鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

大鎌倉城 化粧坂編 3

2012年09月20日 | 切通し
化粧坂は何処に?
道幅からして、鎌倉以前より存在した道と考えられ、鎌倉期に道幅を狭めた。
その道は、太平記、梅松論の記述から「化粧坂」の実態が浮かんできます。

新田義貞が、鎌倉攻めで最重要視したのが化粧坂でその人数から重要度が理解できる。

太平記より、攻防する兵の数は、
新田勢六十万七千余騎
 十万余騎、極楽寺の切通へぞ向はれける
 十万余騎、巨福呂坂へ指向らる
 五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける
鎌倉勢二十四万騎
 三万余騎にて粧坂を堅め
 五万余騎、極楽寺の切通を堅め
 六万余騎にて、州崎の敵に被向
 十万騎を 予備軍として鎌倉中に待機。

新田軍の本隊五十万七千余騎(大半)は化粧坂を攻撃した。
本隊が最初に戦うのは、州崎で待ち構える鎌倉軍六万余騎であり、五月十八日に攻撃が始まった。
「晩程に州崎一番に破れて、義貞の官軍は山内まで入にけり。」と言う結果で、鎌倉勢六万余騎は、10倍の新田勢に一日で敗れ、新田軍は山内(山崎)に入った。
山内荘園の南端が山崎で、この山崎が攻撃に重要な武蔵大路の場所となる。
化粧坂から伸びた峰が「台峰」と呼ばれ、鎌倉城の大手道であり、北に降り口が有り堰水橋があり、ここも山内でこの谷は円覚寺、建長寺、巨福呂坂続く。
台峰の南は山内の南端で天神山があり、梅松論より武蔵大路の赤橋氏が守った場所で、更に奥は倉久保ノ谷戸で化粧坂がある。
別な見方をすれば、
新田軍は鎌倉の大手道のある台峰を北の巨福呂坂軍と南の粧坂軍で挟み撃ちに出来る陣取りです。

梅松論「武蔵路は相摸守守時(=赤橋氏)、すさき千代塚において合戦を致しける」
山崎は天神山の麓であり、武蔵路の守りに赤橋が天神山に陣を構えたと梅松論に書かれた場所です。
桐生六郎が報奨目当てに主人の首を持ち鎌倉に着いたが市内に入れず、武蔵路より深澤を経て、腰越に向かい、挙句の果ては、腰越で首をはねられた。
鎌倉外の武蔵路の場所を示す根拠になる文章です。
新田軍は州崎より武蔵路を守る天神山(山崎)へ=桐生六郎は深沢(州崎)より武蔵路(天神山麓山崎)へ
新田軍の逆コースを桐生六郎が歩いた訳です。

以上の文からキーワードを探し、話を展開するのです。

■新田義貞の認識は「化粧坂を、山内(山崎)から攻め込める」と考え州崎を攻撃した。
■鎌倉勢の考えは天神山に陣を置く事で武蔵路を守れる。っと考えている。
■新田勢は軍を3手に別け、18日にこの3軍が別行動したと考えれば、巨福呂坂軍(十万余騎)は、州崎ではなく、台峰の北側(現在の小袋谷)を巨福呂坂に向け別行動をしたと考えられる。
深読みをせず、言葉通りに解釈しています。(文献の書き手で言葉の意味は違う)
よって、太平記の巨福呂坂は、台峯の北側の通り、山内は天神山の麓辺りの台峯の南側山崎を考えています。
 新田軍本隊が化粧坂を攻め、敵を引き寄せている間に、極楽寺軍と巨福呂坂軍は
鎌倉軍の裏を攻める計画と考えられます。巨福呂坂軍は北鎌倉駅前(これも山内)を通り亀ヶ谷と巨福呂坂へ進軍ですが、その途中は堰水橋橋、瓜ヶ谷等の、台峰の北が在ります。

この文の真意は、新田軍は化粧坂をドノ様に考えて攻めたのか?同様に鎌倉軍の考えは?
そこから導き出されるのは、それ以前に在ったであろう、、古代の巨大道路であり、、其処が新田軍の考えた鎌倉城の攻略法と考えるのです。
実際に起きた事は、その場所には鎌倉軍が待ち構えて攻め崩すことが出来なかった。

写真は、
新田義貞が鎌倉に向け攻撃を開始した柏尾川西岸にある兜岩(神戸製鋼敷地内、同敷地内より、鎌倉攻撃の際作られたと思われる橋脚遺構が見つかる)
ココから川を越え州崎を攻める。
コメント
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