片瀬の龍口寺から金沢八景まで、、、鎌倉城の可能性を考えます。
素朴な疑問さんのコメントのお陰で、、、
鎌倉石を使った土塁が存在し、元寇防塁相当なものが有り、、、
異常に防御的な海側に出入り口の有る屋敷の存在を文書から確認できました。
それらの造られた年代が今回のテーマです。
「有隣」平成15年9月10日 第430号
〉13世紀の後半期には、山稜部に要害遺構もつくられ、
〉由比ヶ浜南遺跡の大規模な建物も建てられた。
〉頼朝が鎌倉に入るときに、要害の地として築いたの
〉ではなくて、もっと時代が下がった13世紀の後半に
〉なって初めて鎌倉の山に人工的な手を加えて、要害
〉遺構をつくったということが、今回わかったわけで
〉す。
この文面には、何度も「要害遺構が山稜部につくられたのは13世紀後半!」と書かれている。
具体的には西暦1250年から1300年の間と言う事です。
元寇の年は、文永の役が1274年と言う訳ですから、、年代的にも整合します。
この年代に、
山稜部が要塞化の工作がされた。
海には「異様に防御的に造られた生活臭のない屋敷」が作られた。
屋敷の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。
これで、一応は鎌倉の街を守る防備準備は出来た訳ですが、、、
海の防備が破られた時には、街の内側にある切岸が次の防衛ラインに成る訳です。
鎌倉市街に向けた崖は、住宅用の平地確保の為ではなく、切岸であり、峰に登らせない為の一貫した工作が峰の内側(鎌倉市街地に向き。)にされているのが根拠です。