読書。
『ゴルギアス』 プラトン 中澤務 訳
を読んだ。
著者・プラトンの師匠である哲学者ソクラテスが活躍を綴った、対話型の哲学書です。タイトルになっているゴルギアスは人名で、当時著名だった弁論家です。著作も残っているほどで、弁論術の大家として広く知られ、弟子も多かったようです。また、余談ですが、100歳を超えて天寿を全うしたという説もあるそうです。BC400年前後の古代ギリシャ世界時代って、どんなふうだったのかあまり想像できないのですが、ソクラテスが刑死したのが70歳ですし、プラトンが病死したのが80歳です。なかなか豊かな時代だったのでしょうか?
さて、本書は弁論術を批判する本です。それも、ソクラテスが屁理屈に近いような論駁を激しく繰り返されながら、しつこくそれに相対していく姿が描かれています。その様は、本書の帯に「怒りの対話篇」とあるほどです。では、引用を中心にしながら内容にふれていきます。長めの記事になっております。
ソクラテスは、弁論家とは何か、との議論で「知らない者が、知っている者より、知らないひとたちのまえで、大きな説得力を持つ(p62)」とまとめています。対して弁論家ゴルギアスは言います、「ほかの技術などなにも学ばずとも、ただこの技術だけを学んでおけば、専門家にまったくひけをとらない(p62)」
この箇所はわかりやすいですが、もっと微妙なところを細心の注意で仕分けするように分析する議論が前後にあります。二千年以上前に考えられ書き残された考察が、まだまだ現代の問題を取り扱っていると、ここの箇所だけでも思いませんか。このあとさらに思考の範囲を広げながら、弁論術とはどういうものかをあぶり出していきます。
弁論術は、他人を支配するもの、言いくるめるもの、聴く者におもねり道筋をつけ誘導していくもの、とされます。ソクラテスが好むのはそういった「弁論術」ではなく、「議論」のほう。「お互いに学んだり教えたりしながら、うまく議論を終わらせるのは、容易にできることではありません(p56)」「このひとは議論に勝ちたいだけで、議論で問題になっていることを探求する気などないのだと思ってしまうのです。(p56)」としながら、そういった議論というものの理想形を目指しているふうなのが読み取れます。
最終の第三幕。ソクラテスがカリクレスにさんざん言われているシーンがあります(第三幕「カリクレス編」は序盤から丁々発止な応酬で、読んでると「うひひひ」というような笑みがこぼれてくるほど刺さってきてすごいです)。哲学なんて若者のすることでいい歳してまだ哲学しているなんて大人を見たら、あまりに大人げなくて殴りつけたくなる、と。
哲学にいい歳してまでふけっていると、自分で自分のことも守れない人間になっているし、社交場でのふるまいも知らなくて恥ずかしい。財産や名声を持つように励め、実生活を生きる技能を磨け、たくさんのよきものを持つものを見習うのだ、と、カリクレスはソクラテスに迫っていました。
カリクレスは、強い者が奪って何が悪いのだ、という考え方。また、不正をするほうよりも不正をされるほうが悪い、とする立場。この本の舞台、古代ギリシャでは不正はされるほうが悪い、というのが一般的ぽいし、今日でも、盗まれるのは本人が悪い、と特に外国ではそうなるなんて言いますね。日本でもそういう傾向はあるのではないでしょうか。
ソクラテスはカリクレスに、きみには知識、好意、率直さがある、と返します。たいていの人は、そうやって真実を話してなんかくれない、ぼくのことを心配してくれないからだ、と。つまり、ここではとてもシンプルに、「心配」は、「知識と好意と率直さ」由来の行いだと考えられるようにでてくる。
ちょっと横道にそれてしまいますが、「心配」ってなんだろうか、と考えていると、ソクラテスの返答って的を射ているなあと思いました。心配していることが興味や好奇心に見えるときは、その心配はおそらくこじれているし、憐みにまで感じられるときは、もっとこじれた心配なのではないでしょうか。興味や好奇心、憐みの情で見られたいとはなかなか思いませんからね。たぶん心配って、好意の段階でストップするべきなんです。
閑話休題。
引用していきます。
__________
カリクレス:(前略)ソクラテスさん。あなたは真実を追求するという。ですがね、これが真実なのですよ。つまり、贅沢をして、放埓に(欲望のままに)ふるまい、そして何ものにも束縛されないこと。[それを実現するための]しっかりとした後ろ盾を持つなら、それこそが徳であり、しあわせなのです。それ以外のあの飾りもの、つまり人間たちが自然に反して取りきめたことなんて、無意味で、なんの価値もないのです。(p188)
ソクラテス:(前略)さて、そんな愚か者たちにあっては、欲望で満ちた魂の部分は、放埓でしまりがない。それを見てとった彼(機知にとんだとあるイタリア人)は、その部分を穴のあいた大甕になぞらえた。いついなっても満たされることがないからね。(中略)そのような<秘儀を受けぬ者(=愚か者)>たちが、最もあわれなのだとね。だって、彼らは、穴のあいた大甕に、せっせと水を運び続けているのだから。しかも、同じように穴だらけの容器、すなわち、ざるを使ってね。(p190-191)
__________
→ソクラテスは、人間は節度を持ち、自分で自分に打ち勝って、自分のなかの快楽や欲望を支配することが大切だと説きます。それに対してカリクレスが上記引用のように、欲望のまま、思うままにふるまい、生きることこそがしあわせなのだ、とその考え方をストレートに表現したのですが、これは現代の経済偏重な考え方に鋭く通じていると思います(「神の見えざる手」を仮定して、人は自由にふるまえ、欲望のままに行動するんだ、と現代資本主義社会は経済学によってそう肯定されました。これによって、カリクレスのような考え方が再浮上した、みたいな現代だったりするかもしれません)。そしてソクラテスは、そんな考え方は、穴のあいた大甕と同じで、いくら注ぎ続けても満たされることはないのだと、たとえ話で論駁しています。
次にいきます。
__________
どうしようもなくろくでなしの人間は、権力者たちのなかから生まれてくるものなのだよ。もちろん、そのような権力者たちのなかに、すぐれた人物があらわれたとしても、なんらおかしくはないし、もしあらわれたら賞賛に値する。だって、とても難しいことではないか、カリクレスくん。だから賞賛に値するのだよ。なにしろ、不正をおこなえるだけの強大な力を持ちながら、生涯を通じて正しく生きるというのだから。(p316)
__________
→政治家は、その政治家的生において、だれかかから不正をされることや、自分が不正をしたときに罰せられてしまうことを最大の悪と考え、弁論術の力で、そうした悪から逃れようとするのです。自分の身を守ることが第一とするのが政治家的生なのでした(p390-391「解説」より抽出)。だから、上記の引用のように、政治家的生≒権力者からどうしようもないろくでなしの人間が生まれてくる、と言っているのです。
__________
それでは、政治家は何をなすべきなのでしょうか。ソクラテスの考えでは、政治家の使命とは、国と市民たちの世話をして、できるだけよいものにすることです。ですが、政治家はこの理念を実現できているのでしょうか。(p392-393「解説」より)
__________
→政治家が、自信の欲望を満たし、国を肥え太らせる、そのように奉仕するような政治家をソクラテスは非難します。また、見るべきところとしては、「国と市民たちの世話をして」だけではなく、そのあとに続く「できるだけよいものにする」が大切なのでした。前者だけならば、それも追従的な奉仕です。後者の、国も市民もよいものにしていく、というところが、それが良い政治なのかそうじゃないのかを見極めるポイントになります。
最後は、気になった部分をいくつか箇条書き的に記します。
p255前後。
「不正をする側が悪いのか、不正をされる側が悪いのか」と「哲学にいい歳してまでふけっていると、自分で自分のことも守れない人になっている」の別々の話題がひとつになる。自分で自分を守れないっていうのは、不正をされてしまうということにあたるのだ、となります。そして「自分のことも守れない」のところでは不正をされる側のほうが悪いのだという論調になっている。これは、僕のような人からすると、あまりにあんまりだなあという感想を持つ箇所です。
ソクラテスの言う「本当に悪いこと」は、不正をして、さらに罰せられないほうでした。つまりは、差別をしたり馬鹿にしたり殴りつけたりするほうがまず不正にあたるのだし、それが罰せられないでいる人こそがもっとも悪い。悪い、というのはもっとも不幸せな状態である、という意味でした。
あと、意外だったのが、ソクラテスは、音楽や創作を程度の低いものとみなしている感じですね。これは古代ギリシャ時代の価値観として強かったのかなあとも思いました。音楽なんかは「快」に関わるものだから価値が低いとされてしまいます(そう考えると、現代でもそういうところはありますね)。彼は節度の人ですから。自分自身の秩序が保たれていると節度が生まれ、節度があると他人にも適切にふるまうことができ、それゆえに、正しく、敬虔で、勇気があることになる、とソクラテスは考えます。そして、そういった人は、あらゆることをよくなすことができるので、しあわせな人間だとなるのでした。
というところです。
二千年以上前の古代アテネの状況を踏まえたプラトンが、本書『ゴルギアス』という布石を打ってくれたわけで、現在でもこういった弁論の問題ってあるなかで、二千年以上前のアテネの状況との違いはその布石があるかないかだと思うんです。だったら、大いに『ゴルギアス』は活かされるとよい本ではないでしょうか。
光文社古典新訳文庫版は文章が読みやすいし、注釈をその都度参照できて、わざわざ巻末まで辿らないといけないタイプではなく、親切なつくりなので、気軽な感覚で古典に親しみやすいです。おすすめです。
『ゴルギアス』 プラトン 中澤務 訳
を読んだ。
著者・プラトンの師匠である哲学者ソクラテスが活躍を綴った、対話型の哲学書です。タイトルになっているゴルギアスは人名で、当時著名だった弁論家です。著作も残っているほどで、弁論術の大家として広く知られ、弟子も多かったようです。また、余談ですが、100歳を超えて天寿を全うしたという説もあるそうです。BC400年前後の古代ギリシャ世界時代って、どんなふうだったのかあまり想像できないのですが、ソクラテスが刑死したのが70歳ですし、プラトンが病死したのが80歳です。なかなか豊かな時代だったのでしょうか?
さて、本書は弁論術を批判する本です。それも、ソクラテスが屁理屈に近いような論駁を激しく繰り返されながら、しつこくそれに相対していく姿が描かれています。その様は、本書の帯に「怒りの対話篇」とあるほどです。では、引用を中心にしながら内容にふれていきます。長めの記事になっております。
ソクラテスは、弁論家とは何か、との議論で「知らない者が、知っている者より、知らないひとたちのまえで、大きな説得力を持つ(p62)」とまとめています。対して弁論家ゴルギアスは言います、「ほかの技術などなにも学ばずとも、ただこの技術だけを学んでおけば、専門家にまったくひけをとらない(p62)」
この箇所はわかりやすいですが、もっと微妙なところを細心の注意で仕分けするように分析する議論が前後にあります。二千年以上前に考えられ書き残された考察が、まだまだ現代の問題を取り扱っていると、ここの箇所だけでも思いませんか。このあとさらに思考の範囲を広げながら、弁論術とはどういうものかをあぶり出していきます。
弁論術は、他人を支配するもの、言いくるめるもの、聴く者におもねり道筋をつけ誘導していくもの、とされます。ソクラテスが好むのはそういった「弁論術」ではなく、「議論」のほう。「お互いに学んだり教えたりしながら、うまく議論を終わらせるのは、容易にできることではありません(p56)」「このひとは議論に勝ちたいだけで、議論で問題になっていることを探求する気などないのだと思ってしまうのです。(p56)」としながら、そういった議論というものの理想形を目指しているふうなのが読み取れます。
最終の第三幕。ソクラテスがカリクレスにさんざん言われているシーンがあります(第三幕「カリクレス編」は序盤から丁々発止な応酬で、読んでると「うひひひ」というような笑みがこぼれてくるほど刺さってきてすごいです)。哲学なんて若者のすることでいい歳してまだ哲学しているなんて大人を見たら、あまりに大人げなくて殴りつけたくなる、と。
哲学にいい歳してまでふけっていると、自分で自分のことも守れない人間になっているし、社交場でのふるまいも知らなくて恥ずかしい。財産や名声を持つように励め、実生活を生きる技能を磨け、たくさんのよきものを持つものを見習うのだ、と、カリクレスはソクラテスに迫っていました。
カリクレスは、強い者が奪って何が悪いのだ、という考え方。また、不正をするほうよりも不正をされるほうが悪い、とする立場。この本の舞台、古代ギリシャでは不正はされるほうが悪い、というのが一般的ぽいし、今日でも、盗まれるのは本人が悪い、と特に外国ではそうなるなんて言いますね。日本でもそういう傾向はあるのではないでしょうか。
ソクラテスはカリクレスに、きみには知識、好意、率直さがある、と返します。たいていの人は、そうやって真実を話してなんかくれない、ぼくのことを心配してくれないからだ、と。つまり、ここではとてもシンプルに、「心配」は、「知識と好意と率直さ」由来の行いだと考えられるようにでてくる。
ちょっと横道にそれてしまいますが、「心配」ってなんだろうか、と考えていると、ソクラテスの返答って的を射ているなあと思いました。心配していることが興味や好奇心に見えるときは、その心配はおそらくこじれているし、憐みにまで感じられるときは、もっとこじれた心配なのではないでしょうか。興味や好奇心、憐みの情で見られたいとはなかなか思いませんからね。たぶん心配って、好意の段階でストップするべきなんです。
閑話休題。
引用していきます。
__________
カリクレス:(前略)ソクラテスさん。あなたは真実を追求するという。ですがね、これが真実なのですよ。つまり、贅沢をして、放埓に(欲望のままに)ふるまい、そして何ものにも束縛されないこと。[それを実現するための]しっかりとした後ろ盾を持つなら、それこそが徳であり、しあわせなのです。それ以外のあの飾りもの、つまり人間たちが自然に反して取りきめたことなんて、無意味で、なんの価値もないのです。(p188)
ソクラテス:(前略)さて、そんな愚か者たちにあっては、欲望で満ちた魂の部分は、放埓でしまりがない。それを見てとった彼(機知にとんだとあるイタリア人)は、その部分を穴のあいた大甕になぞらえた。いついなっても満たされることがないからね。(中略)そのような<秘儀を受けぬ者(=愚か者)>たちが、最もあわれなのだとね。だって、彼らは、穴のあいた大甕に、せっせと水を運び続けているのだから。しかも、同じように穴だらけの容器、すなわち、ざるを使ってね。(p190-191)
__________
→ソクラテスは、人間は節度を持ち、自分で自分に打ち勝って、自分のなかの快楽や欲望を支配することが大切だと説きます。それに対してカリクレスが上記引用のように、欲望のまま、思うままにふるまい、生きることこそがしあわせなのだ、とその考え方をストレートに表現したのですが、これは現代の経済偏重な考え方に鋭く通じていると思います(「神の見えざる手」を仮定して、人は自由にふるまえ、欲望のままに行動するんだ、と現代資本主義社会は経済学によってそう肯定されました。これによって、カリクレスのような考え方が再浮上した、みたいな現代だったりするかもしれません)。そしてソクラテスは、そんな考え方は、穴のあいた大甕と同じで、いくら注ぎ続けても満たされることはないのだと、たとえ話で論駁しています。
次にいきます。
__________
どうしようもなくろくでなしの人間は、権力者たちのなかから生まれてくるものなのだよ。もちろん、そのような権力者たちのなかに、すぐれた人物があらわれたとしても、なんらおかしくはないし、もしあらわれたら賞賛に値する。だって、とても難しいことではないか、カリクレスくん。だから賞賛に値するのだよ。なにしろ、不正をおこなえるだけの強大な力を持ちながら、生涯を通じて正しく生きるというのだから。(p316)
__________
→政治家は、その政治家的生において、だれかかから不正をされることや、自分が不正をしたときに罰せられてしまうことを最大の悪と考え、弁論術の力で、そうした悪から逃れようとするのです。自分の身を守ることが第一とするのが政治家的生なのでした(p390-391「解説」より抽出)。だから、上記の引用のように、政治家的生≒権力者からどうしようもないろくでなしの人間が生まれてくる、と言っているのです。
__________
それでは、政治家は何をなすべきなのでしょうか。ソクラテスの考えでは、政治家の使命とは、国と市民たちの世話をして、できるだけよいものにすることです。ですが、政治家はこの理念を実現できているのでしょうか。(p392-393「解説」より)
__________
→政治家が、自信の欲望を満たし、国を肥え太らせる、そのように奉仕するような政治家をソクラテスは非難します。また、見るべきところとしては、「国と市民たちの世話をして」だけではなく、そのあとに続く「できるだけよいものにする」が大切なのでした。前者だけならば、それも追従的な奉仕です。後者の、国も市民もよいものにしていく、というところが、それが良い政治なのかそうじゃないのかを見極めるポイントになります。
最後は、気になった部分をいくつか箇条書き的に記します。
p255前後。
「不正をする側が悪いのか、不正をされる側が悪いのか」と「哲学にいい歳してまでふけっていると、自分で自分のことも守れない人になっている」の別々の話題がひとつになる。自分で自分を守れないっていうのは、不正をされてしまうということにあたるのだ、となります。そして「自分のことも守れない」のところでは不正をされる側のほうが悪いのだという論調になっている。これは、僕のような人からすると、あまりにあんまりだなあという感想を持つ箇所です。
ソクラテスの言う「本当に悪いこと」は、不正をして、さらに罰せられないほうでした。つまりは、差別をしたり馬鹿にしたり殴りつけたりするほうがまず不正にあたるのだし、それが罰せられないでいる人こそがもっとも悪い。悪い、というのはもっとも不幸せな状態である、という意味でした。
あと、意外だったのが、ソクラテスは、音楽や創作を程度の低いものとみなしている感じですね。これは古代ギリシャ時代の価値観として強かったのかなあとも思いました。音楽なんかは「快」に関わるものだから価値が低いとされてしまいます(そう考えると、現代でもそういうところはありますね)。彼は節度の人ですから。自分自身の秩序が保たれていると節度が生まれ、節度があると他人にも適切にふるまうことができ、それゆえに、正しく、敬虔で、勇気があることになる、とソクラテスは考えます。そして、そういった人は、あらゆることをよくなすことができるので、しあわせな人間だとなるのでした。
というところです。
二千年以上前の古代アテネの状況を踏まえたプラトンが、本書『ゴルギアス』という布石を打ってくれたわけで、現在でもこういった弁論の問題ってあるなかで、二千年以上前のアテネの状況との違いはその布石があるかないかだと思うんです。だったら、大いに『ゴルギアス』は活かされるとよい本ではないでしょうか。
光文社古典新訳文庫版は文章が読みやすいし、注釈をその都度参照できて、わざわざ巻末まで辿らないといけないタイプではなく、親切なつくりなので、気軽な感覚で古典に親しみやすいです。おすすめです。
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