wikipediaより=化粧坂
> その外側の道も不明であり、明治15年の帝国陸軍のフランス式1/20000
> 地図には梶原方面への道が一番太いが、その他に洲埼方面への尾根沿
> いの道、また北鎌倉方面への数本の道、また北条常盤亭方面への尾根
> 道も記載されており、尾根道の交差点であるかのような姿となっている。
上記には、化粧坂を登った処から次の方面に行く道が書かれています。
■梶原方面
■洲埼方面
■北条常盤亭方面
■北鎌倉方面
(北鎌倉方面)
山ノ内配水池の脇から、北鎌女子グランドの土橋、水堰橋へ向かう道が明治の地図に在り桃色破線で記しました。
北鎌女子グランド周辺で掘り返すと3m余の道が現れたそうです。
水堰橋⇒北鎌女子グランド⇒化粧坂を結ぶ最短距離の道です。化粧坂に対応した道であり、伝承にも有る水堰橋から鎌倉市内に入る化粧坂に対応した道幅で、鎌倉城の大手道、中の道などと呼ばれた道と考えるのです。
その他の道は無いか?
尾根上は総てに道が在り、兵を配置する為に使ったと考えています。
それらの路は水色で記しました。
(洲埼方面)
山ノ内配水池の脇から、梶原や山崎に向かう尾根道は団地となり消滅したが「かまくら子供風土記」鎌倉市教育研究所発行 によると、この道幅は1~1m半であると書かれている。道幅は狭く街道とは考えられない。兵を配置する為の道と考えています。
(大船方面)
北鎌女子グランドから、台峰を西の天神山方面へ道が在るが、道幅は狭く屈曲とアップダウンがあり、兵を送る道と考えられ山崎切通し(魯山人の愛した臥龍峡)にて断ち切られている。(現在は峰から下りる道は有ります。)
大仏に向かう道はハイキングコースでもあり赤い破線で記しました(北条常盤亭方面)。街道としての道の格はなく、峰通しの兵の移動に使う道ですね、、、
(梶原方面)
唯一梶原方面の道は尾根道ではなく谷の道であり、平安若しくは奈良時代の駅路を想定できる路ですが、、、
その様な路は鎌倉時代に意識して消し去った訳です。
目立たぬ様に消し去った訳ですから、その痕跡を目の前に見せても巨大すぎて道跡とは思わない処が凄いところです。
問題はどの様に消滅させたか??
それを考察する為に大鎌倉城の構造を知る必要に迫られた。
地図は、明治15年迅速図に桃色の線で化粧坂から、中の路と考えられる路を水堰橋まで、加筆した。
> その外側の道も不明であり、明治15年の帝国陸軍のフランス式1/20000
> 地図には梶原方面への道が一番太いが、その他に洲埼方面への尾根沿
> いの道、また北鎌倉方面への数本の道、また北条常盤亭方面への尾根
> 道も記載されており、尾根道の交差点であるかのような姿となっている。
上記には、化粧坂を登った処から次の方面に行く道が書かれています。
■梶原方面
■洲埼方面
■北条常盤亭方面
■北鎌倉方面
(北鎌倉方面)
山ノ内配水池の脇から、北鎌女子グランドの土橋、水堰橋へ向かう道が明治の地図に在り桃色破線で記しました。
北鎌女子グランド周辺で掘り返すと3m余の道が現れたそうです。
水堰橋⇒北鎌女子グランド⇒化粧坂を結ぶ最短距離の道です。化粧坂に対応した道であり、伝承にも有る水堰橋から鎌倉市内に入る化粧坂に対応した道幅で、鎌倉城の大手道、中の道などと呼ばれた道と考えるのです。
その他の道は無いか?
尾根上は総てに道が在り、兵を配置する為に使ったと考えています。
それらの路は水色で記しました。
(洲埼方面)
山ノ内配水池の脇から、梶原や山崎に向かう尾根道は団地となり消滅したが「かまくら子供風土記」鎌倉市教育研究所発行 によると、この道幅は1~1m半であると書かれている。道幅は狭く街道とは考えられない。兵を配置する為の道と考えています。
(大船方面)
北鎌女子グランドから、台峰を西の天神山方面へ道が在るが、道幅は狭く屈曲とアップダウンがあり、兵を送る道と考えられ山崎切通し(魯山人の愛した臥龍峡)にて断ち切られている。(現在は峰から下りる道は有ります。)
大仏に向かう道はハイキングコースでもあり赤い破線で記しました(北条常盤亭方面)。街道としての道の格はなく、峰通しの兵の移動に使う道ですね、、、
(梶原方面)
唯一梶原方面の道は尾根道ではなく谷の道であり、平安若しくは奈良時代の駅路を想定できる路ですが、、、
その様な路は鎌倉時代に意識して消し去った訳です。
目立たぬ様に消し去った訳ですから、その痕跡を目の前に見せても巨大すぎて道跡とは思わない処が凄いところです。
問題はどの様に消滅させたか??
それを考察する為に大鎌倉城の構造を知る必要に迫られた。
地図は、明治15年迅速図に桃色の線で化粧坂から、中の路と考えられる路を水堰橋まで、加筆した。