鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

相模の古代東海道 9下大槻峰

2016年01月12日 | 古代東海道
2016-01-12 14:21:15

上記は 小方武雄氏の文献ですが、
年代と、その故事の解説は信頼できます。
646年(大化2年)改新詔に「駅馬,伝馬」の話が有り、この時代の東海道の道筋が目的です。
理由は、道幅が中路規格の9mは初期の駅路であり、後期の幅を狭めた官路との時代の区別が付けられる。
改新詔(646年)より100年以上後 771年(宝亀2) 武蔵国が東海道へ編入された駅路や延喜式(905年 延喜5年)の駅路とも道幅を根拠に区別をする事が出来る訳です。
特に武蔵国が東海道へ編入された駅路としては、相模川を渡り茅ヶ崎より北上すると言う考えは、
初期の駅路の直進性とは相容れない話です。
更に、道幅9mは初期の駅路基準で、直線性が特徴です。
道が曲がるのは、、、もっと後の年代のハズ!
合理的な考えから外れています。


現地説明会の「西方面は豊田本郷の南をかすめて、広川あたりから南下して大磯の国府本郷を経て国府津、足柄峠へ向かう。」は確実な根拠を以って話を展開しましょう。
現実の道路遺構は、秦野の方向と考えるのが順当でしょ?
秦野に「大道」の地名が有り、平塚の古代東海道遺構はその方向を向いている。
更に重要な根拠がを示しましょう!

◆秦野市下大槻峯(1999年)、東名高速道を斜めに横切る形で古代の道路跡が見つかっている。
〉調査報告
〉 規模は総延長160mで南にゆるく湾曲しながら東西方向に伸びて、
〉検出された硬化面の最大幅は9mだが、単独で存在するのではなく少
〉なくとも7回にわたって重複・シフトを繰り返している。
〉各硬化面の幅は2~3m程度である。舗装など普請や、波板状凹凸面
〉は見られない。
〉側溝は検出されない。道路跡を挟んで両側に竪穴住居や掘立柱建物か
〉らなる居住域が広がっている。
    中 略 、 、 、
〉 時代的には下大槻峯遺跡におけるヒトの活動痕跡は5世紀後半から
〉であるが、道路遺跡がこの時代からここに存在していたかどうかは不
〉明である。
〉6世紀前半には前身的道路が存在していたと思われるが、確実な年代
〉は7世紀後半からである。
〉 幅が10mを超える規模やわずかに湾曲するが、その直線基調からし
〉て、官道としたいところであるが、坂本駅〉に続く小総駅が海岸付近に
〉想定される
ことから、想定駅路のルートから外れ、また、この付近を
〉通過する想定伝路もないことから、官道だとは認めがたい。
〉(下大槻峯遺跡III=かながわ考古学財団調査報告53より)発行年1999
〉平成11年:1999b『下大槻峯遺跡3』

   この文の問題点です。
一、幅が10mを超える規模やわずかに湾曲するが、その直線基調からして、官道としたいところであるが、
二、〈坂本駅〉に続く小総駅が海岸付近に想定されることから、想定駅路のルートから外れ、
三、また、この付近を通過する想定伝路もないことから、官道だとは認めがたい。


一、は、官道の規模が十分にある事を認めている。
二、では「小総駅が海岸付近 」に在る筈!この場所を通る道は発見されたのか??
三、官道でなければ、、、何でしょうか?????


何とも非科学的で「否定する根拠が薄弱な」文章です。
二は小総駅が在る筈!であり、発見もされなければその周囲に道路跡等も不明のままです。
三の話は、単なる何処かの偉い方の憶測なのでしょう根拠がアヤフヤです。
確実なのは
「下大槻峯遺跡」から古代東海道に相当する道路遺構が足柄峠と平塚の道路遺構の中間点で発見された! と言う事です。

こんな研究発表が学術の場で議論されているなら、悲しい限りです。
年代の想定は根拠も無く、詳細不明。「小総駅」は出土をしているのでしょうか?憶測でしょうか??文献はどの程度詳細に述べられているのでしょうか?
その様な根拠を提示されないまま、この道路遺構は官道を否定された。
  以上の結果より、「ぼ輔」の説としては、
坂本駅から、海ではなく山側の秦野盆地を迂回して、秦野市大道、下大槻峯
平塚東中原道路遺構にラインが浮き上がる!
コメント (1)
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