―――干潟の状態―――
●【太平記・稲村崎干潟事】
誠に龍神納受やし給ひけん。その夜の月の入に前々更に干る事も無かりける稲村崎、俄に二十余町干上って、平砂渺々たり。横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥の沖に漂へり。不思議と云ふも類無し。
【平沙】広々とした砂原。へいしゃ。
【渺渺】 広くはてしないさま。遠くはるかなさま
●【梅松論】「北条氏の滅亡」
爰にふしぎなりしは、稲村崎の浪打際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有し事。かたがた仏神の加護とぞ人申ける。
干潟=干潮の時・・土地が現れる 現象
古典では海水面より上に干潟が出来上がったと書かれています。
更に太平記では具体的に『二十余町干上って、平砂渺々』と書かれ、実際に当てはめれば、
坂ノ下から鎌倉市民プール迄の埋め立て地迄が干潟と成り、明治時代にその干潟を写した写真も存在する。更に関東大震災で1m隆起し、埋め立て地にする計画が始まった。
その実態は、10町在り、崖下の稲村路から100m程沖まで干潟が出来たと考えれば「横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥の沖に漂へり。」となり、、矢は200m程飛んでも、狙い撃ちは30m程ですから、効果は無かったと考えられます。
決して、古典の読解力が無い研究者が稲村ケ崎の脇の渡渉実験の様に水に漬かりながら歩いた訳では無く、霊仙崎1キロの波打ち際で幅100mが水面から浮き上がり、その上を由比ヶ浜に攻め込んだ と読みとれます。稲村路の場所が問題と成ります。
次は、稲村路の痕跡の話です。
詳細と写真は、カテゴリー「稲村ヶ崎伝説」をご覧ください。