分だけの解釈を持った想い出にすぎないのに、自分が思っている意味しかないものとしての、いわば個人的な想い出を、みんなが共有している想い出なんだと勘違いしてしまう。そういうことなんだ」
咲はまだ思案しているのだろう、すこし厳しい顔つきになっている。
「それで、話を進めていくけどね、蒼太郎の死を悲しむことも独りよがりということになるんじゃないかと思うんだよ。自分だけの解釈をしている記憶を元にして勝手なイメージを蒼太郎に当てはめてしまい、彼の死は悲しい、としているんだから。もともとの、揺るぎない事実から自分の思うように生成した記憶も、そこからイメージを作り上げたのも、全てが自分なんだ。自分で作り上げたものを、悲しいと言っている。蒼太郎の死を悲しむ? そうさ、自分が彼の死をこの上なく悲しむために、演出までしているんだ。自分ではそれと気づかずにだけど。実際、悪意だって無いんだよ。だからこれは、突き詰めていくと、蒼太郎を失った自分が悲しい、ということにならないか。蒼太郎の死が悲しいんじゃない、蒼太郎の死に見舞われた自分自身こそが悲しいんだ。俺はさっき、想い出を辿って、味わい直して、蒼太郎のやったこと、言ったこと、姿や表情なんかを二人で懐かしもうって言ってしまったけど、考えてみるとこれは対症療法的な些細な効果しか得られないもので、根本から克服する方法ではないんだと思うんだよ」
「よくわからないな。自分を憐れんでいるだけっていうことなの? 私は蒼太郎の死を悲しいと思っている。それがそうじゃなくて、自己演出をして、そのために悲しむことになっているっていうの? 自作自演みたいに言わないで」
咲の強い言葉とは裏腹に、彼女の表情に表れた感情は乏しく、それまでの憔悴さえもがどうやら静止していることがわかった。それはまるで、十字路で呆然と、いま私はどこにいるんだっけ、と突然に見当を失ったかのように、そんな空虚さを咲は全身から漂わせていた。自分の感情の流れの、どこが上流でどちらが下流でといったような、自明のものとして知覚していたものが幻影だと気づかされたからだろう、と賢人は見てとった。
「無理もないことだと思うよ。人間はだれしも多かれ少なかれ、ほとんど無自覚にそういった傾向で生きている。俺も例外じゃない」
咲はますます青褪めていた。賢人は、彼女に気の毒なことをしている、と表面的な心理の層ではやましさを覚えていたが、それに勝る実感的想像のほうにこそ包み込まれるように支配されていた。その実感的想像とは、身体中を勢いよくめぐり続けている自分の血液は、咲を自分のパートナーにしたいという欲望の粒子を飽和近くまで溶かし込み貪婪さに充ち満ちていて、それを肯定している感覚だった。自分が思い、考え、行動している基盤にあるのは、己の渇きを満たすための欲望だという自覚が、否定されることなく芽生えていた。
咲の口元がわずかにわなないているのを賢人は見逃さなかった。このまま放っておけば、咲は元の自分に戻ろうとする。そういう力が働くに違いない。変化してしまってはいけない、と元々の自分の状態へ引きずり戻そうとする自身の力が働くだろうからだ。心理的な弾性、と賢人は言葉を当てはめた。負荷を跳ね返して元に戻る力。対するように、心理的可塑性、と賢人は思いつく。力が加わったことで変形したそのままの状態でいること。咲への負荷が、可塑的に作用すると、咲の心理はこのまま元に戻らず、あらたな形をとったままになる、あるいはそれ以上にもっと形を変えていくかもしれない。弾性が勝れば、咲は元の心理に戻る。自分が与えた可塑的変化が弾性に負けないよう、賢人は、なにか手を打たなければ、ときつく目を細める。目の色が暗く変化していることに、賢人自身は気づいていない。
「死は死でしかない。俺たちは、蒼太郎の死を都合よく弄んでいる。俺も、咲も、蒼太郎の死を、ああでもないこうでもない、と意味づけすることで蹂躙してしまったんじゃないだろうか。違うかい? それとも、凌辱したといったほうがいいのかもしれないか。咲、死は死なんだ。点のようなものだよ。もう意味づけするのは止めないか」
咲は涙を流す。混乱が増している、と賢人は考えた。咲の涙は止まる気配を感じさせないくらいの勢いで流れ出ている。彼女は口を小さく開くと、嗄れた小さな声で呟きはじめた。
「蒼太郎の死。死んだこと。死の意味って。わたしはそんなこと。死。蒼太郎の死。どうして。死は死でしかない?」
「死は死だ。そのままの意味に何も付け加えることはないよ。蒼太郎の死はただの死だ。死という状態に個性も個別性もない。死は死であるのだから、つまり、純然たる死を受け入れよう」
咲は頬を伝う涙をぬぐうこともしない。
「彼の人生が終わったこと、もう彼と関わり合えないこと、彼の考えを知ることができなくなったし、声すら聴けなくなったこと」
「純然たる死がもたらすものだよ」
「存在自体から醸し出されてくる、言葉にはならない感覚的な、蒼太郎独自だったものを、私はイマジネーションの中だけであっても再現するようにして感じたいのに」
「死は、眠らせておくに限る」
「死」
「それが死だよ」
感情に深く訴えて止まない事実だった蒼太郎の死が、いまや賢人には深い意味をなさない事実になった。それはまもなく、咲も同じようになるはずだ、と賢人は考えている。もはや蒼太郎の死は、咲にも賢人にも作用しないし、影響を与えない。蒼太郎から咲を奪いとるために踏み込むタイミングはここだ、と賢人は構えた
「自分の気持ちが平板に感じられてくるわ、あなたの言い分を聴いたせいで。あれだけ感情に訴えていた蒼太郎との想い出が、もう遠くへ過ぎ去っていったみたいに感じられる。望んでいないのに」
咲の鍵盤を容赦なく叩き続けた、蒼太郎の死が司る指先が止まったのだ。賢人は、話の流れをうまく運べたようだ、と思った。
「純然たる蒼太郎の死、というものを守るためなんだ。俺たちは、あまりにも誰かの死を混然とさせる。好き勝手に、色を塗る。自分の見たい場所に置く」
二人で話をしていたさきほどまで、蒼太郎の死は生きていた。それがどうやら、今しがた、死んでいった。二人の間で死が死んだことを、それに成功したことを、賢人は感じ取っていた。純然たる死とは、解体された死であることを、賢人はわかっていた。そして、解体への過程は、賢人が意欲的に望んで道筋をつけたものだった。
「死はたった今、死んでいった。ようやく本来の死の状態になった」
そのときの咲の様子が、彼女を自分になびかせようとしている賢人によっては、よからぬ印象へ変わった。敷いた道を逸れていることを瞬時に察知する。
「死が死んだ?」
彼女の視線が宙を彷徨うように、揺れている。勝手な意味をもたされた死が意味から解放され、これまで自身が意味を持たせていたことを理解した咲はきっと、諦めるという手段を選び、だんだん気持ちを落ち着かせ、平常に戻っていくはずだと賢人は推測していた。蒼太郎が死んだ日から今まで、乱れ続けた咲の気持ちの足を地面につけさせる。その重力を賢人はこの場でもたらす自信があったのだ。だが、目の前の彼女の様相は、予定とはかなり異なっている。咲は言った。
「もっと死を見てみて、賢人。死をじっと見てよ。感じるものは無い?」
死という一点だけを見つめる。それはまさに点なのだ、と納得する。なにも生み出さなくなる、なにも吐き出さなくなる、そうなることへの地点。だが、そうであっても、賢人にも感じられるものがある。それは、賢人にとっては逸らしてしまったほうがいいものだ。無視を決め込んでしまったほうがいいものだ。厳然として賢人にも感じられてしまっている、脱落感みたいなもの。
「喪失感」
賢人は意味を知らない言葉を片仮名で喋るみたいにしてその言葉を吐きだした。心理の穴だけがある。前を向いたとしても、死が解体されても、穴だけは歴然としてそこにある。
「そうよ。死が意味を失って、喪失感だけが重く残っているのよ。純然たる死って賢人は言ったけど、それは不完全な死なのよ。死はたぶん、点ではないの。私たちが生きているっていうその仕組み上、点としての死は、不完全で、近寄るべきではない危険なものだと分類されるような死なんじゃないの?」
手遅れだ、と賢人は思った。敷いた道は崩れ落ち、死は、画用紙に描き殴った「穴」の絵のようになった。それは、死という特異な地点。その人の生命が抜け落ちる地点。穴に底はあるのか、それとも穴の奥には行く先があって、どこかに続いているのだろうか。行く先があるのならば、蒼太郎はまだ旅をしている。だが、賢人は蒼太郎の旅を許さなかった。そういったことではなかったのか?
涙の止まった咲がこれまで見せたことの無いような、苦悶に醜く歪んだ顔つきになっている。賢人の感情は浮遊しだした。どうやら咲の表情からだけではなく、五感ではっきり把握できていないところからのなんらかの影響を受けているようだった。腹の中で、不穏に沸き立つなにかを感じる。
「咲の言う通りかもしれない」
「賢人の言ったことはある意味ではまやかしで、でも、もう二度と引き返せないところまで連れて来られてしまったような気がする」
その場から、言葉はもう、なにひとつ出てこなかった。
その土曜日の午後はそうやって過ぎていった。賢人は咲の部屋を出て、駅まで歩き、地上から地下へ潜っていく南北線に乗って帰路につき、自室でこれまでの時間を反芻しながら、自分の感情や考えを省みた。おそらく初めから失敗していたのだと思った。
翌日は日曜日で、出勤する日だった。かなり客の来店があるだろう特売日で忙しくなるはずの日だ。
穴の重力は薄らいでいる。働いている最中には感じられないほどになる。くたびれてやっと退勤し、帰路、外を歩いているときはまだ、職場にいたときの活気づいた気持ちが火照って残っているのだが、アパートの自室に着くと穴は、賢人の背後で待ちわびたように開きだしている気がしてならない。
賢人は咲と、同じ穴を宿す者同士として引き合い、再び語り合う日がくるのかもしれなかった。あるいは反発し合う、もしくは、双方が共に興味を失っていくものなのかもしれなかった。賢人の計画は消え去ってはいなかったが、これ以上、時が来るのを待っても仕方がないような気がした。
それから幾日か経ったある日の帰り道の途中、たまに寄り道する書店に寄って、昨年発刊されて話題になった村上春樹の新作長編を買って読んでみようかと賢人はぼんやり考えていた。久しぶりに彼の作品世界を味わいたい気分になったのだ。この今の気分から抜け出すには、彼の小説のほかに無さそうだから。
<了>
*
息を吸うと鼻の穴の中が凍てついてくる。それは、それほど寒さの冴え渡った夜半近くだった。横断歩道を渡りはじめてすぐだったらしい。歩行者である蒼太郎を確認せずに左折してきた乗用車に彼は轢かれたのだ。横断歩道は無人のはずだ、とそれが当たり前だというように決めつけたドライバーは一時停止をせず、アクセルを踏み込みつつハンドルを切った。ぶつけられた衝撃はかなりの大きさで、ダウンコートのポケットに両手をつっこんでいた蒼太郎は、そのまま勢いよく突き飛ばされ、丸太のようにごろごろと激しく地面を転がった。目撃証言によれば、とくに転倒したその最初の瞬間に頭をひどく打ちつけていた。真冬の二月頭とはいえ、撒布された融雪剤の効果のために、路面は剥き出しのアスファルトである。路面を厚く覆うほど雪の降り積もるような夜であったならば、また結末は違っていたのかもしれない。
意識不明で運ばれた病院で、蒼太郎は翌日の夜明けの頃にはもう息を引き取った。回復の兆しは少しも見られなかったということだった。享年三十七歳。賢人らと同年の、彼が生きる時間の流れは、そうやって断ち切られたのだった。
賢人はその日の昼休みに、宮家咲からの電話でこの訃報を知らされた。三人は、新型コロナウイルスが季節性インフルエンザと同じ「5類」に引き下げられたころ、結局は流れた同窓会の誘いをきっかけに連絡を取り合うようになり、再会も果たし、それから不定期に集まるようになっていた。
賢人たち三人は十代の頃、かぐわしかったり酸っぱかったり甘ったるかったりじっとりしていたり眩しかったりしたいくつもの雑多な時間、そしてそれでいて派手さのあまり感じられなかった時間を共に過ごした仲だった。そんな過ぎ去っていった、代わりとなるもののない時間を想い出として共に携えている、なつかしい高校時代の友人たちだった。
大きなショックを受けた賢人は、西区にある、店長として取り仕切っている道内大手小売チェーン店の、狭い休憩室の壁際に設えられている長机の奥のほうに腰掛けて、自店のから揚げ弁当をほおばっていたところだったのだが、咲からの電話連絡を受け終えた後、食べ直そうと持ち上げた箸の震えが止まらなくなり、震えた指のままで箸を置き、両手をふとももの上に置くと、パイプ椅子の背もたれに深く沈み込み、顎を引いて目を閉じた。左目のまぶたが、ぴくぴくと細かくけいれんしだしている。
なんでまた、と賢人は蒼太郎が死んだというそのわけのわからなさに混乱する。鼓動が速く強く体の内側で響く。しかしそのうち、死んでしまったのか、と蒼太郎の急逝を現実の出来事として、諦めとして、飲み込めるようになる。そうして、賢人は悲しんだ。ひんやり湿った悲しみの膜の中に全身が包み込まれるようにして。
それから二ヵ月近くが経った土曜日の午後早く、賢人は琴似駅から真駒内方面へ向かう南北線に乗っていた。車内はそれほど混んでいない。車両内側面のシートに座ることができた。
咲は南平岸駅近くのアパートで一人暮らしをしている。蒼太郎と同棲する話がでていた矢先の事故だった、と賢人はあの日以来、何度か電話で話したなかで咲にそう聞いていた。引き払う予定が白紙のものへと変わった住み慣れたアパートの一室から小声で話す咲の電話越しの声。それは涙でくぐもることが多く、たびたび嗚咽に乱れもした。
お互いが相手と別れたばかりだった蒼太郎と咲は、再会の日以来、まるで自然法則に逆らいでもしているかのように、不自然に見えるほどの力強さでお互いがお互いを強引に求めあい、あっという間に結びついた。あまりのスピードに、賢人はあっけにとられ呆然とした。いきなり置いてきぼりを食ってしまったその疎外感に、しばらく嫌な思いすらしていたくらいだ。
もうどうしていいのかわからないくらい、悲しい。咲は電話で何度も賢人にそう訴えた。咲が蒼太郎の弟から四十九日法要の日取りの連絡を受け、そして出席を終えた夜に、賢人は、次の週末にいちど会って話をしないか、と持ちかけたのだった。
地下を走っていた南北線の車窓の暗闇が一気に地上の風景へと開かれる。賢人の気持ちも、内向きなものから外界に対するものへと、車窓の劇的な変化がもたらす強制的な力によって、あっという間に切り換わる。降りないと。席を立つ。
駅の出口はすぐに車道に面した歩道だった。今年の雪解けはもう終わりに近い。風は強くて路面は埃っぽかった。空は一面、薄灰色の雲で満ちていて、風がびゅううう、と鳴っている。どこからか舞いあがった白いレジ袋が一枚、そんな空の高いところを転がるように滑っていった。
賢人は咲のアパートを目指し、地図アプリを確認しながら歩いていく。なにも持ちあわせていないことに気づき、途中でコンビニに立ち寄って洋菓子をいくつか買った。そういった時間も合わせて十五分ほどで、咲のアパートに着いた。葬儀以来に見る彼女の顔ははっきりと青白くて、すこしやつれたようだ、と賢人は思った。それでも咲は、賢人を見ると、化粧の薄い顔にいつもの自然な微笑みを浮かべ、今日はありがとう、どうぞ入って、と言った。
あまり物の置かれていない静かな印象の部屋だった。黒味のグラデーションがかかったタイルカーペットがまず目を引く。壁際に置かれた背の低い横長の本棚は、眺める側へと角度がついていて並んだ本が見やすい。本棚の上の壁には紺地に幾何学模様があしらわれた小さなタペストリーがひとつ掛かっている。その向かいの窓には淡い暖色のカーテンがふんわりとまとめられていた。
「わたしの時間は、どうやら止まってしまったみたい」
呟くようにそう言いながら、キッチンから湯気立つコーヒーのカップをふたつ手にして運んできた咲はモノトーンのセーターと明るめのブルージーンズという格好だ。全体的に丸みがかったアクリルテーブルの脇にある、ダークブルーの平らなクッションの上に座るとわずかに俯く。賢人は勧められた灰色のソファに腰掛けている。賢人の斜め右側に咲がいる。賢人は、咲が深い悲しみの奥底にいることを悲しく思った。
「思いつめないで。これはほんとうに、どうしようもないことだったんだからさ」
その言葉が継がれることはなく、すぐに二人の間の空間は、しん、と静まった。沈黙がむず痒く賢人の耳の奥に響いている。お互いのカップはテーブルに置かれたまま手を付けられず、湯気だけがたゆたう。同じくテーブルに置かれたコンビニ洋菓子の、熊をあしらったイラストの入ったかわいらしい容器も、乾いたのっぺりとした絵面として目に映るだけだった。咲は小さくため息を吐くと、俯いたまま、小さな声で話し始めた。
「覚えているかな。私たちが知り合ったときのこと。なんだか最近、よく思い出すんだ。賢人と蒼太郎はクラスメイトだったけれど、私は違った。高校の三年間、一度もあなたたちのどちらとも同じクラスにはならなかった。だけど、放課後によく、同じ時間に、図書室にいたのよね。私は本が好きで、あなたもそうで、蒼太郎もそうだった。そのうち、なんとなく顔を合わせているうちに、蒼太郎が話しかけてきたのよ。そこから、友達同士のあなたたちに、私が加わることになったんだよね。変な言い方かもしれないけれど、それってとっても、必然だったような気がしたの。そのときだけそういう気がしたんじゃなくて、今振り返ってみても必然でしかないめぐり合わせだったって思う」
そうだね、俺たちの出会いは必然だったんだと俺も思うよ、俺もよく覚えている、と賢人は同意した。
「毎日、図書館で顔を合わせて、それから近くの公園だとか、マックだとかに行って、やっぱり本の話はよくしてた。みんな、読んだ本の内容を教えたがったものね。今日は蒼太郎が語り、次の日は賢人が語り、その次は私が語り、っていうように」
賢人の脳裏にもあの日々が小さな光となってきらめいた。当時、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の上下巻を文庫本で読んだことで、感情面や世界観が急激に変化を始め、そのまま丸ごと脱皮まで果たしたかのような感動を味わったものだった。二人に伝える言葉をもどかしく探りながら、つっかえつっかえになりつつ、気持ちばかりが先走りながら単語ばかりの力説をしたことを恥ずかしさとともに思い出した。咲は『ノルウェイの森』をすでに読み終えていて、村上春樹ってちょっと他とは違うよね、とそんな賢人に共感を示してくれたのだった。
「あの日々は、俺もはっきり覚えている。三人だけで完全だったっていうかさ。ほんとうに楽しかった。あの時期に世界は、俺たちみたいな三人なんかのために、不思議と特別な時間をつつましく用意してくれたんじゃないかって、思いあがったことを考えてしまうくらいだよ。無事、大人になったあと、その基盤としてあの日々は今もある、と言いたいくらいだしね」
賢人を見つめる咲の目が赤いことに、彼は気づいた。
「蒼太郎が亡くなって、あの日々はもう壊れてしまったわ」
「いや、現在の力があの日々にまで及ぶなんてことはないんじゃない? あの日々はあの日々で、もう完結しているんだから。ずっと大切にしていくべき想い出の日々だろ」
「いいえ、違うわ。あの日々の意味は、もはや変わってしまったのよ。悲しみのための日々というべきものに変わり果てたんだよ。楽しかったはずの想い出は、悲しみっていう結末に向かって転げ落ちていくためのつらい想い出に変わってしまったの。楽しかった分、悲しみは深くなる」
涙がひと粒、咲の左頬をつうっと伝い落ちた。ピアノの鍵盤をひとつ指で押したなら必ずポンと音が鳴るように、しかるべき当然の現象としてというような、なんら違和感を生じさせることのない涙の粒だった。
「そんなふうに考えちゃいけない」
賢人は窓の外に視線を移す。先ほどと何も変わり映えのしない曇り空と、ここと同じようなアパートがいくつも立ち並ぶ住宅地がある。景色の奥のほうに見える道を歩く人は誰もいない。猫一匹、どこにも佇んでさえいない様子だった。
「あのね、武器商人の裕福な家で育った男の子の話、していい? 聞いてもらえたら、私の心境がよくわかると思う」
賢人は咲に視線を戻し、出し抜けになんだろうと思ったが、口を開くことなく、うん、と発声だけで返事をする。咲の目はまだ赤いままだったが、眉間に薄くよっていた縦皺は消えていた。
「ある国に武器商人の夫婦がいたの。彼らはその頃起こった大きな戦争のおかげで、親から受け継いだ銃や弾薬の製造工場が大繁盛してとてもお金持ちになった。一生、なんの不自由もない贅沢な暮らしを送ってもお釣りが山ほど貰えるくらいにね。そして、子どもを作った。生まれた赤ちゃんは健康な男の子だった。召使いや女中たちにちやほやされて育った男の子は、そのうち学校に通いだす年頃になる。そこでも、教師からえこひいきされて、友達連中からも気を使われて過ごすの。自分の家はなんの仕事をしているのか、それについて男の子はまだ何も知らなかった。そして何年も経っていく」
順風な人生といえば、順風な人生だ、と賢人は言った。咲は顔色を変えずに、そうなの、と言う。
「いつしか男の子は思春期の真っ只中にいる。ごく自然な成り行きとして、好きな女の子ができちゃうわけ。その女の子は、美しくて聡明な子だったの。男の子は、友達に協力してもらって、その女の子と仲良くなろうとする。女の子はしぶしぶ男の子の相手をしてくれるようになるのだけれど、一定の距離はずっと保ったままだった。ある時、あまり我慢するのが得意じゃなかった男の子は、たいそう苛立ってしまい、ついに強く女の子に迫った。僕は君のことがほんとうに大好きなんだ、もっと仲良くなりたいんだ、って。苛立ちからだけじゃなくて振り絞った勇気も後押ししたんだと思う。でもそのとき、男の子は女の子にこう言われたの。あなたは武器商人の家族、間接的に大勢の人間の命を奪ったし、間接的に大勢の人間に人殺しの罪を背負わせた、そうやって稼いだものすごい額のお金を力として、あなたは不自由なく生きている、そういう人とわたしは仲良くなんかしたくない、って。はっきりとね」
ぬるくなったコーヒーを手に取って一口啜った賢人は、その女の子の気持ちはまあわかるな、と呟いた。咲は無言で頷いて応えると、続きを話し出した。
「男の子は幸せだったのよ。両親は毎日愛情たっぷりに接してくれたから嬉しかったし、召使いたちだっていつもにこやか。学校ではずっとみんなと友好的に過ごせていた、なにも疑うことなんかなくね。それが、女の子を好きになったことでがらがらと音を立てて崩れてしまう。女の子を好きになるなんて、悪いことじゃなくてとても素敵なことなのに。男の子は自分が今浸っている幸せのほんとうの理由を知ってしまう。そして、ほんとうの、ほんとうの意味では自分が幸せじゃないことに気づいてしまう。幸せじゃないどころか、見渡せないほど巨大でとてつもなく重い、悪、としっかり言えてしまうくらいの黒い宿命のもとに生まれてきたってことを。男の子は、女の子にほんとうのことを言われたときから、それまでの日々の意味合いがみるみる変わっていくのを感じるの。それまでの日々を男の子は、幸せな日々としてほんのわずかな疑いすら抱かなかった。でも、そうじゃなかった。女の子の一言で、これまで歩んできた日々の意味合いは、ほとんど正反対の重苦しいものへと変わってしまった。他人をすごく苦しめたもののおかげで、自分がどれだけ満ち足りた生活を送ってきたかを知ったから」
賢人は、咲の言いたいことがよくわかった。でも、ただこの話と咲の心境とがシンクロしている部分をそのまま肯定してしまうのにためらいがあったし、それは実際、まずいことだろうとも思った。彼女の意識に鍋底の焦げのようにこびりついているものを引き剥がさないといけない。考えてというよりも、直感が鋭くそう叫んでいた。賢人は咲の話の感想を述べる。
「男の子も女の子もそれぞれに、なにも間違ってはいない。だからこれは悲劇ではあるな。それと、男の子が女の子に突き付けられて知ってしまった事実で苦しむようになる悪は、自分の意志でそうしたものじゃないのだから、男の子に罪があるとは決めつけられはしないんじゃない? 男の子に罪はないよ」
賢人がそう言うのを聞きながら咲は目の前まで垂れ下がってきた前髪を横にかきわけている。その目が真剣であることを、賢人は認めた。
「生まれの幸せが、一気に不幸へと転じるところをよく考えてみて。この話で私が賢人にわかってもらいたいのは、そこなんだよね」
賢人は論点をわずかにずらそうとして、男の子には罪はない、と言ったのだが、うまくいかなかった。咲は、自分の心境をわかって欲しい、とほんとうに強く願っている。賢人は、こうなったらはっきり言おうと決める。
「ねえ、咲。俺たち三人が過ごした日々は、君が話した男の子のようなそんなのじゃないよ。だって、俺たちの日々には、武器商人の家に生まれた男の子のように、武器の製造と販売という、男の子に隠された事実、あるいは、男の子が気づくことができなかった事実なんてまず存在していないんだからね。蒼太郎が三十七歳で死んでしまう予兆が、あの日々の中に隠されてあったかい? あのまま蒼太郎が偏差値の高い大学に入って、公務員試験をパスして市役所に入って、同窓会の誘いをきっかけにずいぶん久しぶりにまた三人で会うようになって、そして蒼太郎だけが事故で死んでしまう、そんなふうに運命が決まっているっていう神様の細工が隠されてあったと思うかい?」
「隠された細工なんてないわ。でも、そうじゃないのよ。蒼太郎が死んでしまったことは、私にとって、過去が意味合いを暗く塗り変えられて、死という終点に向かうだけのものとして閉ざされてしまうことだったのよ」
今の咲はこのような気分に過度なくらい支配されてしまっている。そうはいっても、しかたのないことなのかもしれない。今日のところはこれ以上、深く話し合うことを賢人は無理だと判断した。とても残念な思いだった。この先、何度も機会を作って、時間をかけてゆっくりと解きほぐしていかないといけないようなことなんだと考えてみよう、とひとまず自分をなだめてみる。現状を飲み込むとうことを試みたのだが、でも待てよ、とひっかかってくるものを感じた。いや、ひっかかってくるというよりも、それが強く主張し始めようとしてくるような感覚を感じ取った。
賢人は今日、咲の悲しみをすこしでも和らげてあげたくて南北線に乗りアパートまでやってきた。何度かの電話の様子から、咲のメンタル面に危うさを感じ取っており、とても心配していたからだ。実際に顔を合わせて話すことで、いつもの屈託のない仲間内だからこそのくだけた雰囲気が二人の間に再び漂いだし、そうなったときにタイミングよく賢人がちょっとおどけて見せたりすれば、咲にいつもの笑顔が戻るのではないか、というイメージだって頭の隅に描いていた。咲の悲しみによる痛みを緩和させられるのではないか、と。笑えるだなんて思ってもみなかった、久しぶりに気分がよくなったわ、なんて言われることを、期待をもって夢想すらしていた。アパートを訪れた目的はそういうものだった、ときっぱり言い切れる。だが現状は、そうなるにはシリアス過ぎた。
なにも、簡単に考えてきたわけではない。結果的に、どうやら考えが浅かった、と降参せざるをえなくなってしまったほど、彼女の悲しみの根は異常なくらい深かったうえに、予想がつかないほど複雑に張りめぐらされていたのだ。
賢人は、咲との間に流れた沈黙のうち、不意に、今を逃しては決定的にそれは終わってしまうのではないか、とあるひとつの考えに胸をざわつかせ始めていた。それが、主張し始めようとしてきたものの、第一声だった。そしてその声を受けて、頭をめまぐるしく回転させた。この状況下の今こそ仕掛けていくべきだ、という選択肢が浮上してくる、いや、甦ってくる。その選択肢とは、蒼太郎が死んでしまったあとほどなくして賢人が深く考え込んでいたときに、自分の中でまだまだ寝かせつけておくべきだ、ととりあえずの答えを出していた考えだった。それなのに、やるのだ、と行為を迫られる心持ちがしてくる。そればかりか、やるのだ、やるのだ、やるのだ、と強さが増していく。そうして、賢人は押し切られたのだった。今日はまだやるべきことではない、と決めて寝かせ付けていたことが、急遽、今日やるべきことに変わり、目を覚ましたのだ。
「咲は、これまでの三人の想い出の意味が、ぐるっと一変してしまうくらいに、蒼太郎が死んでしまったことから衝撃を受けているようだけど、俺にしたって蒼太郎の死はほんとうに残念だし、それに悔しいと思ってるんだよ。俺だってさ、そうなんだ」
湯気の上がらないコーヒーカップを見つめていた咲が賢人へと顔を向けた。それから二人は少しの間、また何もしゃべることなく、自然に見つめ合う。賢人は思う。自分が咲のことを深く心配していることは、十分に伝わってはきたのだろう、と。心配は事実だ。偽りなどではない。しかし、もはや心配は、背後に目的を隠したものと賢人の中で捉え直されていた。やるべきことのため、そうなったのだ。来た道を振り向いてみた賢人自身の視界に、やるべきことがはっきり形として存在している。
つまり、賢人はこの静かで短い時間を使って内省めいたことをしていたのだった。賢人はそのわずかな時間に自分の姿を自分で正しく眺めることができ、それゆえに、これからの自分の目的をはっきりと自覚したのだ。
咲を見つめていた視線の焦点がいつのまにかぼやけていた。それに気づいた時に視線が揺れてしまったのだが、それが意味する内面でのたくらみが見透かされないように、賢人は自分を見つめ続ける咲の注意の追跡をかわすため、大げさに居住まいを正す動作をしてみせた。
「俺が来たのは、咲のことをほんとうに大切だと思っているからだよ。悲しんで、元気を失くして、落ち込んでしまうのはとてもよくわかる。だって、蒼太郎なんだから。だから俺だってつらい。それは咲もわかるよね?」
「わかってる。感謝してる」
賢人はテーブルへにじり寄るようにして咲の方へとすこし近づいた。
「いや、感謝なんてものはいいんだ。俺は、蒼太郎を失った悲しみを、咲がひとりきりで抱え込んで欲しくない。だから、これまで俺たち三人がいっしょに過ごした頃のことなんかをさ、二人でたくさん話そうよ。そうやって、想い出を辿って、味わい直して、蒼太郎のやったことや言ったこと、姿や表情を懐かしんでさ、少しずつ蒼太郎の死を受け入れていこう。蒼太郎がいなくなった世界に慣れていく努力をしよう」
「あの頃の話をするのは賛成だけど、蒼太郎のいない世界に慣れるのは正直、自信がないな」
賢人は、テーブルの上に置かれた咲の左手に自分の右手を重ねる。
「咲は一人じゃないから。俺がいるんだから。俺は咲にずっと寄り添っていける。そういう気持ちでいるよ。咲がつらいときには、俺にもたれかかってくれてまったく構わない」
咲は眉を下げ、困ったように俯く。
「でも」
「俺たちは仲間なんだし。あの頃からずっと、気兼ねの要らない関係だったよ」
アパートの横の道を小学生くらいの女の子たち数人が甲高い話し声や笑い声を立てて通り過ぎていったのが聴こえて、賢人はちょうど今までの一連の自分のふるまいに、両耳がぽうっとわずかに膨らむみたいな感じで発熱するのがわかる。白々しかった。心配しているのは事実だ、嘘なんかじゃない、と心の中で大声を発し、吹っ切ろうとする。だが、背中の体温までがかあっと上昇していく。俺はなにをしているんだ、と遠くからもう一人の自分に叱責される声を聴いたような気がした。
俺は、悪いことをしはじめているのだろうか。蒼太郎の死に乗じた、悪いことを。咲の不安定さに付け込んだ、悪いことを。
いや、待て、馬鹿らしい。悪いなんてことはないんだ。ここで躊躇する方が、自分の気持ちを尊重しないという意味で、偽善なんじゃないのか。自分の気持ちの向くほうに従ってやるべきことだと決めたことなんだから、この際、気にするべきじゃない。それに俺が咲に、これまで以上に近づくことで、咲は救われるに違いないのだし。咲の悲しみ、そして苦しみは、俺という存在が彼女の中で大きくなることによって、忘れ去られるのだから。ということは、お互いに前向きになれる利益があるのだから。
確信があるからやっているとは言えない。ただ、やるべきこと、という言葉を思い浮かべると、走り出さずにはいられなかった。だって、そういうものだろう、自分に振り向かせたい異性への、そのチャンスに巡り合ったときの気持ちなんて。たとえそれが死に乗じたものだとしても、それは間違いなくチャンスでしかないのだから。
賢人はさらにもう一度考えてみる。この状況で咲にアプローチして、うまくいっしょになって、幸せになることがおかしなことなのだろうか。アプローチをするきっかけについては、厳しく選ばなければいけないものなのだろうか。露骨に事を運ばなければ、そして咲の気分を害しさえしなければ、今のような機会であっても、いや今のような機会だからこそ、仕掛けてしかるべきなんじゃないのだろうか。
死に乗じているからといって、蒼太郎が死んだことをそっちのけにしているわけではない。誓っても、彼の死自体は丁重に扱っている。でも、蒼太郎の死を深く悲しむよりも、咲といっしょになりたい気持ちのほうが勝った。それが、率直な賢人の心情、賢人の背後に、賢人自身に気付かれないまま隠れ続けた、やるべきこと、という心情、つい先ほど名付けられたばかりの心情だった。背徳、とは賢人は名付けなかった。優先されるべき情熱、と彼は名付けていた。
咲にそのままのことを伝えては、拒絶されるに決まっている。太陽が昇る方向がずっと変わらないことと同じくらい明確なことだ。軽蔑される場面だってたやすく想像できる。だから、上手に偽らなければいけない。このまま滑らかに事が運んだとしても、次の段階へ移るのが早すぎる、とたぶん咲はとらえるだろうから、そうならないように細心の注意で、ほころびの無いように偽らなければいけない。それでも遅いくらいだ、と感じるのが賢人だったが。
賢人は、口の中がひどく乾いているのを感じ、真夏の炎天下で喜ばれるに違いないくらいに冷えたカップの中身を一口啜る。咲が、淹れ直すね、と賢人の手からカップをもぎ取り、自分のものと二人分を持ってキッチンへと立っていった。
賢人はひとり、ソファの上で前かがみになり指を組み合わせている。咲の心理は蒼太郎の死に捕らわれ過ぎだ、とあらためて考えていた。
「ねえ、咲?」
キッチンの内側で、咲はデカンタに溜まっていく琥珀色の液体をじっと眺めている。先ほどまでの真剣さはどこかへ消え失せていて、両目にあまり生気が感じられない。彼女は、うん? と薄っぺらい声で返した。
「蒼太郎が死んでしまってからこのふた月近く、俺も俺であいつの死と真剣に向き合っていたんだよ。高校生の頃、あいつはたいてい哲学の本を読んでいたけど、気が付けばミュージシャンのことを書いた本なんかもよく読んでいたりね、そういった些細なところを想い出したりもしてさ。去年、再会してから、昔のことだってほじくりかえすようにいろいろ喋っていたのに、ひとりで想い出しているとそれでもまだすごく懐かしいと感じるんだよ」
「私もそう。彼と付き合い始めてからだって、二人でいろんな話をした。想い出話も含めて。それなのに、蒼太郎といっしょに想い返した時よりも、蒼太郎が亡くなってから私ひとりであの頃を想い出しているときのほうが、なんだかずっと生々しくてリアルに感じられるのよ。不思議よね」
「確かにそうなんだよな。妙な話だけど、蒼太郎が亡くなってからのほうが、想い出の解像度が上がったような気がする」
「そういえば、ミュージシャン関連の本は最近も読んでたみたい。秋の終わりころだったと思うけど、古本屋さんでベックの半生を綴った本を見つけた、って喜んでたもの」
咲はさっと洗って拭いた先ほどのカップに、落とし終えたばかりのコーヒーを注ぎ始めた。賢人はその姿を眺めながら、想い出の解像度ってどうして上がったんだと思う? と訊いた。咲は、どうしてだろうね、蒼太郎を求める力が増したからかな、と賢人を見ずに答えた。コーヒーの香ばしくて好い匂いが漂ってくる。
「実はそこなんだ。あのさ、咲。これから俺が喋ることは、俺が自分を見つめ直して気づいたことなんだけど、たぶん咲にも当てはまることじゃないかと思う。ちょっと聞いて欲しいんだ」
キッチンからテーブルに戻り、賢人と自分の前にコーヒーカップを置きながら、咲は、わかった、とまたダークブルーの平たいクッションの上に座り直した。
「おそらく、というか、ほぼ確かだと俺は思っている。どうして蒼太郎が死んでしまってからのほうが、想い出の解像度が上がったものとして感じられるのか。もともと、想い出ってあやふやで、こうだとは決めつけられないようなものだと思うんだ。なんていうかさ、想い出を中心に、蒼太郎、咲、俺が、その中心から伸びたそれぞれの長さのロープをつかんでいるイメージなんだ。それぞれの長さっていうのはね、その想い出へのインパクトの違いを表しているっていうかさ、強烈な想い出として残っている場合はロープが短いんだ。で、そんなロープをそれぞれがゆるくつかんでいる。ゆるく繋がっているわけだよ、想い出と。そして、そのロープの先に想い出があることを知っているから、その方向に注意を向けたり身体全体を向けたりして、想い出を見て感じることができる。そうやって、想い出を共有している。それが通常の、想い出に対しての姿勢だと思うんだよ。ここまでは、いい?」
「けっこう独特な考えだね。ここからもっと混み入っていったりするのかな?」
「いや、これ以上複雑にはならないから、安心して聞いて。だけど、ちょっと傷つく覚悟はしておいて」
咲は背を伸ばし、まつ毛が弧を描いた目をそれまでよりも大きく見開いた。賢人は、ちゃんと聞いてくれているな、と内心ほっとした。賢人は話を続ける。
「想い出の解像度が上がって感じられるっていうのはつまり、想い出から手元に伸びているロープを引っ張るからなんだと思うんだ。そうやって、想い出を引き寄せようと力をいれて、実際、自分のほうへ引き寄せている、綱引きみたいに。あるいは、ロープの先へと腕力だけで進んでいくんだ、そうやって想い出に近づいていく。だから、想い出との距離が近くなる分、解像度が上がる。どうしてロープを引っ張ったりするのかといえば、想い出を求めてしまうから。もともと想い出は、それぞれが共有しているもので、それぞれに対して気兼ねしながらゆるくロープをつかんでいるはずのものだった。それが、急激な欲求にさからえずに、自分だけ想い出に近づいてしまうんだ。そして、想い出を求めてしまうそのきっかけ、欲求を生じさせたのは、蒼太郎の死だ。あと、これは今思いついたことだけど、想い出には蒼太郎も繋がっていたのに、その蒼太郎が欠けてしまったことで、力の均衡が崩れたのかもしれない。そうやって崩れた均衡が、ロープをつかむ俺や咲の手にそれまでと違う手ごたえを感じさせて、違和感のために手に力が入ってしまうのかもしれない。なんてね。そんなところだよ」
咲は視線を横に流したまま何度も瞬きをしていて思案気だ。賢人は一口だけコーヒーを飲み込む。街灯が順々に灯りをともすみたいにして、その熱が胃へと降りていった。
「要するに、それは」
咲はやっと口を開いてそこまで言ったのだが、そこでまた口を閉ざす。言葉がまとまらないようだった。
「そうだよ。想い出はそれぞれロープをつかんだ地点からしか見えない。まあ、事実という面で言えば想い出そのものは同じ想い出だよ。だとしても、咲には咲の、俺には俺の、それぞれの見え方があるし、理解の仕方がある。さらにそんな想い出を、ロープをたぐって自分に引き寄せて見てしまったりするんだ。そうやって解像度の上がって見えた想い出をつぶさに眺めて、涙を流してしまう。それってどういうことか。もうわかると思う。きつい言い方だけど、結局は独りよがりということなんだよな。独りよがりな心持ちで想い出を眺めたのだから、その想い出は自分だけの解釈を持った想い出にすぎないのに、自分が思っている意味しかないものとしての、いわば個人的な想い出を、みんなが共有している想い出なんだと勘違いしてしまう。そういうことなんだ」
咲はまだ思案しているのだろう、すこし厳しい顔つきになっている。
「それで、話を進めていくけどね、蒼太郎の死を悲しむことも独りよがりということになるんじゃないかと思うんだよ。自分だけの解釈をしている記憶を元にして勝手なイメージを蒼太郎に当てはめてしまい、彼の死は悲しい、としているんだから。もともとの、揺るぎない事実から自分の思うように生成した記憶も、そこからイメージを作り上げたのも、全てが自分なんだ。自分で作り上げたものを、悲しいと言っている。蒼太郎の死を悲しむ? そうさ、自分が彼の死をこの上なく悲しむために、演出までしているんだ。自分ではそれと気づかずにだけど。実際、悪意だって無いんだよ。だからこれは、突き詰めていくと、蒼太郎を失った自分が悲しい、ということにならないか。蒼太郎の死が悲しいんじゃない、蒼太郎の死に見舞われた自分自身こそが悲しいんだ。俺はさっき、想い出を辿って、味わい直して、蒼太郎のやったこと、言ったこと、姿や表情なんかを二人で懐かしもうって言ってしまったけど、考えてみるとこれは対症療法的な些細な効果しか得られないもので、根本から克服する方法ではないんだと思うんだよ」
「よくわからないな。自分を憐れんでいるだけっていうことなの? 私は蒼太郎の死を悲しいと思っている。それがそうじゃなくて、自己演出をして、そのために悲しむことになっているっていうの? 自作自演みたいに言わないで」
咲の強い言葉とは裏腹に、彼女の表情に表れた感情は乏しく、それまでの憔悴さえもがどうやら静止していることがわかった。それはまるで、十字路で呆然と、いま私はどこにいるんだっけ、と突然に見当を失ったかのように、そんな空虚さを咲は全身から漂わせていた。自分の感情の流れの、どこが上流でどちらが下流でといったような、自明のものとして知覚していたものが幻影だと気づかされたからだろう、と賢人は見てとった。
「無理もないことだと思うよ。人間はだれしも多かれ少なかれ、ほとんど無自覚にそういった傾向で生きている。俺も例外じゃない」
咲はますます青褪めていた。賢人は、彼女に気の毒なことをしている、と表面的な心理の層ではやましさを覚えていたが、それに勝る実感的想像のほうにこそ包み込まれるように支配されていた。その実感的想像とは、身体中を勢いよくめぐり続けている自分の血液は、咲を自分のパートナーにしたいという欲望の粒子を飽和近くまで溶かし込み貪婪さに充ち満ちていて、それを肯定している感覚だった。自分が思い、考え、行動している基盤にあるのは、己の渇きを満たすための欲望だという自覚が、否定されることなく芽生えていた。
咲の口元がわずかにわなないているのを賢人は見逃さなかった。このまま放っておけば、咲は元の自分に戻ろうとする。そういう力が働くに違いない。変化してしまってはいけない、と元々の自分の状態へ引きずり戻そうとする自身の力が働くだろうからだ。心理的な弾性、と賢人は言葉を当てはめた。負荷を跳ね返して元に戻る力。対するように、心理的可塑性、と賢人は思いつく。力が加わったことで変形したそのままの状態でいること。咲への負荷が、可塑的に作用すると、咲の心理はこのまま元に戻らず、あらたな形をとったままになる、あるいはそれ以上にもっと形を変えていくかもしれない。弾性が勝れば、咲は元の心理に戻る。自分が与えた可塑的変化が弾性に負けないよう、賢人は、なにか手を打たなければ、ときつく目を細める。目の色が暗く変化していることに、賢人自身は気づいていない。
「死は死でしかない。俺たちは、蒼太郎の死を都合よく弄んでいる。俺も、咲も、蒼太郎の死を、ああでもないこうでもない、と意味づけすることで蹂躙してしまったんじゃないだろうか。違うかい? それとも、凌辱したといったほうがいいのかもしれないか。咲、死は死なんだ。点のようなものだよ。もう意味づけするのは止めないか」
咲は涙を流す。混乱が増している、と賢人は考えた。咲の涙は止まる気配を感じさせないくらいの勢いで流れ出ている。彼女は口を小さく開くと、嗄れた小さな声で呟きはじめた。
「蒼太郎の死。死んだこと。死の意味って。わたしはそんなこと。死。蒼太郎の死。どうして。死は死でしかない?」
「死は死だ。そのままの意味に何も付け加えることはないよ。蒼太郎の死はただの死だ。死という状態に個性も個別性もない。死は死であるのだから、つまり、純然たる死を受け入れよう」
咲は頬を伝う涙をぬぐうこともしない。
「彼の人生が終わったこと、もう彼と関わり合えないこと、彼の考えを知ることができなくなったし、声すら聴けなくなったこと」
「純然たる死がもたらすものだよ」
「存在自体から醸し出されてくる、言葉にはならない感覚的な、蒼太郎独自だったものを、私はイマジネーションの中だけであっても再現するようにして感じたいのに」
「死は、眠らせておくに限る」
「死」
「それが死だよ」
感情に深く訴えて止まない事実だった蒼太郎の死が、いまや賢人には深い意味をなさない事実になった。それはまもなく、咲も同じようになるはずだ、と賢人は考えている。もはや蒼太郎の死は、咲にも賢人にも作用しないし、影響を与えない。蒼太郎から咲を奪いとるために踏み込むタイミングはここだ、と賢人は構えた
「自分の気持ちが平板に感じられてくるわ、あなたの言い分を聴いたせいで。あれだけ感情に訴えていた蒼太郎との想い出が、もう遠くへ過ぎ去っていったみたいに感じられる。望んでいないのに」
咲の鍵盤を容赦なく叩き続けた、蒼太郎の死が司る指先が止まったのだ。賢人は、話の流れをうまく運べたようだ、と思った。
「純然たる蒼太郎の死、というものを守るためなんだ。俺たちは、あまりにも誰かの死を混然とさせる。好き勝手に、色を塗る。自分の見たい場所に置く」
二人で話をしていたさきほどまで、蒼太郎の死は生きていた。それがどうやら、今しがた、死んでいった。二人の間で死が死んだことを、それに成功したことを、賢人は感じ取っていた。純然たる死とは、解体された死であることを、賢人はわかっていた。そして、解体への過程は、賢人が意欲的に望んで道筋をつけたものだった。
「死はたった今、死んでいった。ようやく本来の死の状態になった」
そのときの咲の様子が、彼女を自分になびかせようとしている賢人によっては、よからぬ印象へ変わった。敷いた道を逸れていることを瞬時に察知する。
「死が死んだ?」
彼女の視線が宙を彷徨うように、揺れている。勝手な意味をもたされた死が意味から解放され、これまで自身が意味を持たせていたことを理解した咲はきっと、諦めるという手段を選び、だんだん気持ちを落ち着かせ、平常に戻っていくはずだと賢人は推測していた。蒼太郎が死んだ日から今まで、乱れ続けた咲の気持ちの足を地面につけさせる。その重力を賢人はこの場でもたらす自信があったのだ。だが、目の前の彼女の様相は、予定とはかなり異なっている。咲は言った。
「もっと死を見てみて、賢人。死をじっと見てよ。感じるものは無い?」
死という一点だけを見つめる。それはまさに点なのだ、と納得する。なにも生み出さなくなる、なにも吐き出さなくなる、そうなることへの地点。だが、そうであっても、賢人にも感じられるものがある。それは、賢人にとっては逸らしてしまったほうがいいものだ。無視を決め込んでしまったほうがいいものだ。厳然として賢人にも感じられてしまっている、脱落感みたいなもの。
「喪失感」
賢人は意味を知らない言葉を片仮名で喋るみたいにしてその言葉を吐きだした。心理の穴だけがある。前を向いたとしても、死が解体されても、穴だけは歴然としてそこにある。
「そうよ。死が意味を失って、喪失感だけが重く残っているのよ。純然たる死って賢人は言ったけど、それは不完全な死なのよ。死はたぶん、点ではないの。私たちが生きているっていうその仕組み上、点としての死は、不完全で、近寄るべきではない危険なものだと分類されるような死なんじゃないの?」
手遅れだ、と賢人は思った。敷いた道は崩れ落ち、死は、画用紙に描き殴った「穴」の絵のようになった。それは、死という特異な地点。その人の生命が抜け落ちる地点。穴に底はあるのか、それとも穴の奥には行く先があって、どこかに続いているのだろうか。行く先があるのならば、蒼太郎はまだ旅をしている。だが、賢人は蒼太郎の旅を許さなかった。そういったことではなかったのか?
涙の止まった咲がこれまで見せたことの無いような、苦悶に醜く歪んだ顔つきになっている。賢人の感情は浮遊しだした。どうやら咲の表情からだけではなく、五感ではっきり把握できていないところからのなんらかの影響を受けているようだった。腹の中で、不穏に沸き立つなにかを感じる。
「咲の言う通りかもしれない」
「賢人の言ったことはある意味ではまやかしで、でも、もう二度と引き返せないところまで連れて来られてしまったような気がする」
その場から、言葉はもう、なにひとつ出てこなかった。
その土曜日の午後はそうやって過ぎていった。賢人は咲の部屋を出て、駅まで歩き、地上から地下へ潜っていく南北線に乗って帰路につき、自室でこれまでの時間を反芻しながら、自分の感情や考えを省みた。おそらく初めから失敗していたのだと思った。
翌日は日曜日で、出勤する日だった。かなり客の来店があるだろう特売日で忙しくなるはずの日だ。
穴の重力は薄らいでいる。働いている最中には感じられないほどになる。くたびれてやっと退勤し、帰路、外を歩いているときはまだ、職場にいたときの活気づいた気持ちが火照って残っているのだが、アパートの自室に着くと穴は、賢人の背後で待ちわびたように開きだしている気がしてならない。
賢人は咲と、同じ穴を宿す者同士として引き合い、再び語り合う日がくるのかもしれなかった。あるいは反発し合う、もしくは、双方が共に興味を失っていくものなのかもしれなかった。賢人の計画は消え去ってはいなかったが、これ以上、時が来るのを待っても仕方がないような気がした。
それから幾日か経ったある日の帰り道の途中、たまに寄り道する書店に寄って、昨年発刊されて話題になった村上春樹の新作長編を買って読んでみようかと賢人はぼんやり考えていた。久しぶりに彼の作品世界を味わいたい気分になったのだ。この今の気分から抜け出すには、彼の小説のほかに無さそうだから。
<了>
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