江之島には灯台(昭和20年代に建設)がありません。江ノ電は1910年(明治43年)開業。依って、この画像は明治43年から大正12年の間と考えられる。
下の写真は、道路脇の崖の状態です。
下の写真は 江ノ電が無い時代ですが、注目は道の広さに有ります。
・ 化粧坂より葛原ヶ岡神社に向かう旧道、
・ 大仏切通より手広に下る道、
・ 銭洗弁天から葛原ヶ岡神社に向かう山道(山崩れで通行禁止)、
・ 名越の切通の道、
これ等は、皆細い道です。
例外は、化粧坂の道や朝比奈の道が広いのですが、、、鎌倉時代より以前の道と考えられます。
これ等の道と崖の作られた時代は、、、
これ等の重機の無い時代の道路整備は、鎌倉時代以外は考えられない訳です。
更に、鎌倉時代には、広い道路を狭めて使う時代でこの広さは矛盾です。
これは、道路として考えると矛盾しますが、、元寇防塁としたら、
元寇の攻撃をこの平場で武士が弓を持って待ち構える。
更に、その後ろを敵が多い場所に向けて騎馬が疾走する!
その様な戦う為の平場と考えれば矛盾しない。
この山の裏には、騎馬を置ける場所として、鎌倉広町緑地が有ります。
長窪の砦、水堰橋上の台村の平場、更に広町緑地等、通常の守り主体の城とは異質。
攻撃が前提の城と感じます。
問題は、砂浜と道路の間の崖はどの様な、構造なのか?本来なら掘り返さないと判らない話がテーマです。