鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城の城壁 5

2016年12月06日 | 大鎌倉城
上図は、稲村より化粧坂迄の地図で、七口を結ぶ防衛ラインを青色で示しました。
防衛ラインの左手(西側)下は、鎌倉を守る城壁に当たる切岸です。
  (うにゅー)さんが、「尾根の周りに真っ黒な縁取り(つまりは急斜面=断崖)だらけ」の様だと称した切岸の崖で、この為に新田義貞は、鎌倉市内に入れなかったのです。
 昔から存在する切岸を、太平記では新田勢五十万七千余騎が『粧坂』に攻めよせた。
鎌倉勢は、三万騎で守り新田勢を喰い止めた!
19倍の新田勢を鎌倉軍は攻め込ませなかった!
その理由は、、、、
平場の戦いなら、19倍の敵には一蹴されるでしょうが、、、
それだけ、鎌倉側には城の効果が味方していた訳です。

   理屈に合わない変な事は、
鎌倉軍六万余騎の大将赤橋前相摸守盛時が州崎で何故1日しか耐えられなかったのか?
大将赤橋が鎌倉を潰した張本人かもしれない。
戦い方の戦法が幼稚な大将であった事は、太平記を読めば判る事です。
大将赤橋は、自分のメンツにコダワリ戦略の無いまま、城を活用する事無く昔ながらの戦いをした!
言い方を変えれば、
10倍の敵に対して、平場の戦いをして自滅した愚かな大将でした。

太平記には、
〉赤橋相摸守、今朝は州崎へ被向たりけるが、此陣の軍剛して、
〉一日一夜の其間に、六十五度まで切合たり。されば数万騎有つ
〉る郎従も、討れ落失る程に、僅に残る其勢三百余騎にぞ成にける。

 この「六十五度まで切合たり。」は、砦を守る戦法ではなく、騎馬隊で新田軍に切り込んだ状況の説明とその戦いで数万騎の兵士を失った! と私には読める。

〉其故は、盛時足利殿に女性方の縁に成ぬる間、相摸殿を奉始、
〉一家の人々、さこそ心をも置給らめ。

 赤橋相摸守の言い訳は、敵の足利氏の縁がある妻を娶ったのでその疑いを晴らす為に勇敢に戦った処を誇示したかった為にこの様な戦法を採ったと考えられます。

〉我何の面目か有て、堅めたる陣を引て而も嫌疑の中に且く命を可惜。

 更に言い訳は続き、負けて陣を引いて生延びても疑いの目で見られるのは耐えられない!

要は「赤橋相摸守」は、戦いに勝つことが目的ではなく、自身が勇敢に戦った事を見せる為に出陣した愚かな武将であった!
   っと私には読めるのです。
コメント
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