「稲村路」と言う記載が古典には有ります。
●海道記(1223年頃)
「稲村と云う所あり。険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば、岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。申の斜めに、湯井の浜におちつきぬ。」
ぼ助訳)高い岩の(険しき岩の重なり臥せる)狭い道を降りれば(狭まを伝いいけば)浪打際に出る(岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。)
●太平記「南は稲村ヶ崎にて、沙頭路狭きに、浪打ち際まで逆茂木を繁く」 (ぼ助注)極楽寺に向かい敵が攻撃しないギリギリの場所まで近寄って偵察した状況で、針磨橋の辺りの状況と考えらえれる。依って稲村ケ崎=稲村路と解釈できる。
●梅松論では、「浪打際、石高く道細くして」
(ぼ助訳)波打ち際を通るのだが、石の高い処を細い道が通っている。
稲村路の特徴は、、、
「梅松論」より 石高く道細くして=石の高い場所を通っている。
「海道記」より 険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば=岩の高い場所を降りれば、波打ち際の道に成る。
上記の結果は、高い岩の上から浪打際に降り 其の後広い由比ヶ浜に出る道です。
「太平記」より、稲村路は波打ち際に降りる迄 逆茂木でバリケードを作って有った。
通説の稲村ケ崎の水際に稲村路の痕跡等無いのは、見れば理解できるでしょう。
更に、古典に書かれた「高い場所から降りる路」を作る場所も稲村ケ崎には無い訳であす。
如何でしょうか? 稲村路の痕跡が確認出来ますか?
赤紫のマークした場所です。
▪古典に書かれた状況と合致する場所に成ります。
下図の明治迅速図の青で①のラインは俗に言われた稲村ヶ崎の渡渉の場所。
上記赤い②の場所は、稲村路と想定するルートです。
埋め立て地は、関東大震災で1m浮き上がった岩礁の上であり、新田義貞が岩礁の上を攻め込んだ故事と矛盾しない場所に成ります。
次回は、この場所の公的な写真=国土交通省の空中写真と成ります。
詳細は、 カテゴリー「稲村ヶ崎伝説」をご覧ください。