鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

長窪の砦2

2018年10月12日 | 大鎌倉城
この二つの切通は、高野地区に有ります。
よって「高野の切通」と呼ばれると、どちらの切通? っと迷います。
高野地区と大船地区の境界に有るのが高野の切通と呼ばれますが「大船の切通」とも言います。
長窪に行く為の道を「長窪の切通」と言いますが、高野地区に在り 脇は高野公園です。
混乱を招く呼称で注意が必要です。
正確な切通の呼称で有るか? 俗称なのかは不明です。

上記地図の緑色の点線は切通です。


近年の長窪砦です。
傾斜量図と空中写真の合成図です。大船高校と、宅地造成後 家が建った状態です。


1979~1980年頃の長窪砦です。
大船高校(1983年開校)と宅地造成中です。
この状況では、高校でも宅地でも自動車が使えない場所です。この時点で初めて自動車が入り込める道路が造られた。
その道はどの様な道で有るのか?
鎌倉で一番大きな陸橋を作って対処した。
緑の砦痕跡に対し、大規模な造成工事で地肌が土色に現れた場所が確認できる写真です。
この長窪砦は、北の大船高校と南の長窪とが表裏一体で一つの砦として機能していると考えて居ますが、その表と裏の境界に切岸が在り、宅地造成で切岸は消滅した。
そんな理由で、、、
以後は表と裏の区別は無くなった。


1974~1978年頃の長窪砦です。
造成をされる前の状態であり、大船高校と長窪の間には切岸が在り、長窪には登れない地形でした。
大船高校の敷地は、鎌倉城特有な陣構で、
一方向から登って広場に立った敵を三方から弓で攻める馬蹄形の陣地に成っています。
屋敷を作るなら、守りとして三方を山に囲まれた屋敷を作り、
蒙古襲来で由比ヶ浜に上がった蒙古軍を、攻撃戦術として三方の山から襲う考えです。
それが、鎌倉城の根底にある戦術と遺構から推測するのです。
この馬蹄形の構造は、色々な場所で見られます。
その他に、谷の奥に向かいひな壇状になった構造も見受けられます。


1945~1950年頃の長窪砦です。
この当時の切岸の状態は、ステレオ写真として空中写真があり確認する事が出来る。
馬蹄形の砦構造が雛壇状に成っています。
台峰にもある砦形式です。
コメント
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