東京パラリンピックが終わりました。
各選手が一生懸命に挑む姿は、多くの人びとの胸を打ちました。
メダルには届かなくても、自己ベストの記録を出したアスリートもいました。
先天的障害のある人、後天的な障害のある人、それぞれですが、選手が生きてきた道のり、経歴などをメディアは紹介してくれました。
これは、たいへん意味のあることだと思います。
アスリートの生きてきた道のりを人びとが知ることは、障害への理解を深め、共に生きる社会へ一歩近づくからです。
ただ、そのメディアの報道の中にも、気になることがありました。
それは、記録を出した選手をメディアが揃ってとりあげ、ニュースや記事にする、その方法です。
そのとりあげ方が、「(障害がある人なのに)がんばって努力を重ねて困難を乗り越え、結果を出した」と、ある選手をカリスマのようにしてしまうことがありました。
もちろんその選手が努力を重ねて、結果を出されたことは、称賛したいし、その努力に敬意をもちます。
そのことを十分に踏まえたうえで、もし「障害は個人の努力で乗り越えるものだ」というメッセージをメディアが世の中に発することになったならば、それは違うのです。
障害者問題は、個人の問題ではなく、社会の問題です。
障害者を生きづらくしているのは、社会のしくみの問題です。
たとえば車いすの人が駅の2階に上がれないのは、エレベーターがないからです。
介助犬を連れた人がレストランへの入店を拒否される、例は、そういう社会の慣習が残っているからです。
つまり、障害者問題があるのは社会に障害=障壁があるからです。
これを、研究者や専門家は「障害の社会モデル」と呼んでいます。
共生の実現のため、変わらなければならないのは社会です。障害者ではないのです。
このことをあらためて考えさせられたパラリンピックでした。