このごろ、日本では「多様性」という言葉が溢れています。
東京オリンピック・パラリンピックでは、「多様性と調和」を華々しく掲げていました。
「多様性」(diversity)とはどのようにしたら実現できるのでしょうか。
外国にルーツをもつ人、障害者、性的少数者などを社会へ取り込むだけで、多様性が実現するのではありません。
とかく排除されがちなマイノリティの声を傾聴し、マジョリティを中心にしてまわっている社会で、「少数者」=弱者とされてしまう社会のしくみを変えていくという意気込みと態度がなければ、共に生きることは実現しません。
そのためには、学校教育の中で、マジョリティ中心にまわっている社会に気づくことで、多様性を理解する教育が若い次世代に必要になります。
たとえば、障害者問題でなら、あえて「聞こえない人は聞かなくていい」というような問題のある考え方を児童生徒に示して学習にとりかかると、難聴の人と共生する多様性を理解することができます。
先日、わたしはライブを見に行きした。(運営の側はもちろん感染対策を万全に行い、密にならない安全対策をしていました。)
そのライブには車いすの男性も見に来ていました。ライブが終わり、観客が帰るとき、出演アーティストが舞台上から「見送る会」をしてくれました。
客席の構造上、車いすの人は通れないので、いちばん先に退出することになりました。
そのあとで、一列目の観客から順番にステージに近づき見送りをしてくれるのですが、出演者も含めみんなが一列目の人びとに注目して車いすの男性のことは視界に入っていません。
そのとき、車いす介助の運営スタッフが、すかさず手を挙げ、「ここにもいますよ」というメッセージを発しました。
すると、出演アーティストをはじめ、観客みんがハッとして、車いすの男性を注目し、その男性のことを「思い出し」ました。
アーティストからは、「(ご来場)ありがとうございました」という声がかかり、その人は会場をあとにしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
東京オリンピック・パラリンピックでは、「多様性と調和」を華々しく掲げていました。
「多様性」(diversity)とはどのようにしたら実現できるのでしょうか。
外国にルーツをもつ人、障害者、性的少数者などを社会へ取り込むだけで、多様性が実現するのではありません。
とかく排除されがちなマイノリティの声を傾聴し、マジョリティを中心にしてまわっている社会で、「少数者」=弱者とされてしまう社会のしくみを変えていくという意気込みと態度がなければ、共に生きることは実現しません。
そのためには、学校教育の中で、マジョリティ中心にまわっている社会に気づくことで、多様性を理解する教育が若い次世代に必要になります。
たとえば、障害者問題でなら、あえて「聞こえない人は聞かなくていい」というような問題のある考え方を児童生徒に示して学習にとりかかると、難聴の人と共生する多様性を理解することができます。
先日、わたしはライブを見に行きした。(運営の側はもちろん感染対策を万全に行い、密にならない安全対策をしていました。)
そのライブには車いすの男性も見に来ていました。ライブが終わり、観客が帰るとき、出演アーティストが舞台上から「見送る会」をしてくれました。
客席の構造上、車いすの人は通れないので、いちばん先に退出することになりました。
そのあとで、一列目の観客から順番にステージに近づき見送りをしてくれるのですが、出演者も含めみんなが一列目の人びとに注目して車いすの男性のことは視界に入っていません。
そのとき、車いす介助の運営スタッフが、すかさず手を挙げ、「ここにもいますよ」というメッセージを発しました。
すると、出演アーティストをはじめ、観客みんがハッとして、車いすの男性を注目し、その男性のことを「思い出し」ました。
アーティストからは、「(ご来場)ありがとうございました」という声がかかり、その人は会場をあとにしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このエピソードについて、学習者(児童生徒)がどう思うかをの考えをや意見を交流する学習をすればいいのです。
わたしは、このスタッフのとった行動とアーティストの対応が身近な多様性の尊重であると考えます。
このエピソードを教材にすると、「自分で歩けないなら、ライブに来なくていい」ではなく、「自分で歩けなくても、ライブに来ることができる」という学びから、多様性を理解することができます。